ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

丸谷才一さんを悼む。

2015-10-24 | 純文学って何?
 3年まえに書いた丸谷才一への追悼文を再掲します。
 丸谷さん、三島由紀夫、吉本隆明はほぼ同年齢で、「昭和」と同い年なんですね。この3人の文学者が、それぞれまったく相反する個性をもっていることは、「昭和」ってものの複雑さを物語っている……とは思うけど、この短いエッセイはそこには深くは踏み込んでません。例によって自分のことを引き合いに出して、なんかごちゃごちゃ言っております。しょうもない自分語りもええかげんにせい、と今読み返すと思いますけども、文学ってものは自分との関わりのなかで考えなければ意味を持たないこともまた確かで、なんというか、量子力学的と申しましょうか、そういう点ではやはり鬱陶しくも面白いジャンルであるとは思います。それでは、前置きはこれくらいにして、本文どうぞ。


丸谷才一さんを悼む。
初出 2012年10月15日



 ぼくは恩師というものを持たない。大学に在籍していた頃は、ごく一部の先生にはたいそう目をかけて頂いた反面、ほかの大多数の方々からは明らかに疎んじられていた。ナマイキだったせいだろう。文学部の教授なんて、ものすごく優秀な人が一割で、そこそこ優れた人が一割、ごくふつうの人が一割、あとの七割はろくでなしだと思ってたもんで、そういう気持が態度に出ていたのだと思う。
 ともあれ師匠というのは書物の中に求めるほかないと決め込んでいた。それは今も変わらない。とはいえ問題は、誰を師匠に選ぶかだ。もっとも心を惹かれる著作家をひとり述べよと言われたらニーチェを挙げるが、しかしニーチェの著作をそのまま師として仰ぐわけにはいかない。時代も違えば文化圏も違う。何よりも、テンションが高すぎ、思考のレベルが高尚に過ぎて軽々には近寄りがたい。あまり適切な比喩ではないけれど、ニーチェに対するぼくの姿勢は師弟というよりむしろ教祖と信者に近いかもしれない。エキセントリックで破天荒なところも、教祖たる資格たっぷりだ。そんな教祖のご託宣をストレートに実生活において実践すれば、少なからず厄介な事態になるだろう。

 生身の当人ではなしに、その著述を師と見なすにせよ、やはり肌に馴染むのは年長ではあれ同時代を生きるニッポンの批評家ないし思想家ってことになる。そういう意味では柄谷行人がそれに該当するだろう。文庫になったものはおそらく全部読んでいる。柄谷さんを耽読するまで、世界史や哲学史といったものはぼくにとって無味乾燥な教科書のなかの記述でしかなかった。現代思想のこともよく分からなかった(今だって別にそれほど通暁しているわけでもないが)。オーバーにいえば、「世界認識の方法」の基礎をぼくは柄谷さんから学んだのだと思う。
 しかし、いかなる優れた思想家や作家にも欠落や偏向は当然ながらあるわけで、柄谷行人をいくら読んでも得られないものはたくさんある。というか、特定の著作家に惑溺することで確実に何かを喪失していくということさえ起こりうるのだ。それで、あくまでも「今になって思えば。」ということなんだけど、そのような喪失を補ってくれたのが丸谷才一の一連のエッセイであった。だからぼくにとってのもう一人の師匠は丸谷さん(の本)だったってことになる。

 高2のとき、「同時代のもの」としてぼくが生まれて初めて夢中になった評論集が小松左京の『読む楽しみ 語る楽しみ』だったことは以前に書いた。そのあと吉本隆明の『共同幻想論』に出会ってショックを受けたことも併せて書いた。柄谷さんを読むようになったのはその流れだが、記憶を再構成してみると、角川文庫の『共同幻想論』と相前後して、高校の最寄りの同じ書店で中公文庫の『遊び時間』を買っている。
 吉本隆明と丸谷才一は共に大正末期の生まれでほぼ同年齢だけど(ちなみに三島由紀夫も同期)、考えてみたら笑っちゃうくらいこのお二人の紡ぎ出す世界の像は異なっている。吉本さんはどこまでも深刻で重くて理屈っぽくて晦渋。丸谷さんはあくまでも軽妙で洒脱でしなやかで明快。軍国主義の空気を吸って幼少青年期を過ごし(丸谷さんには従軍経験があり、吉本さんにはない)、強靭な思索力を備えた桁外れの読書家という共通点を持ちながら、よくぞここまで違った知的人格が形成されるものである。そして、柄谷さんはもちろん吉本さんに近い。文体は遥かにクリアで明晰ではあるが、タイプとしては吉本派だ。

 『共同幻想論』が、いわばマルクスの『資本論』みたいに一定の構想に従って資料を集めて練り上げられた論考であるのに対し、『遊び時間』は丸谷さんがあちこちの媒体に書いた評論や文学エッセイを集めたいわゆる「吹き寄せ雑文集」だった。だから思春期の生意気盛りのぼくははっきりいって軽く見ていた。『共同幻想論』は襟を糺してきちんと読むもの、『遊び時間』はいわば上質の暇つぶしくらいに思っていたのだ。何しろタイトルからして「遊び時間」だし。
 しかし、結果としては「勉強になった。」という点でいうならむしろ丸谷さんの本のほうが上だった。2年後に出た『遊び時間②』は発売後ただちに買っている。脂の乗りきっていた山藤章二さんの瀟洒な表紙が懐かしい。その後も、『みみづくの夢』『ウナギと山芋』『山といへば川』『コロンブスの卵』『鳥の歌』『雁のたより』と、丸谷才一文芸エッセイは文庫になるたび目につくかぎり片端から買った。このタイトルの付け方を見ても、丸谷さんがいかにくだけたお人柄をもつ知識人だったか推し量れようというものだ。間違っても「丸谷才一文芸評論集」なんて堅苦しい題は付けない。その手の野暮を徹底して排した。

