ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その②

2014-12-20 | 戦後短篇小説再発見

 ウィキペディアによれば、この短編はすべて現実の場所をモデルにしているらしい。明男が雅子に別れ話(?)を持ち出したのは丸ビルの中の喫茶店。念願かなってうっとりしていたのもつかのま、すぐに明男は、周囲の大人たちからの好奇の視線に耐えられなくなって、泣き続ける彼女を連れて外へ飛び出す。しかし「連れて」という言葉が正確かどうか。明男はべつに「行こう」と声をかけたわけでもなく、雅子のほうが勝手に付き従っている格好ではある。されども明男は彼女を振り払うどころか、傘を広げて親切に入れてやっているのである。「相合傘だって、ただの世間体のためだ」などと自分に言い訳しながら……。おいおい兄ちゃん、いま別れようっつったんじゃないのかい? しかし、この優柔不断ぶりこそが、つまりは「戦後」ってものなのかもしれない。という気もする。

 雨のなか、明男は(つまり二人は)「広い歩道を宮城のほうへ向って歩く」。宮城とは皇居のことである。やはり《天皇》にまつわる言葉がミシマ作品に出てくるとドキッとさせられる。そういえばヒロインの名前さえ、完全なる偶然なのだが(なにしろ1963年の作品なのだ)妙に予見的だったりもする。なぜ自分が宮城のほうへ向かっているのか、初め明男は自分でもよくわかってないのだが、公園の噴水が目当てなのだとそのうちに気づく。「雨のなかの噴水。あれと雅子の涙とを対比させてやろう。いくら雅子だって、あれには負けちゃう筈だ。……(中略)……こいつもきっと諦めて泣き止むだろう。このお荷物も何とかなるだろう。……」この皇居前の公園というのが、和田倉噴水公園のことだ。

 べつに小説を読みなれてない人でも、この短編がしつこいくらい「水」のイメージに浸されてることは否応なしに感じるだろう。まったくもってびちゃびちゃである。まず雨が降っている。女の子は、人間とは思えぬ勢い+持続力で泣き続けている。彼女の泣きっぷりってぇものは、ほとんどシュールリアリスティックといっていいほどだ。そのなかを、明男(と雅子)は噴水のほうへと向かっていく。本物の噴水に対峙させることで彼女の目からの「噴水」を止める! 《水を以て水を制す。》とでもいうべき独特な明男の発想であるが、物語論的な見地からいえば、ようするに彼は一篇を律する《水》のイメージに捉えられ、《水》がより大量に、勢いよく湧き出るほうへとひたすら誘引されているわけである。

 いったいに、《水》のみならず《火》や《風》や《土》、さらには《光》など、古代ギリシアの賢人たちが万物の根源とみなした原型的なイメージに留意することは、小説を味読するうえでの要諦のひとつといっていい。原型的なイメージとはそれくらい重要なものなのだ。ミシマ本人は新潮文庫版『真夏の死』巻末の自作解説において、「リラダンの『ヴィルジニイとポオル』のような、残酷さと俗悪さと詩がまじった可愛らしいコントを試みた」という意味のことを述べており、世間の読解もこの解説に従うものが多いが、それはそれとして、どこまでも《水》に翻弄される少年のお話、として「雨のなかの噴水」を読んでみるのも一興であろう。つまり「雅子」という少女は漱石の『草枕』にでてくるあの那美さんと同じ《水の女》の系譜に属する娘、その庶民バージョンってわけだ。

 だから物語論的な見地からは、明男と雅子との勝負の帰趨は最初から決まっているといっていい。《水の女》に勝てる男などこの世にいないのである。雅子は白いレインコートと白いブーツに身を固めている。いっぽうの明男は軽装で、靴下などはもう濡れた若布みたいなありさまである。降りしきる雨と雅子の涙とに全身を絡め取られているのだ。

「オフィスの退けどきにはまだ間があるので、歩道は閑散だった。二人は横断歩道を渡って、和田倉橋のほうへ歩いた。古風な木の欄干と擬宝珠(ぎぼし)を持った橋の袂(たもと)に立つと、左方には雨のお濠(ほり)に浮ぶ白鳥が見え、右方にはお濠を隔てて、Pホテルの食堂の白い卓布や赤い椅子の列が、雨に曇ったガラスごしにおぼろに見えた。橋をわたる。高い石垣の間をとおって左折すると、噴水公園へ出るのである。」

 べつにわざわざ書き写すほどの箇所でもないが、ぼくは志ん生の「黄金餅」が大好きで、延々と情景を綴って主人公が移動していくくだりにシビれる質(たち)なもんで、つい引用しちまった。「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、………………」というやつだ。こうして二人は公園へ向う。雅子はもちろん、そのかんもずっと泣きつづけている。ひとことも言葉を発することなしに。「別れよう」という一句を明男が(はなはだ不明瞭に)口にして以降、ここまで二人はまったく言葉を交わしていない。

 公園を入ったところに大きな西洋東屋(アーバー)があって、二人はいったんそこに落ち着く。雅子は相かわらず目を見開いたまま、人事不省に陥ったかのように涙を噴き出し続けている。彼方では噴水が盛んに水を吹き上げているが、一向にそちらを見ようともしない。だから視点はあくまで明男からのものだ。「ここからは大小三つの噴水が縦に重なってみえ、水音は雨に消されて遠くすがれているが、八方へ別れる水の線は、飛沫のぼかしが遠目に映らぬために、却って硝子の管の曲線のように明瞭に見えている。」

 この短編の陰の主役というべき「噴水」が、かくしていよいよ作品のなかに姿をあらわす。ほかに人影はまったくない。雨のなか、舞台の上には明男と雅子とのふたりきりである。

 その③につづく。