3年まえに書いた丸谷才一への追悼文を再掲します。
丸谷さん、三島由紀夫、吉本隆明はほぼ同年齢で、「昭和」と同い年なんですね。この3人の文学者が、それぞれまったく相反する個性をもっていることは、「昭和」ってものの複雑さを物語っている……とは思うけど、この短いエッセイはそこには深くは踏み込んでません。例によって自分のことを引き合いに出して、なんかごちゃごちゃ言っております。しょうもない自分語りもええかげんにせい、と今読み返すと思いますけども、文学ってものは自分との関わりのなかで考えなければ意味を持たないこともまた確かで、なんというか、量子力学的と申しましょうか、そういう点ではやはり鬱陶しくも面白いジャンルであるとは思います。それでは、前置きはこれくらいにして、本文どうぞ。
丸谷才一さんを悼む。
初出 2012年10月15日
ぼくは恩師というものを持たない。大学に在籍していた頃は、ごく一部の先生にはたいそう目をかけて頂いた反面、ほかの大多数の方々からは明らかに疎んじられていた。ナマイキだったせいだろう。文学部の教授なんて、ものすごく優秀な人が一割で、そこそこ優れた人が一割、ごくふつうの人が一割、あとの七割はろくでなしだと思ってたもんで、そういう気持が態度に出ていたのだと思う。
ともあれ師匠というのは書物の中に求めるほかないと決め込んでいた。それは今も変わらない。とはいえ問題は、誰を師匠に選ぶかだ。もっとも心を惹かれる著作家をひとり述べよと言われたらニーチェを挙げるが、しかしニーチェの著作をそのまま師として仰ぐわけにはいかない。時代も違えば文化圏も違う。何よりも、テンションが高すぎ、思考のレベルが高尚に過ぎて軽々には近寄りがたい。あまり適切な比喩ではないけれど、ニーチェに対するぼくの姿勢は師弟というよりむしろ教祖と信者に近いかもしれない。エキセントリックで破天荒なところも、教祖たる資格たっぷりだ。そんな教祖のご託宣をストレートに実生活において実践すれば、少なからず厄介な事態になるだろう。
生身の当人ではなしに、その著述を師と見なすにせよ、やはり肌に馴染むのは年長ではあれ同時代を生きるニッポンの批評家ないし思想家ってことになる。そういう意味では柄谷行人がそれに該当するだろう。文庫になったものはおそらく全部読んでいる。柄谷さんを耽読するまで、世界史や哲学史といったものはぼくにとって無味乾燥な教科書のなかの記述でしかなかった。現代思想のこともよく分からなかった(今だって別にそれほど通暁しているわけでもないが)。オーバーにいえば、「世界認識の方法」の基礎をぼくは柄谷さんから学んだのだと思う。
しかし、いかなる優れた思想家や作家にも欠落や偏向は当然ながらあるわけで、柄谷行人をいくら読んでも得られないものはたくさんある。というか、特定の著作家に惑溺することで確実に何かを喪失していくということさえ起こりうるのだ。それで、あくまでも「今になって思えば。」ということなんだけど、そのような喪失を補ってくれたのが丸谷才一の一連のエッセイであった。だからぼくにとってのもう一人の師匠は丸谷さん(の本)だったってことになる。
高2のとき、「同時代のもの」としてぼくが生まれて初めて夢中になった評論集が小松左京の『読む楽しみ 語る楽しみ』だったことは以前に書いた。そのあと吉本隆明の『共同幻想論』に出会ってショックを受けたことも併せて書いた。柄谷さんを読むようになったのはその流れだが、記憶を再構成してみると、角川文庫の『共同幻想論』と相前後して、高校の最寄りの同じ書店で中公文庫の『遊び時間』を買っている。
吉本隆明と丸谷才一は共に大正末期の生まれでほぼ同年齢だけど(ちなみに三島由紀夫も同期)、考えてみたら笑っちゃうくらいこのお二人の紡ぎ出す世界の像は異なっている。吉本さんはどこまでも深刻で重くて理屈っぽくて晦渋。丸谷さんはあくまでも軽妙で洒脱でしなやかで明快。軍国主義の空気を吸って幼少青年期を過ごし(丸谷さんには従軍経験があり、吉本さんにはない)、強靭な思索力を備えた桁外れの読書家という共通点を持ちながら、よくぞここまで違った知的人格が形成されるものである。そして、柄谷さんはもちろん吉本さんに近い。文体は遥かにクリアで明晰ではあるが、タイプとしては吉本派だ。