 いま手元にヤケて色の変わった『遊び時間』①②を置いてぱらぱらと捲り、ちょっと驚いているのだが、もしかするとぼくがボルヘスやジョイスの名前を初めて知ったのはこの本からだったかもしれない。石川淳や埴谷雄高の名に親しんだのも、シェイクスピアの凄さを教えられたのも、英文学史の輪郭を分かりやすく学んだのも、すべてこの本からだったかもしれない。かもしれない、ではなくて、ひとつ断言できるのは、本邦の古典(とりわけ和歌)のすばらしさを最初に教わったのは間違いなくこの本からであったということだ。
 総じていえば、文学の教養の基礎と、伝統というものの大切さとを学んだ。体裁は「吹き寄せ雑文集」だけど、中身はとうていそんなものではなかったわけだ。そうか。紛れもなく丸谷才一は、ぼくのお師匠さんだったんだなあ。もちろん、向こうはぼくのことなど微塵もご存じなかったけれど。
 そして、それらの「知識」そのものよりもっと重要なこととして、何よりもエッセイの文体に関して、はっきりとぼくは影響を受けている。早い話このブログの文章がそうだ。できるだけ柔らかく、しなやかに書く。例えば丸谷さんは、「◎◎的」という言い回しをめったに使わない。「本格的に」というところを「腰を据えて」もしくは「きっちりと」「じっくりと」といった具合に崩していく。一事が万事。ぼくもなるべくそのように心がけている。

 先に柄谷行人のことを「タイプとしては吉本派」と述べたけれども、ある意味では、日本の作家なり批評家たちは、ほぼ全員がいわば「吉本派」なのである。深刻で重くて、理屈っぽくて晦渋。でもって、何となくじめじめ湿っぽい。それは近代日本の成り立ちおよび進み行きがそのような姿勢を知識人たちに強いたことを意味するが、多くの大新聞の追悼記事が述べているとおり、丸谷さんはこういった日本の風土に対して「たったひとりの叛乱」を企てた(厳密にいえば、石川淳、吉田健一といった先達もしくは同士格の文士たちも幾人かおられたわけだけど)。それはこのうえなく小粋で優雅な、それでいて、したたかな闘いであった。そうやって開かれた風通しのいい地平の中から、村上春樹、池澤夏樹、堀江敏幸らが現れたのである。この功績はいくらでも強調されてもいいように思う。

 ただ、最後にひとつ言いづらいことを言ってしまうと、ぼくは如上のとおり丸谷さんの評論やエッセイ、さらに翻訳には多大な恩恵をこうむっているが、小説とはいまひとつ相性がよくないのであった。愛読したといえるのは『輝く日の宮』と『横しぐれ』くらいである。それらの二作も、むしろエッセイの延長ないし変奏として興味ぶかく読んだ。作家としての丸谷才一を、けっしてぼくは高く評価してはいないのだ。
 代表作とされる『笹まくら』にしても、過去(徴兵忌避をして日本各地を逃げ回っていた戦時中の日々)と現在(大学のしがない事務員として、時代の空気に翻弄される日々)とを鮮やかに交錯させて描く手法の見事さに舌を巻いたが、砂絵師に身をやつして全国を放浪する主人公の描写があまりにも上品すぎ、甘すぎるように感じた。丸谷流「市民小説」の限界が露呈していると思えたのだ。徴兵忌避者として命がけで(捉まれば憲兵に虐殺されかねない)逃げ回る彼は「市民」の域を逸脱しているはずなのに、丸谷さんの筆はそんな彼をあくまでも「市民」として描こうとする。むろんそれが作者の揺るがぬ方針なのだが、どうしてもぼくは、物足りなさを禁じえなかった。

 「市民」にこだわる丸谷さんの審美眼は、大江健三郎が認めなかった春樹さんをいち早く評価するいっぽう、中上健次という異形の作家に対してはきわめて冷たく働いた。中上が終生憧れながらついに「谷崎潤一郎賞」を受賞できなかったのは、丸谷才一選考委員の強い反対があったからだと聞いている。それはまあそうだろう。中上健次は、市民だなんだという枠組自体を爆砕しちまうような文学者だったから。それを丸谷さんが拒絶したのは当然だと思う。ただ、一つだけ問いかけを書き添えておきたい。丸谷さんの小説と中上健次の小説とを読み比べた時、どちらがより洗練されて巧緻で知的であるかは誰の目にも明らかであろうが、しかし、より烈しく深くあなたの魂を揺さぶってくるのは、果たしてどちらの小説だろうか? とりわけ若い人たちに、このことを訊ねてみたい気はする。





吉本隆明について。

2015-10-24 | 純文学って何?
 このところ、古いブログからブンガク関係の記事を引っ張ってきてるんだけど、まとめて読み返してみると、なんか必ず自分のことを書いてるんですよね。高2の夏にブンガクに嵌まって理系の成績が急落したとか、そればっか書いてて、われながら「もうええ!」という感じですね。「いつまでおんなじことを言うとんねん。だれもお前のことなんか聞いてへんぞ」というね。なぜか大阪弁でツッコミを入れたくなりますね。やっぱツッコミは大阪弁のほうが効果的やろ。ともあれ、これはどういうことかといいますと、もとのブログではべつに文学の話ばかりじゃなくて、政治とかドラマとか、いろいろ扱ってたわけですよ。で、文学ネタにせよそれに纏わる自分の思い出話にせよ、そういった話題はほどよく間をあけて点在してたわけ。それがここではまとめて並べられてるもんで、どうしてもくどくなっちゃってるんだな。
 でまあ、あとふたつ、吉本隆明さんと丸谷才一さんへの追悼記事を引っ張ってきます。これでだいたい、旧ブログでやってた「作家案内」シリーズはほぼ網羅したことになりますね。ここでもまあ、例によって高校時代の話をやってますけど、上記のごとき事情ですんで、そのてんはどうかご寛恕を願います。では。




吉本隆明について。①
初出 2012年03月16日


 高校に入る頃には読書欲が爆発的に膨らんでおり、年がら年中、書籍費の捻出に苦慮することとなるのだが、本格的な文学青年と化したのは高2の夏休み前くらいである。それまでは理系志向で、小説などはいかに面白くとも所詮は暇つぶしであると思っていたのが、がぜん「文学こそ我が天職なり。」といった勢いになってしまった。やはりそれだけ屈折し、内面が過剰になっていたのであろう。学校の図書館にあった「新潮現代文学」全80巻を片端から読み耽り、自分でも何やら創作めいたものをノートに書き綴ったりもし始めるのだが、その一方、小説ならざる「評論」「批評」といった文章への関心も高まっていた。ところがしかし、どうにもこれが、何を読めばいいやら分からない。

