噴水を望むその西洋東屋(アーバー)は、葦簀(よしず)をかけた屋根の下にベンチが置かれているだけで、完全に雨を防ぐわけではない。だから明男は傘をさしつづけたままだ。雅子は彼と並んで腰を下ろすが、彼のほうを見ようとはしないし、噴水にもとくに興味を示さない(それはふつうそうだろうね)。「雅子は泣いたまま斜めに坐って、彼の鼻尖へ白いレインコートの肩と、濡れた髪だけを見せている。」 こちらから声をかけるのを待っているのだと思うと、それが癪にさわって明男も何も言いだせない。相変わらず二人は言葉を交わさない。明男はひとりで噴水を眺める。ついで所在なく噴水の周りの情景を見やっているうちに、彼の心は乱れはじめる。「少年は坐って、じっと黙っていることで、いいしれぬ怒りにかられてきた。」
「自分が何に向って怒っているのかよくわからない。さっきは天馬空を征く思いを味わったのに、今は何とも知れぬ不如意を嘆いている。泣きつづける雅子の始末のつかぬことが、彼の不如意のすべてではない。」
「………彼は自分をとり巻くこの雨、この涙、この壁みたいな雨空に、絶対の不如意を感じた。それは十重二十重に彼を押さえつけ、彼の自由を濡れた雑巾みたいなものに変えてしまっていた。」
「不如意」とは「意の如くにならぬ」こと、物事が思いどおりに運ばないことだ。孫悟空のあの棒は、持ち主の思うがままに長くなったり短くなったりするから「如意棒」と呼ばれる。いま明男は自分を取り巻く様々なものに強い「不如意」を感じている。これこそが本短編のテーマである。
前々回ぼくは、「別れよう」という一句を口にするために情熱を傾けるこの少年の心情が理解できないと述べたが、彼のこの「絶対の不如意」のほうはじつによく分かる。おそらくそれは初期の大江健三郎作品において「閉塞感」と名づけられてたやつに近い。十代の少年にとってはもっともありふれた感情であって、たぶん福山雅治を除くすべてのオトコが経験ずみの筈である。なお十代の少女の心情については、ぼくは十代の少女だったことがないのでよくわからない。
とはいえ、圧倒的多数のティーンエイジャー男子が抱く「絶対の不如意」感はたいてい《孤独》とセットになってるもんだけど、この明男の場合はどうもいまいち同情しづらいのも事実だ。まだこの恋が真剣かつ切実なものなら納得できなくもないのだが……。
やはりミシマの作品というか、ミシマの《美学(エティック)》あるいは《論理(ロジック)》ってやつは厄介だなあと思わざるをえない。独特の屈曲に満ちて、一筋縄ではいかないのである(必ずしも誉めているわけではない)。『仮面の告白』も『金閣寺』も、そういう意味で難しい小説だった。この短編もやはりぼくには難しいところがある。
「捨てられた女」としての雅子の涙は、明男にとって思惑どおりの成果なのである。しかし彼女がこうも延々と泣き続けながら付いてくるのは予想外であり計算外だった。今やそんな彼女に明男は腹を立てている。だとすれば彼にとっての理想の展開は、「ひどい。ひどいわっ。なぜなの、私のどこがいけなかったの、ううう」などと号泣しながら雅子が自分の元から走り去っていく感じだったのだろうか。それだったら明男は、「絶対の不如意」に見舞われることもなく、ひとりで悦に入っていられたのか。
「残酷さと俗悪さと詩がまじった可愛らしいコント」と三島は自分で評している。もし雅子が泣きながら去って行ってお終いだったら、そんなのはいっこうに可愛くはないし、「残酷さ」および「俗悪さ」の意味するところもがらりと変わって、慎太郎の「完全なる遊戯」レベルに堕してしまう(さすがにあれほど酷くはないが)。それでは「コント」にさえもならないだろう。作者の目論見は結末のちょっとした《どんでん返し》にあるのだ。ゆえに雅子はあっさり舞台から退場することはなく、さながら六月の梅雨そのものを具現化したかのごとき鬱陶しさで、果てしなく彼に付きまとうわけである。かくしてふたりは、すっかり行き詰った体(てい)で、西洋東屋に身を置いている。
「怒った少年は、ただむしょうに意地悪になった。どうしても雅子を雨に濡れさせ、雅子の目を噴水の眺めで充たしてしまわぬことには気が済まなかった。」
「ただむしょうに意地悪になった。」と今さらのようにミシマ先生はおっしゃるが、「別れよう」と宣告をしてショックを与えたい一心で付き合ってきたってぇんだから、そもそもの初めからむちゃくちゃ意地悪じゃねえか、とおれなんか思うけどね。それに、もともと雅子を噴水に対峙させるためにここまで足を運んできたわけだから、西洋東屋なんぞに一旦停止してないで、さっさと噴水の前まで行けばよかったのにとも思う。でもここは、西洋東屋でひとまず停滞することで《溜め》をつくって、「いいしれぬ怒り」から「絶対の不如意」へと繋げていく作者の手際に感心しておくべきなんだろう。
「彼は急に立上がると、あとをも見ずに駆け出して、噴水のまわりの遊歩路よりも数段高い、外周の砂利道をどんどん駆けて行って、三つの噴水が真横から眺められる位置まで来て、立止まった。/少女は雨のなかを駆けてきた。立止まった少年の体にぶつかるようにやっと止って、彼のかかげている傘の柄をしっかりと握った。涙と雨に濡れた顔が、まっ白に見えた。彼女は息をはずませてこう言った。/『どこへ行くの?』」
ここで初めて少女がことばを発する。それにしても、明男を追いかけてくる彼女の様子は、なにやら戯れに鬼ごっこでもしているようで、とうてい「捨てられた女」のものではない。このことはラストシーンの伏線になってもいる。明男は返事をしないつもりだったのに、まるで彼女からの問いを待ちかねていたように、すらすらと喋ってしまう。こういうところが「可愛い」んだよね。
「『噴水を見てるんだ。見てみろ。いくら泣いたって、こいつには敵わないから』」
こうして少年と少女とは、ようやく噴水に対峙するのである。
その④につづく。