『共同幻想論』が、いわばマルクスの『資本論』みたいに一定の構想に従って資料を集めて練り上げられた論考であるのに対し、『遊び時間』は丸谷さんがあちこちの媒体に書いた評論や文学エッセイを集めたいわゆる「吹き寄せ雑文集」だった。だから思春期の生意気盛りのぼくははっきりいって軽く見ていた。『共同幻想論』は襟を糺してきちんと読むもの、『遊び時間』はいわば上質の暇つぶしくらいに思っていたのだ。何しろタイトルからして「遊び時間」だし。
しかし、結果としては「勉強になった。」という点でいうならむしろ丸谷さんの本のほうが上だった。2年後に出た『遊び時間②』は発売後ただちに買っている。脂の乗りきっていた山藤章二さんの瀟洒な表紙が懐かしい。その後も、『みみづくの夢』『ウナギと山芋』『山といへば川』『コロンブスの卵』『鳥の歌』『雁のたより』と、丸谷才一文芸エッセイは文庫になるたび目につくかぎり片端から買った。このタイトルの付け方を見ても、丸谷さんがいかにくだけたお人柄をもつ知識人だったか推し量れようというものだ。間違っても「丸谷才一文芸評論集」なんて堅苦しい題は付けない。その手の野暮を徹底して排した。
いま手元にヤケて色の変わった『遊び時間』①②を置いてぱらぱらと捲り、ちょっと驚いているのだが、もしかするとぼくがボルヘスやジョイスの名前を初めて知ったのはこの本からだったかもしれない。石川淳や埴谷雄高の名に親しんだのも、シェイクスピアの凄さを教えられたのも、英文学史の輪郭を分かりやすく学んだのも、すべてこの本からだったかもしれない。かもしれない、ではなくて、ひとつ断言できるのは、本邦の古典(とりわけ和歌)のすばらしさを最初に教わったのは間違いなくこの本からであったということだ。
総じていえば、文学の教養の基礎と、伝統というものの大切さとを学んだ。体裁は「吹き寄せ雑文集」だけど、中身はとうていそんなものではなかったわけだ。そうか。紛れもなく丸谷才一は、ぼくのお師匠さんだったんだなあ。もちろん、向こうはぼくのことなど微塵もご存じなかったけれど。
そして、それらの「知識」そのものよりもっと重要なこととして、何よりもエッセイの文体に関して、はっきりとぼくは影響を受けている。早い話このブログの文章がそうだ。できるだけ柔らかく、しなやかに書く。例えば丸谷さんは、「◎◎的」という言い回しをめったに使わない。「本格的に」というところを「腰を据えて」もしくは「きっちりと」「じっくりと」といった具合に崩していく。一事が万事。ぼくもなるべくそのように心がけている。
先に柄谷行人のことを「タイプとしては吉本派」と述べたけれども、ある意味では、日本の作家なり批評家たちは、ほぼ全員がいわば「吉本派」なのである。深刻で重くて、理屈っぽくて晦渋。でもって、何となくじめじめ湿っぽい。それは近代日本の成り立ちおよび進み行きがそのような姿勢を知識人たちに強いたことを意味するが、多くの大新聞の追悼記事が述べているとおり、丸谷さんはこういった日本の風土に対して「たったひとりの叛乱」を企てた(厳密にいえば、石川淳、吉田健一といった先達もしくは同士格の文士たちも幾人かおられたわけだけど)。それはこのうえなく小粋で優雅な、それでいて、したたかな闘いであった。そうやって開かれた風通しのいい地平の中から、村上春樹、池澤夏樹、堀江敏幸らが現れたのである。この功績はいくらでも強調されてもいいように思う。
ただ、最後にひとつ言いづらいことを言ってしまうと、ぼくは如上のとおり丸谷さんの評論やエッセイ、さらに翻訳には多大な恩恵をこうむっているが、小説とはいまひとつ相性がよくないのであった。愛読したといえるのは『輝く日の宮』と『横しぐれ』くらいである。それらの二作も、むしろエッセイの延長ないし変奏として興味ぶかく読んだ。作家としての丸谷才一を、けっしてぼくは高く評価してはいないのだ。
代表作とされる『笹まくら』にしても、過去(徴兵忌避をして日本各地を逃げ回っていた戦時中の日々)と現在(大学のしがない事務員として、時代の空気に翻弄される日々)とを鮮やかに交錯させて描く手法の見事さに舌を巻いたが、砂絵師に身をやつして全国を放浪する主人公の描写があまりにも上品すぎ、甘すぎるように感じた。丸谷流「市民小説」の限界が露呈していると思えたのだ。徴兵忌避者として命がけで(捉まれば憲兵に虐殺されかねない)逃げ回る彼は「市民」の域を逸脱しているはずなのに、丸谷さんの筆はそんな彼をあくまでも「市民」として描こうとする。むろんそれが作者の揺るがぬ方針なのだが、どうしてもぼくは、物足りなさを禁じえなかった。