 かるいエッセイ風のものはあっても、骨っぽい評論や批評は図書館にもさほど見当たらなかった。当時、文庫で手軽に買えるその手の文章といったら小林秀雄くらいだったが、この人はたしかに達人だとは思うけど、気取りまくって肝心なことを語ろうとしないあの口ぶりにはいつも苛々させられた。いまだにぼくは小林秀雄が好きになれぬし、あのような人がニッポンの近代評論における神と崇められていることは、わが国の文化の大いなる歪みを示していると思う。むしろ中村光夫のほうが地味な分だけ偉いのではないか。ともあれ、いずれにしても小林秀雄は扱っている対象があまりも古くさかったし狭すぎた。少なくとも当時のぼくにはそう思えた。もっと現代世界を丸ごと把握し、解析するような文章が欲しかったのだ。

 「世界を丸ごと把握したい。解析したい」という切望に駆られるのは知的好奇心に目覚めた十代の若造ならば必ずや一度は通る道であり、まあ高2病と言ってもいいかと思うが、しかし思春期にこの種の熱狂を経ずして、人間、何が万物の霊長かとも思うわけである。70年代初頭辺りまでのまじめな学生であれば、あるいはここからマルクスに行ったのかもしれないが、幸いにしてこちとらが高校生活を謳歌していたのは80年代バブル前夜、政治の季節は過ぎ去っていた。その頃に高校の最寄りの書店で出っくわしたのが小松左京『読む楽しみ 語る楽しみ』およびその続編たる『机上の遭遇』(共に集英社)の二冊である。これがおそらくぼくが最初に「同時代のもの」として夢中になった評論文だ。

 今にして思えばあれは、小松さんが親しい作家の文庫巻末に書いた「解説」を中心に編んだ書評集であり、まあ安直と言っちゃあ安直な企画だったのだが、当時のぼくにはそのようなことはわからない。座右に置いて繰り返し読んだ。実際、とても勉強になったのである。ほかに何冊か買ってよく読んだのは青土社が出している「ユリイカ」のバックナンバーだ。これも大いに勉強になったが、しかしこれらはいずれも小説でいえば「アンソロジー」であって、一冊まとめてひとつの確固たる世界観を表した書物ではない。高3の時分には、その点に物足りなさを感じてもいた。

 角川文庫で、杉浦康平+赤崎正一による荘重な装丁の『共同幻想論』『言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ』『心的現象論序説』の四冊が刊行されたのはその頃である。言わずと知れた吉本隆明の代表作だ。吉本隆明の名を目にしたのはそれが初めてではあったが、店頭で内容を一読し、それがたいへんな書物であり、今の自分にとって何よりも必要なものであることはすぐに分かった。しかもそれらが、一冊当たり五百円で数十円のお釣りが返ってくる程度の値段で買えるという。夢ではないか、と首をひねりながらレジへと急いだものである。

 ひとことでいうとこの四冊は、それまでに読んだどのSFやミステリや純文学よりも面白かった。脳のまったく異なる部分を活性化させられている感じとでも言おうか。とくにこのうち、中上健次の卓抜な解説の付いた『共同幻想論』は、文字どおりページの端が擦り切れるまで読み返した。あの時の吉本さんとの出会いによって、ぼくはいよいよ深みに嵌り込み、分際も弁えずにニーチェだの現代思想だのといった厄介なものに惹きつけられる羽目にもなって、30年近くののちにこのようなブログを書き綴ることにもなるわけだが、今朝のニュースでその吉本さんの訃報を聞かされた。それで取り急ぎ、時間を見つけてこんなものを書いた次第である。ご冥福をお祈りいたします。次回はもうすこし長く吉本さんのことを書きたい。


吉本隆明について。②
初出 2012年03月23日


 こんなことを書くのは不謹慎だと言われるならばお詫びするけれど、各新聞社は、もうずいぶん前から吉本隆明さんの訃報の草稿を用意していたんじゃないかと思う。見出しは「戦後最大の思想家」で決まり。サブで「全共闘世代の教祖」と附ける。本文はまあ、時代ごとに「転向論」だの「共同幻想論」だの「言語にとって美とはなにか」だの「最後の親鸞」だの「マス・イメージ論」といった単語を散りばめてむにゃむにゃやって、「若い世代にはよしもとばななさんの父親としても知られ」とか「つねに庶民の中に身を置き」なんて下らないこともついでに添えて、あと、弟子筋に当たるあの人とこの人とその人とに三行コメントをもらって一丁上がり、といった感じだ。ぼくは昨年の四月から新聞を取ってないので定かでないが、おおむねそんな按配だろうと想像はつく(だからこそ、新聞を取るのを止めたわけだけど)。

 吉本さんが「教祖」としていちばん輝いていたのはニッポンが貧しかった時期だ。つまりソ連型のマルクス主義がわが国においてもまだ「ありうべき選択肢」としてリアリティーを保っていた頃だ。吉本さんは「そんなものは虚妄だよ」と言挙げし、その言挙げを裏打ちすべく理論的な著作と政治的発言を量産することで、主に「新左翼」と称された人たちのあいだでカリスマ的な人気を誇った。「政治の季節」が過ぎ去って、ニッポンがバブル景気に沸き立つと、だから吉本さんは何も言うことがなくなった。80年代半ば以降の吉本さんは、ぼくに言わせりゃ「ばななパパ」というよりむしろ「バカボンパパ」である。バブル経済に対しても「これでいいのだ」、消費社会も「これでいいのだ」、原発に対しても「これでいいのだ」。結局はそれ以外のことは言ってない。なんといっても親鸞上人ですからね……。ただ戦争に対してだけは「賛成の反対なのだ」と言っておられたようだが、それも「国が軍隊を持つのは良くない。ただし、国軍が解散して、人民が自衛のために軍を持つ、つまり人民軍なら全然OKだぜ」みたいなことを言い出して、小林よしのりさんあたりに嘲笑される始末であった。なんというかもう、頭の内部で「知の解体」が始まっていたというよりない。それが晩年の吉本隆明という人なのだった。

