ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その④

2014-12-26 | 戦後短篇小説再発見

 さて。ベンチから遠望していた噴水に、ようやく間近で明男(と雅子)は向き合うのだが、優れた劇作家でもあるミシマの筆は、ここではまるで映画のキャメラのように働く。ロングショットからズームしてきてクローズ・アップ。しかし、そこで繰り広げられる緻密きわまる噴水の描写は、視覚イメージに観念と内面との動きが絡み合って、映像にはけっして表せないものだ。言葉だけが創造できる圧巻の光景をぜひともご堪能されたい。では引用スタート。





  そこで二人は傘を傾けて、お互いから視線を外(そら)していられる心安さで、中央のはひときわ巨(おお)きく、左右のは脇士のようにいくらか小体(こてい)の、三つの噴水を眺めつづけた。

(……引用者註。脇士(きょうじ)とは、仏像で、本尊の両脇に安置される像のこと。)

 噴水とその池はいつも立ち騒いでいるので、水に落ちる雨足はほとんど見分けられなかった。ここにいて時折耳に入る音は、却って遠い自動車の不規則な唸りばかりで、あたりは噴水の水音が、あんまり緻密に空気の中に織り込まれているので、それと聴耳を立てれば別だが、まるで完璧な沈黙(しじま)に閉ざされているかのようだった。

 水はまず巨大な黒御影の盤上で、点々と小さくはじけ、その分の水は、黒い縁を伝わって、絣(かすり)になって落ちつづけていた。/さらに曲線をえがいて遠くまで放射状に放たれる六本の水柱に守られて、盤の中央には大噴柱がそそり立っていた。

 よく見ると、噴柱はいつも一定の高さに達して終るのではない。風がほとんどないので、水は乱れず、灰色の雨空へ、垂直にたかだかと噴き上げられるのだが、水の達するその頂きは、いつも同じ高さとは限らない。時には思いがけない高さまで、ちぎれた水が放り上げられて、やっとそこで水滴に散って、落ちてくるのである。

 頂きに近い部分の水は、雨空を透かして影を含み、胡粉(ごふん)をまぜた鼠いろをして、水というよりは粉っぽく見え、まわりに水の粉煙りを纏(まつ)わりつかせている。そして噴水のまわりには、白い牡丹雪のような飛沫がいっぱい躍っていて、それが雨まじりの雪とも見える。






 ……ここまでは、もっぱら視覚描写である。きっと作者自身が画家のするように現地に赴いてスケッチを(言葉で)やったんだろう。もちろん滅法巧いわけだし、凡百の書き手に真似できるものではないけれど、ここまでだったらどうにかこうにか、一所懸命に観察すれば、自分にも近いものが書けるかもしれない。しかしここから先のくだりは、ミシマ流の観念遊戯の独壇場、おそらくは彼にしか創り出せない世界である。




 明男はしかし、三本の大噴柱よりも、そのまわりの、曲線をえがいて放射状に放たれる水のすがたに心を奪われた。

 殊(こと)に中央の大噴水のそれは、四方八方へ水の白い鬣(たてがみ)をふるい立たせて、黒御影の縁を高く跳びこえて、池の水面へいさぎよく身を投げつづけている。その水の四方へ向うたゆみない疾走を見ていると、心がそちらへとられそうになる。今ここに在った心が、いつのまにか水に魅入られて、その疾走に乗せられて、むこうへ放たれてしまうのである。

 それは噴柱を見ていても同じことだ。

 一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑(ちょうそ)のように、きちんと身じまいを正して、静止しているかのようである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇っていく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で順々に満たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補って、たえず同じ充実を保っている。それは結局天の高みで挫折することがわかっているのだが、こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。






 《天の高みに達すれば挫折することを百も承知していながら、その絶え間のない挫折を支える力の持続、それは素晴らしい。》というこの感性、いやいっそ思想というべきだろうが、これはまさしくロマン主義であり、そしてまたアイロニーでもある。だからとうぜんミシマの愛好するモチーフであった。たとえば最後の大作「豊饒の海」の第一巻『春の雪』にも、より壮大かつ濃密なかたちであらわれる。清顕と本多がシャム(タイ)のふたりの王子を連れて海岸に静養に行ったさいの一節である。

「……海はすぐその目の前で終わる。/波の果てを見ていれば、それがいかに果てしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。/……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だろう。波の最後の余波(なごり)の小さな笹縁(ささべり)は、たちまちその感情の乱れを失って、濡れた平らな砂の表面と一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いている。」




 まだまだ続くし、書き写したいのはやまやまだが、あまり引用ばかりしているとしまいに怒られそうだから自重しよう。ともあれ、本短編における噴水が、この「海」や「波」の人工サイズのバリエーションであることは見て取れるだろう。「こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。」で終わるこの段落こそ、「雨のなかの噴水」という作品のクライマックスである。そしてこのあと、急速に少年の心は萎えていく。

 つまり、ひたぶるに噴水に注がれていた彼の視線が、さらに高みへと上げられて、雨を見つめてしまうのである。自分自身を含めた地上におけるすべてのものを、等しなみに押し包んで濡らしている雨。その雨のなかの噴水はもう、「何だかつまらない無駄事を繰り返しているようにしか」思えなくなってしまうのだ。

 一瞬の昂揚ののち、噴水をおおっていたロマンチックなベールが剥げて、ありのままの姿を寒々しくも晒けだす。そこではあくまで挫折は挫折、徒労は徒労でしかなくて、それを支える力を「すばらしい」と感じるアイロニーすら、もはや霧消してしまったのである。少年の心は空っぽになり、その空っぽな心にただ雨が降っている。

 この白々とした(あるいは、びちゃびちゃに濡れた、といってもいいかもしれないが)彼の空虚に追い討ちをかけるのが傍らの少女である。短編の落ちをばらすのは本来ルール違反なんだけど、これまで紹介してきた3篇において、ぼくはあえてネタバレをやってきた。しかしこの作品については、ラスト部分を伏せておくことにしよう。新潮文庫『真夏の死』に収録されているので、ちょっと大きな書店にいけば読めるはずだ。ただ、少年がふと顔を見ると、少女がもう泣いてはいなかったことだけを言い添えておきましょう。少年がつかのま噴水に夢中になっていたときに、彼女はもう泣きやんでいたのだ。泣きやんだ彼女の横顔のかげに、「小さく物に拘泥(こだわ)ったように」咲いている洋紅の杜鵑花(さつき)が鮮烈だ。

 しかしこうして読み込んでいくと、どうもこの短編は、三島本人がモデルにしたというリラダンの『ヴィルジニイとポオル』とは異なり、少年少女の恋愛譚にはなっていない。どこまでも少年の内面の劇の話であって、少女の存在は雨および噴水と同じく彼の体と心をぬらす執拗な《水》のモチーフの変奏としか思えない。より正確には彼女の「涙」が、というべきだろうけど。リアリズムでは考えられないその泣きっぷりからも、彼女を《水の女》として読むのがやはり文学的に正しい読解じゃないか。一篇の主題は、「こんなにたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。」というロマンチックなアイロニーをほんの一瞬成立させる昂揚であり、それが即座にたんなるほんとうの挫折へと堕落してしまう虚しさだ。そして、それは青春期に留まらず、じつはぼくたちが日々の情況のなかで繰り返し経験していることでもある。