「市民」にこだわる丸谷さんの審美眼は、大江健三郎が認めなかった春樹さんをいち早く評価するいっぽう、中上健次という異形の作家に対してはきわめて冷たく働いた。中上が終生憧れながらついに「谷崎潤一郎賞」を受賞できなかったのは、丸谷才一選考委員の強い反対があったからだと聞いている。それはまあそうだろう。中上健次は、市民だなんだという枠組自体を爆砕しちまうような文学者だったから。それを丸谷さんが拒絶したのは当然だと思う。ただ、一つだけ問いかけを書き添えておきたい。丸谷さんの小説と中上健次の小説とを読み比べた時、どちらがより洗練されて巧緻で知的であるかは誰の目にも明らかであろうが、しかし、より烈しく深くあなたの魂を揺さぶってくるのは、果たしてどちらの小説だろうか? とりわけ若い人たちに、このことを訊ねてみたい気はする。
思うに従軍経験もおありのことからもノンフィクションの世界で現実の悲惨さを十二分に体感し、知への欠乏に飢えていた丸谷さんにとって、理性が重視されるべきフィクションの世界で「血と汗と涙の表現」そう言うものが好まれることに抵抗心があったのではないか、と。
現代は現実世界で切実な体感を持たない人々が仮想空間の中で過激な表現に酔っている。そう言うものの病理と言うかバランスの悪さを丸谷さんなら、感じていたのではないか、と。
一見知的に偏ると冷血に行くように思えるのですが、そこに体感があると笑いの世界に行くように思います。そう言うバランスが丸谷さんは優れていたのかなぁ、と。
私は小説の世界にも丸谷さん的な「フィクションとの距離感」を求める傾向があるのかも知れません。そう言う点で私は「笹まくら」「女盛り」とも愛著です。知的な印象が強いですが、そう言う自分と照らし合わせて考えれば体質的には凄く敏感な方だったかなぁ、と感じますね。
そう言う丸谷さんの表に見えづらい一面を充分に感じ取れる人ばかりでは無いのかも知れない。若し、そうだとしたらその「想像力の欠乏」を埋めるためにもこれからも丸谷文学への需要は必然的にあり続けると私は思います。
コメントありがとうございます。
しかしなにしろ8年も前に書いたものなので、読み返すと汗顔の至りですね。今ならばまた違った書き方になると思いますが……。
「血と汗と涙」……そうですね、総じて「肉体」といってもよいかと思うんですが、作家としての丸谷才一は、自作のなかに生々しい「肉体」が現れるのをできるだけ忌避した方でした。
流儀としては上質なイギリス市民小説の系譜ですが、ご指摘のとおり、現実の体験によってつくづくそういうものに嫌気がさしていたこともあるだろうし、もちろん、持って生まれた資質もあったと思います。
「現代は現実世界で切実な体感を持たない人々が仮想空間の中で過激な表現に酔っている。」というならば、流行りの『鬼滅の刃』なんて完全にそうですね……いくらなんでも血が流れすぎだろう……それにいかにも痛そうだ……ぼくは表現の自由を重んじますが、それでも、ああいうのを喜んで子どもに見せてるこの国はちょっと変だと感じます。丸谷さんなら、こういう風潮を歓迎はされなかったでしょう。ただ、赤塚不二夫はお好きだったようですけども。
「笑い」というのも上質なイギリス市民小説に欠かせぬもので、定評ある軽妙なエッセイはいうまでもなく、小説、さらに評論においてさえも常に丸谷さんはウィットを忘れたことがなかったけれど、「笑い」にかんする許容度でいえば、そのほかに関しても高かったと思います。つまり、井上ひさし流の「人間味あふれるユーモア」のみならず、筒井康隆から、それこそ赤塚不二夫ふうの攻撃的なブラックユーモアに至るまで、ご自分ではお書きにならなかったにせよ、受容する分にはかなり幅広く楽しんでいたんじゃないか。
「笑い」はコミュニケーションの潤滑油ですが、よく「ホラーと紙一重」ともいわれるように、人間の本質に根差したものでもあります(そういえば氏はポーの翻訳者でもありました)。「笑い」という視点で丸谷文学を読み返してみれば、「上品」「洗練」といった従来の評価とはまた別の、より深みと翳りを帯びた丸谷才一像が浮かび上がってくるかも知れないですね。
追記) gooブログの仕様では、コメントに貼ってあるアドレスが反映されないんですよね。こちらに貼っておきます。
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