 ネットで見た吉本評の中でかなり秀逸だと思ったのは、「吉本隆明は、かつての新左翼たちが現状肯定の新自由主義者に移行するモデルケースとなり、しかもその《転向》を理論武装した。だから糸井重里のような男があれほど持ち上げたのだ。」というものだった。その通りだと思う。朝日や毎日の中にその程度の指摘ができる記者がいたなら、ぼくも新聞購読をやめたりなんぞしなかったんだけど。ともかく、はっきり言って、その肉体の医学的な衰滅のずいぶん前に、思想家としての吉本隆明は死んでいた(ただ、ご本人の名誉のために申し添えておくと、文芸批評家としてはいくつか良い仕事を遺されている。書評集『新・書物の解体学』などは、いろいろと示唆に富む文章を含んだ好著だと思う)。吉本さんが「戦後最大の思想家」と呼ばれるに値する著作家であるとするならば、それは70年代後半までの仕事に対してである。ごく簡単ながら、そのことについて考えてみたい。

 前回の記事でも書いたとおり、ぼくは高3のときに学校の最寄りの書店で角川文庫版の『共同幻想論』に出くわして、ほんとうに大きな影響を受けた。あの時に『共同幻想論』に出会ってなければ今頃は……いやまあ、どうなっていたかは分からないけれど、少なくともこんなブログをやってなかったことは間違いない。しかしいま、ほぼ十数年ぶりに書棚の奥から引っ張り出して読み返してみると、正直、よく分からなかった。ウィキペディアの「共同幻想論」の項に、「難解というより曖昧な書物」と書いてあるのはまったく言いえて妙だと思う。「国家は幻想である」というテーゼは確かにショッキングに違いないけれど、しかし、この論考によってそのことが真に立証されていると言えるのだろうか? 柳田國男の『遠野物語』と『古事記』だけにテクストを依拠して、それで国家の本質が暴けるのか? もし仮に「国家の起源は共同体の幻想にあった」ということが証明できたにせよ、それが数千年という歳月を経て、われわれの住まうこの近代社会にまで適用できる保証はあるのか?

 また、実際にこの近代国家が幻想の産物だとしても、それでもやはりぼくたちは、この国の法律や政治や制度や教育や市場や環境によって拘束を受けているわけで、ただ幻想性を喝破しただけでは、たんに認識の転回にすぎない。現実に立ち向かう力をそこから得られるわけではないだろう。そんなことも考えた。つまり、あまりにも初歩的なところでいっぱい疑問にぶつかっちまったわけである。こうなると、以前この本のどこにそれほど感動したのか、自分がいささか不安になってくる。思い返せば、高3のぼくが感動したのは、この本の内容それ自体よりも、ひとりの人間が自分の脳髄だけを頼りにここまで広くて深い考察を繰り広げているという、その営為そのものに対してであったようだ。その志の高さと腕力に感動したのだ。こんな試みは前代未聞だろうと思っていた。マルクスの相棒エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』という論考を残しているのだが、そのことを当時のぼくは知らなかった。

 ひとつ言い添えておくと、だいたい「岬」くらいから後の中上健次はこの『共同幻想論』からものすごく影響を受けている。むろん中上の場合はそこから遡行して柳田や折口信夫を貪り読み、じっさいに熊野の深奥にも踏み入って、巨大な物語世界を繰り広げていったわけだが、それをも含めて、「オリュウノオバ」が登場する彼の一連の作品は、「共同幻想論」なしには考えられない。つまり『共同幻想論』はやっぱり文学書としてはたいへんなものだし、ぼくも小説を書く人間としては今もなお確かに刺激を受けるのだが、しかし、これが政治学ないし歴史学ないし民俗学の論文として世界に向けて翻訳されるべきものかと訊かれれば、どうにも首を傾げざるをえない。そもそも翻訳が可能だろうか? 吉本さんの文章は用語が我流で論旨に独特の飛躍がある。例えば丸山眞男や加藤周一の文章ならばほとんどそのまま欧文脈に移調できると思うのだが、吉本さんはそうではない。たぶん翻訳はされてないだろう。「世に倦む日日」さんが、「なんで吉本隆明が世界水準の思想家なのか。世界水準なら、欧米の学者が競って訳しているはずだ」と難詰しておられたけれど、それは確かにそうだと思う。吉本隆明が世界レベルなんて、日本人しか言ってないだろう。「黒澤明が世界レベル」とか「イチローが世界レベル」というのとは違う。海外における実績がない。

 「世界レベル」はともかくとして、ではしかし「戦後最大の思想家」というキャッチコピーはどうなのか。そのまえに、そもそも「思想家」ってなんなのよ?という問題がある。和英辞典で「思想家」と引くと「thinker」だと書いてある。しかし英米の辞書をひもとけば、たとえばサルトルは「実存主義を唱えたマルクス主義哲学者」である。フーコーは「哲学者・社会歴史学者・政治的実践家で、後年には、クィア理論のアイコン」だ。アドルノは「文化批評家・哲学者、フランクフルト学派の主要メンバー」、サイードなら「文芸批評家・ポストコロニアル理論の主導者」といった按配となる。ぼくが調べたかぎりでは、「thinker」などというたいそうな肩書きを明記されている著作家は、かのマルクスとヘーゲルの二人しかいなかった。ニーチェですら、「哲学者」に留まっている。それくらい、「思想家」という呼称はハードルが高いのだ。

 近代ばかりか中世・古代の昔から、海外からの輸入によって文化を発展させてきたわが国のばあい、話はさらに輪をかけて厄介である。ニッポンにおいて思想家とは何か、さらにまた、ニッポンにおいて思想とは何か、という問題になってくると、とてもじゃないがブログ二、三本分の記事で扱えるものではない。ただ、吉本隆明について考えていくと、どうしても話がそこまで及んでしまう。

 たとえば戦後日本を代表する知識人といえば先に名を挙げた丸山眞男、加藤周一といった方が思い浮かぶ。戦後日本を代表する碩学といえば井筒俊彦、大塚久雄あたりだろうか。しかし皆さん、どこか「思想家」という呼称にはそぐわない気がする。アカデミズムの枠内(もしくはその近傍)に身を置き、節度を保っておられたがゆえに、やはりこれらの方々は「学者」であり「評論家」なのだ。吉本隆明はもっとずっと下世話で雑駁だった。大和書房という出版社から80年代の半ばに出た「吉本隆明全集撰」は、「共同幻想論」「言語にとって美とはなにか」「心的現象論」などの主著を除いているにも関わらず、一巻当たり600ページ前後に及ぶ全七巻のボリュームである。吉本さんはここで、詩を論じ、宮沢賢治や横光利一や小林秀雄を論じ、政治を論じ、マルクスを論じ、聖書(マタイ福音書)を論じ、天皇を論じ、西行を論じ、マスメディアを論じている。それらの考察のすべてが的を射ているとは思わぬけれど(むしろ異議を呈したい考察のほうが目に付くけれど)、それでもやっぱりこのエネルギーは驚異的だ。

 いま大学で思想をやっている20代の俊英などから見れば、「言語にとって美とはなにか」はソシュール以前の、「心的現象論」はラカン以前の幼稚な議論としか思えないだろう。「共同幻想論」は類書がないのでよく分からないけれど、マルクスの唱えた《上部構造》の概念を批判した論考として見るならば、「それならフランクフルト学派がはるかにきっちりやってますよ。」という話になるんじゃなかろうかと思う。つまり、吉本さんの全盛期、すなわち70年代後半までの仕事はほとんど乗り越えられてしまっていて、あとはただ、バブル経済を「超―西欧的」と見なしたバカボンパパだけが佇んでいる、ということにもなる。

 しかし、かつて『共同幻想論』一冊によって《知の快楽》に目覚め、なんとなく道を誤ってしまった往年の高校生としては、どうしてもそれだけで話を終えたくはないのだ。吉本さんの「とにもかくにも自分のアタマで考える。自分ひとりの力で世界を丸ごと把握する」という異形の情熱は本物だったし、その情熱の強度において吉本さんは傑出していた。「戦後最大」かどうかは留保するにせよ、このニッポンにあって、思想家、と呼ぶに値する稀な著作家だったとは思いたい。


 追記) その後、ウィキペディアで確認したら、『共同幻想論』は日本人の手によってフランス語に訳されているそうな。ちょっとびっくり。



狼は生きろ 豚は死ね ~戦後史の一断面

2015-10-24 | 政治/社会/経済/軍事
 「狼生きろ 豚は死ね」という警句は、わりと人口に膾炙しているようだ。ただ「狼は生きろ 豚は死ね」と思っている人が多いのではないか。一般にはこちらのかたちで流布している。グーグルで検索を掛けると、「狼は生きろ 豚はしね」などと、なぜか平仮名で出てきたりする。

(追記 2019.11.  サンドウイッチマンの富澤たけしが、かつてこのタイトルでブログを書いていたことを最近になってようやく知った。それと共に、ぼくのこの記事に妙にアクセスが多い理由もわかった。みんなホントにお笑いが好きだね。まあぼくもサンドは大好きですが)

 ともあれ本来は、「狼生きろ 豚は死ね」が正しい。「オオカミイキロ・ブタハシネ」で、七五調なのである。古代の長歌、中世の和歌から江戸の俳諧、近代の短歌へと至る日本古来のリズム(韻律)に則っているわけだ。

 これが「狼は生きろ~(以下略)」に転化したのは、高木彬光の原作をもとに作られ、カドカワ映画が1979年に公開した『白昼の死角』の宣伝用テレビCMにおいて、渋い男性ナレーターの声で「狼は生きろ、豚は死ね。」とのキャッチコピーが繰りかえし流されたからである。ついでにいえば、主演は松田優作ではなく夏木勲(夏八木勲)だ。

 若い人はご存じあるまいが、気鋭の社長・角川春樹ひきいる当時のカドカワ映画の勢いたるや誠にすさまじいもので、その宣伝攻勢も、ちょっとした社会現象を形成しかねぬほどだった。ぼくなども、じっさいに劇場に足を運んで本編を観たことはないが(小学生だったんでね)、テレビで見かけた予告映像だけは今でもよく覚えている。『犬神家の一族』(1976年公開)の、湖面から二本の脚がニョッキリと突き立っているイメージなど、忘れようとしても忘れられるものではない(のちに同じ市川崑監督によってリメイクされた)。

 口に出せば分かるが、「おおかみはいきろ」と一息で言って読点(、)を挟むと、これが8文字で「字余り」になっていることは気にならず、わりとしぜんに「ぶたはしね」に続く。やはり助詞を省くと気持がわるいこともあり、むしろ「おおかみはいきろ、ぶたはしね」のほうが語呂がいい気さえする。

 こちらのほうが広まったのも当然かと思えるが、とはいえ本来はあくまで「狼生きろ」なのである。さっきから本来本来と何をしつこく言っているのかというと、ちゃんと元ネタがあるからだ。1960年、28歳の青年作家・石原慎太郎が劇団四季のために書きおろした戯曲のタイトルなのである。それをカドカワ映画(の宣伝部)が約20年後に引っ張ってきて、一部を手直ししたうえで使ったわけだ。

 しかも、字句が変わった以上に重要なのは、意味そのものが変わってしまったことである。時あたかも「60年安保」の真っただ中、弱冠28歳で、まだ政治家にはなっておらず、しかもしかも、にわかには信じにくいことだが「革新」のサイドに身を置いていたシンタロー青年は、「既存の体制の上にあぐらをかいた醜い権力者ども」を「豚」に、「それを打ち倒す真摯で精悍な若者たち」を「狼」になぞらえていたらしいのだ。

 らしい、とここでいきなり私も弱気になってしまったが、これは当の芝居を観たこともなく、新潮社から出たそのシナリオ版を読んだこともないからだ。つまり原テクストに当たっていない。原テクストにも当たらぬままにこんなエッセイを書いてしまうのは、研究者としてあるまじき態度ではあるが、しかしあの小保方さんに比べればはるかに罪は軽いと思われるのでこのまま続けることとする。そもそもよく考えてみると私はべつに研究者でもないし。

 原テクストに当たらぬまま、ネットで調べた資料を頼りにいうのだが、「狼生きろ豚は死ね」の「豚」はもともと「既存の体制の上にあぐらをかいた醜い権力者ども」で、「狼」は「それを打ち倒す真摯で精悍な若者たち」のことだった。大事なことなので二度言いました。

 それが今では「豚」は「弱者」で「狼」は「強者」、すなわち「弱肉強食」の意味で使われている。『白昼の死角』は、戦後の世相をさわがせた大がかりな詐欺事件(光クラブ事件)を題材に取った作品である。今ならばさしずめ、「振り込め詐欺」にやすやすとひっかかる「情弱」の民衆が「豚」で、「それをまんまと誑かす連中」が「狼」といった感じか。

 それはむしろ「狐」か「狸」ではないかという気もするが、いずれにせよ、本来の内容が転化して、「狼は生きろ、豚は死ね。」が「弱肉強食」を指すようになったのは、『白昼の死角』のみならず、当の石原慎太郎じしんの存在も大きい。

 戯曲のタイトルだとは知らずとも、この文章の出どころはシンタローだよってことだけは何となくみんな知っており、あのシンタローが言うのなら、そりゃ「社会的弱者はとっとと死ね。んで、強ぇ奴だけ生き延びろや」ってことだよなあと、誰しもが思ってしまうのである。

 それはつまり、かつて大江健三郎らと連帯をして「若い日本の会」などの活動をしていた石原慎太郎が、自ら政界に進出し、そこで現実の政治の汚泥にまみれることによってどう変節していったかの好例であるし(まあ、ああいう人格は根本のところでは何も変わっていないのだろうが)、さらにまた、戦後のニッポンそのものの変節をあらわす好例でもあろう(まあ、この国も根本のところでは……以下略)。

 さて。じつはこの稿、「旧ダウンワード・パラダイス」に発表したものがもとになっている。それを新たに書き直しているのだ。ここまでの記述と重複するところもあるが、より詳しく書いてあるので、以下、元の稿をそのままコピーしよう。





 「狼生きろ豚は死ね」というフレーズを、ぼくは長らく誤解していた。しかもその誤解は、かなり多くの人々に共通のものではないか……。この字面をパッと見たら、誰しもが「弱肉強食」という成句を連想する。ましてや政治家シンタローの「差別的」言動をさんざん見聞きしてきたわれわれならば……。もう少し知識のある人なら、「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ。」なんて文句を思い浮かべて(じっさいのソクラテスは、まあ、太っていたと言われているが)、「豚」とはたんに「捕食動物」の意味ではなくて、「ただ漫然と日々を生きている人。俗物」の寓意と考えるかもしれない。その伝でいくと「狼」は、「明確な目的意識にのっとって、毅然たる態度で日々を送っている人」みたいなニュアンスになろうか。じつはニーチェも、『ツァラトゥストラ』の中で、これに近い使い方をしている。

 「狼生きろ豚は死ね」は、浅利慶太が主宰する劇団四季のために、若き日の石原氏が提供した戯曲のタイトルである。じつは氏はこれを梶原一騎原作の劇画から取ってきたのだという説もあって、そういうことがあってもおかしくないとは思うが、確認はできない。しかし先述のニーチェの事例を除けば、ほかにネタ元と思しきものが見当たらないのも確かだ。このとき石原氏はまだ28歳。「太陽の季節」で一世を風靡してから四年のちだが、まだまだ青年といっていい年齢だ。

 時はあたかも1960(昭和35)年。まさに安保闘争の年である。GHQ占領下での数々の怪事件を取り上げた松本清張の「日本の黒い霧」が文藝春秋に連載されていた年でもあった。戦後史において際立って重要な年度に違いない。5月19日に強行採決、6月10日にハガチー来日(デモ隊に包囲され、翌日には離日)、6月15日が「安保改定阻止第二次実力行使」で、国会をデモ隊が取り囲む。あの樺美智子さんはこの時に亡くなった。新安保条約は19日に自然承認されるも、その代償のように、岸内閣は7月15日に退陣を余儀なくされる。

 「狼生きろ豚は死ね」は、このような空気のなかで書かれ、上演されたわけだけど、それが「キャッツ」やら「オペラ座の怪人」などの商業演劇に専心している現今の劇団四季からは考えられない作品であったことは容易に想像がつく。しかしそもそも、なぜ石原青年が戯曲なんぞを書いたのか。ちなみにこのシナリオは、1963年に『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』として新潮社から出ている。60年代から70年代初頭くらいまでは、小説家がけっこう戯曲を書いており、それがまた単行本として出版されていたのだ。出版物としての戯曲が商業ベースに乗っていたらしい(今に残っているのは、井上ひさしを別格として、三島由紀夫や安部公房など、一握りの人のものだけだが)。「文壇」と「演劇界」との垣根が今よりずっと低かったのだろう。しかしさらに調べていくと、石原のばあいは、たんに「浅利慶太と仲がいいから頼まれた。」という話ではなかった。

 石原慎太郎青年は、1958(昭和33)年に「若い日本の会」という組織を結成している。この会のメンバーが今から見ると瞠目すべき顔ぶれで、大江健三郎、開高健、江藤淳、寺山修司、谷川俊太郎、羽仁進、黛敏郎、永六輔、福田善之、山田正弘等々とのこと。福田・山田両氏のことはぼくはまったく存じ上げぬが、ほかの方々の名はもちろんよく知っている。いずれも各々のジャンルで一家をなした、錚々たる文化人である。しかし1958年の時点では、いずれも20代かせいぜいが30代で、新進気鋭というべき年齢だった(ここで列記した人名はウィキペディアからの引き写しなので、フルメンバーを網羅しているかどうかは定かでない)。そして、浅利慶太もまたその中の一人だったのだ。石原氏の「狼生きろ豚は死ね」と同じ時期に、寺山修司も「血は立ったまま眠っている」を書き下ろして劇団四季に提供している。ただしこの時点での寺山は、大江・開高・石原といった芥川賞作家たちに比べ、ほとんど無名の一詩人に近かったらしいが。

 顔ぶれの豪華さから考えて、この「若い日本の会」のことはもっと知られていてもいいように思うが、まとまった研究書も出てないし、ネットの上にも有益な情報が置かれていない。こんなところにも、ニッポンという国の「過去の遺産を次の世代に継承しない。」悪い癖が表れている……。ただ、関係各位がこの会のことをあまり熱心に語りたがらないのも確かなようで、それはまあ、改めて指摘するまでもなく、メンバーの中にこのあと明瞭に「保守」のサイドへと参入していった方々が少なくないからだ。江藤、黛両氏はもちろん、浅利氏にしてもそうだろう。むろん石原氏は言うまでもない。「黒歴史」という表現がふさわしいかどうか知らないが、「体制」側に与したほうも、そうでない側に残った(?)ほうも、双方にとってあまり触れたくない「若気の至り」だったのかも知れない。

 言うまでもなく、「若い日本の会」は「反体制」のサイドに属するものだ。それが現実の政治運動の中でどれほどの力を持っていたのかはよく分からないけれど、そもそもが「当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から生まれた組織」であり、「1960年の安保闘争で安保改正に反対を表明した」組織であったのは事実である。国会を解散せよとの声明も出していた。文中のこの「」内はウィキペディアからの引き写しだけど、「従来の労働組合運動とは違って、指導部もなく綱領もない」というのはいかにも(そりゃそうだろうな……)という感じで、これだけ個性の強い売れっ子たちが集まって、指導部もなにもないだろう。まあ、「綱領」くらいは作ってもよかったんじゃないかと思うが、きっとそれも纏まらなかったんだろう。

 それにしても、その「狼生きろ豚は死ね」ってのはどんな芝居だったのか? しかしなんとも困ったことに、「若い日本の会」以上に、ほとんど資料が出てこない。先述の『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』はamazonで法外な値をつけているし、図書館で読むしかないのだが、さすがにぼくもこの件に関して、そこまで時間を費やすわけにいかない。困った困ったと言いつつネットを探して、やっと見つけたのが牧梶郎さんという方の「文学作品に見る石原慎太郎 絶対権力への憧れ――『殺人教室』」という論考。その冒頭にはこうある。「若い頃の作家石原慎太郎が、政治は茶番でありそれに携わる政治家は豚である、と考えていたことは『狼生きろ豚は死ね』に即して前回に書いた。」

 なんと! 「豚」とは「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであった! まことにびっくりびっくりで、びっくりマークをあと二つくらい付けたい気分なのだが、これではそれこそジョージ・オーウェル『動物農場』の世界観ではないか。つまりこれは28歳の石原青年が披瀝した、諷刺小説ばりにマンガチックな世界観のあらわれだったということだ。とにもかくにも、「豚」というのが「弱者」ではなく「政治家」を意味していたとは、ぼくをも含め、世間の通念とは180°正反対の事実と言ってよいだろう。

 「政治は悪と考える純血主義が六〇年代には支配的だった……(後略)。いいかえれば六〇年代の学生運動は全然政治的運動ではなく、現実回避への集団的衝動であったということでしょう。」と関川夏央(1949年生)さんが自作の小説のなかで自分の分身とおぼしき男に語らせているが、「太陽の季節」を書いた青年作家石原慎太郎の1960年における感性(ちょっと思想とは言いがたい)は、ここでいう「純血主義」の見本みたいなものだったらしい。

 牧梶郎さんは「前回に書いた。」と記しておられるので、ぼくとしては当然、その「前回」の論考も探したのだが、あいにくネットの上にはなかった。ほかの論考も見当たらず、「文学作品に見る石原慎太郎」という連載エッセイの内で、どうやらたまたま「絶対権力への憧れ――『殺人教室』」の回だけがアップされているようだ。はなはだ残念ながら、ネット上ではこういうこともよく起こる。ともあれ、重要なのは「豚」とは「弱者」ではなく「政治」という「茶番」に携わる「政治家」のことであったということだ。これにはぼくもほんとに驚いたので、この場を借りて特大明記しておきたい。ところで、じゃあ「狼」のほうは何ぞやって話になるが、それはやっぱり、「権力の上にあぐらをかいてぬくぬくと肥え太る豚」どもを、その鋭い爪と牙とで打ち倒す「新世代の覚醒した若者」たちなんだろう。

 「安保闘争」の1960年から八年が過ぎた1968(昭和43)年、これもまた戦後史におけるもう一つのエポック・メイキングな年だが、36歳の石原慎太郎は7月の参議院選挙に全国区から立候補し、300万票余りを得て第一位で当選する。これが今日に至る政治家・石原慎太郎氏の軌跡の華々しい幕開けだったわけだが、この八年という歳月のあいだに、戦後ニッポン、および、石原慎太郎という「時代の寵児」の双方にどのような変化が起こったのかは、字数の都合で今回は触れることができない。

 しかしあくまで想像ながら、かなりの確信をもって言えることがひとつある。36歳の石原氏は、けっして「豚」となるべく国会議員に転進したのではなかろうということだ。そうではなくて、どこまでも氏は自らを「狼」と任じて政治家になったと思われる。つまり、「政治はすべて悪」と考える「純血主義」から、もう少しばかり大人になって、「政治の中には悪(豚)もあれば善(狼)も含まれている。」という認識に至った。そして自分は「狼」としてこの国の政治に関わっていく。心情としてはそういうことだったと思うのだ。もちろんまあ、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではなかろうが、少なくとも心情としては、36歳の慎太郎青年はそう考えていたのであろう。

 そのように仮定してみると、1968年からかれこれ五十年近くに垂(なんな)んとする彼の政治活動の特異さの因って来たる所以がまざまざと見えてくるような気がしてくる。齢80歳を迎え、あれだけの権力を恣(ほしいまま)にするに至った現在も、あの人は自分を「豚」とは微塵も考えてはいない。いささか老いたりとはいえ、まぎれもない一匹の「狼」であると確信し続けているのであろう。だからこそあれほど矯激な言動を休むことなく取り続ける。もちろんこちらも、現実にはもっともっとドロドロしたことが内にも外にも山ほどあって、そんな単純な話ではないわけだけど、少なくともあの人の「心情」のレベルに即していえば、要するにそういうことであろうと思われる。



 以上。長くなったが、おおむねこれが、3年まえ(2012年)に書いた元の記事の大綱である。基礎になる情報をネットに置いて下さっていた牧梶郎さんには改めて感謝しなければなるまい。「狼生きろ 豚は死ね」について言いたいことは大体こんなところだが、ちょっとした後日談がある。当の記事についてコメントを頂いたので、ぼくはこう返事を書いた。





 そういえば『狼と豚と人間』という邦画があったはずだ、と思って調べてみたら、1964年の東映映画でした。監督は深作欣二で、出演は三國連太郎、高倉健、北大路欣也。ここでは狼が健さん、豚が三國さんで、人間が欣也さん。それぞれ、一人で生きようとする者、人に飼われて生きる者、人間らしく生きたいと願う者、という図式だそうです。

 1979年の『白昼の死角』の宣伝用コピーは石原戯曲のパクリでしたが、角川映画はその前年に、フィリップ・マーロウの名セリフ「(男は)しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない。」を、「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」と改ざんしたうえでパクッた前科があります。

 さらに、2002年の映画『KT』で、KCIAをサポートする富田(佐藤浩市)の「狼生きろ、豚は死ね」という言葉に対して、元特攻隊員で活動家くずれの新聞記者・神川(原田芳雄)が「豚生きろ、狼死ね」とやり返すくだりがあった、とYAHOO知恵袋に書いてありました。

 いずれにしても、権力者こそが「豚」なのだ、という「動物農場」的な発想がまったく見受けられないのは興味ぶかいところです。 投稿 eminus | 2012/11/16





 するとその後、この補足に対して、「翻訳の文章なんだから、どれがオリジナルかは一概に言えない。『改ざん』や『前科』は言い過ぎではないか」という主旨の別のコメントが来た。そこはけっこう重要なんで、補足をさらに補足しておきましょう。

 「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。」は、翻訳家で、映画の字幕の名訳者としても知られた清水俊二の手になる訳である。ご存じレイモンド・チャンドラー『プレイバック』(ハヤカワ文庫)の中で、私立探偵マーロウが女性からの問いに答えての至言だ。

 これと、『白昼の死角』のコピー「男は、タフでなければ生きていけない。優しくなければ、生きている資格がない。」はどう違うのか。なぜぼくは「改ざん」「前科」という強い言葉を使ったか。たんに清水訳のほうが早かったというだけではない。

 「しっかりしている」と「タフ」との違いはこの際どうでもいいのだ。もっと大事な理由が2つある。ひとつめ。マーロウの名せりふの原文は、“If I wasn’t hard,Ⅰ wouldn’t be alive.If Ⅰ couldn’t ever be gentle, Ⅰ wouldn’t deserve to be.”だ。もういちど、清水俊二訳と「野性の証明」のキャッチコピーを見比べていただきたい。

 この台詞のキモは、「優しくなることができなかったら」という点にある。つまり、「タフでなければ生きていけない」のは大前提。そのうえで、「時と場合、つまり情況に応じて」「優しくなれる」ところがオトコの値打ちなんだぜ、と言っているわけだ。『野性の証明』のコピーは、その肝心なニュアンスを落としてしまっている。

 ふたつめは、この台詞に目をつけたのが、当時のカドカワ映画の宣伝部の手柄ではなかったということ。先駆者がすでにいた。もともとは丸谷才一がミステリ評論の中で紹介したのが最初で、それを生島治郎がいたく気に入り、「ハードボイルド美学の精髄」としてあちらこちらで引き合いに出した。ミステリ・ファンには常識といっていい話である。

 映画『野性の証明』が制作/公開されたのはそのあとで、しかもこの名セリフをキャッチコピーとして使うにあたり、関係者各位になにも挨拶はなかったらしい。それらの点から、ぼくも改ざんなどと書いたわけだ。いずれにしても、当時のカドカワ映画(の宣伝部)がかなり荒っぽいことをしていたという傍証なのだ。

 ただ、「狼は生きろ、豚は死ね。」と転用するに当たって石原慎太郎に仁義を切ったのかどうかは知らない。慎太郎は弟(裕次郎)を通じて映画界にも太いパイプを持っているので、なんらかの挨拶はあったかもしれぬが。


追記①) 2017年11月
 その後ネットを見ていたら、戯曲「狼生きろ豚は死ね」につき、新たな情報を得た。現代劇ではなく、幕末が舞台の時代もので、「坂元龍馬の護衛をする久の宮清二郎という青年が、その龍馬と幕府老中の松平帯刀、商人の山井九兵衛、土佐藩士後藤象二郎らの権謀術数の中で、理想と政治と権力に振り回される話。」とのことだ。ブログ主さんの感想によれば、「ちょっと新国劇の香りがする」内容だったとのことで、石原青年が書いたんだから、そうだろうなあという気がする。あの人はもともとセンスが古いのである。
 「久の宮清二郎」を演ったのは、劇団四季の看板役者・日下武史。なお「久の宮清二郎」については、検索してもこれ以外ヒットしないので、架空の人物と思われる。


 追記②) 2020年7月
 この記事の元となる原稿を書いたのは8年前で、そのとき石原慎太郎という政治家はまだ現役だった。この頃ぼくはかなり批判的な感情を込めて石原氏のことを見ており、それはこの文章にも色濃く反映されている。ところがこのたび、中国発のコロナウィルスの世界的蔓延ということがあり、そこであらわになった一党独裁体制の恐さを目の当たりにして、石原氏に対するぼくの評価は変わった。たしかにいろいろと問題もあったと思うが、じつは氏は先見の明を持った政治家だったのかもしれない。いずれまた石原氏については資料を集めてきちんと考えなければならないと思っている。


 追記③) 2023年11月
 そのご、2019年11月25日に、「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の一冊として、中島岳志『石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか』が出た。「若い日本の会」についての言及もある。また、ユリイカも2016年5月号で慎太郎特集を組んだが、ぼくはこちらは未読である。