ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第4回・三島由紀夫「雨のなかの噴水」その①

2014-12-15 | 戦後短篇小説再発見

「少年は重たい砂袋のような、この泣きやまない少女を引きずって、雨のなかを歩くのにくたびれた。」

 出だしがいきなりこれである。これである、と言っても、え、なんも騒ぐことないじゃん、べつにふつうの出だしじゃん、とおっしゃるやもしれぬが、比喩なのである。いきなり「重たい砂袋のような」なのだ。さらにいうと、「引きずって」という動詞も気づかれにくいがやはり「砂袋」と連動した比喩だ。じっさいに女の子をずるずる地面に引きずっているわけではない。彼女は自分の意志で歩いている。紐で繋がれてるわけでもない。ただ、少年の隣をずっと離れず随行している。読み進めるとわかるが、ふたりは相合傘に入っているのだ。差しているのはもちろん少年のほう。なぜか少女は、ずっと泣き続けているらしい。まあ、ちょっとめんどくさそうなシチュエーションではある。

 絢爛たる美文と称されるミシマの文体は、ことばそのものが音楽のように流れて読むものを陶然とさせるのだが(それは危険と裏腹でもある)、またその比喩の鮮やかさによっても知られる。冒頭からの見開き2ページの中で、この「砂袋」に始まって、「王様のお布令(ふれ)のように」「金の卵を生もうと思いつめた鵞鳥(がちょう)」といった譬えが立て続けに出てくる。どちらも大げさで、どこか童話的な響きをもった文句だ。二十歳を過ぎたカップルではなくて、もう少し幼い、まさに「少年」と「少女」との恋愛譚にふさわしい(とはいえ二人はいちおう一度は「一緒に寝て」はいるのだが)。それだけではない。そんな片々たるものに留まらず、ほとんどギャグと見まがうくらいの、荘重にして空疎な長々しい比喩が、2ページ目の初めにあらわれる。

「その一言を言っただけで、自分の力で、青空も罅割れてしまうだろう言葉。とてもそんなことは現実に起こりえないと半ば諦めながら、それでも「いつかは」という夢を熱烈に繋いで来た言葉。弓から放たれた矢のように一直線に的をめがけて天翔ける、世界中でもっとも英雄的な、もっとも光り輝く言葉。人間のなかの人間、男のなかの男にだけ、口にすることをゆるされている秘符のような言葉。」

 何のことだと思われるのではないか。ぼくも最初読んだとき思った。ここまででいったん切って、「さて、その言葉とはいったい何でしょう?」という設問形式にしてみたら、回答者のセンスが問われると思う。この小説の中でミシマの用意した答は、「別れよう!」である。少年はこの言葉ひとつを言いたいがために、「少女を愛し、あるいは愛したふりをし、そのためにだけ懸命に口説き、そのためにだけしゃにむに一緒に寝る機会をつかまえ、そのためにだけ一緒に寝て、」ついに本日、満を持して喫茶店に呼び出し、「別れよう!」と宣言したのだった。

 とくに男性諸君におききしたいが、こういう心情ってわかります? 十代の時分にそんなこと考えたことありました? わしにはさっぱり分かりませんな。そもそも、「おれと付き合ってくれ」というセリフがどうしても言えずに往生していたものである。まあ、自分はむしろ晩生(おくて)すぎるほうだったから、これはこれであまり参考にならぬが……。ともあれ、「別れよう!」という一句を口にするために、かくも情熱を傾ける少年ってものが、ぼくには納得できなくて、この短編になかなか感情移入できなかった。

 しかしこのたび『春の雪』(豊饒の海・第一部)を卒読して、まだ物語が序盤のころ、松枝清顕が聡子にとっていた屈折した態度にぼくはこの「少年」に通じるものを見た。ようするに、相手より常に上位に立っていなければ我慢できない、相手に主導権を委ねてしまうのが許されない、ということらしい。その頑なさは最後に清顕自身に死をもたらす。そう絵解きをすれば分からないでもないけれど、しかしやっぱり、そこまでムキにならなきゃいけないことかなあとは思う。ましてや命まで懸けるとなると……。こういうキャラをつくるのは、やはり作者本人に通低するところがあるからだろうが、その心情にはどこまでの普遍性があるのか……。戦前生まれ、ということはそんなに関係ないだろう。たとえば三島より5歳年長の安岡章太郎(の小説にでてくるオトコたち)には、異性への態度にここまでの硬直性は見られない。

 とはいえミシマは聡明なので(つまりシンタローの「完全な遊戯」みたいなベタな真似はしないので)、この少年をアイロニーに包んで描いている。戯画として描いているのである。そもそもさっき引用したくだりもすでに半分ギャグであったが、それほど大がかりな下準備をして、ただならぬ情熱をもって用意した「別れよう!」という宣告を、こともあろうに彼は、はなはだ無様なやりかたで口にしてしまったのだった。

「それでも明男は、それを何だか咽喉(のど)に痰のからまった喘息患者みたいな、ぐるぐるいう咽喉の音と一緒に、(ソオダ水をその前にストロオから一呑みして咽喉を湿した甲斐もなく)、ひどく不明瞭に言ってしまったことが、いつまでも心残りだった。」

 いまどきの用語でいえば、つまり《噛んじゃった》わけだね。「ああれおう」みたいな感じだったんだろうか。一青窈の「ええいああ」みたいだが。ここではじめて、少年の名が「明男」であることが読者に明かされる。冒頭からとつぜん、「明男は重たい砂袋のような、この泣きやまない少女を……」とやるよりも、このほうがはるかに効果的なのだ。しかし三島の巧さってものをこんなふうにいちいち指摘してたらキリがない……というか、かえって失礼に当たるだろう。で、ぶざまに噛みはしたものの、幸いにも、その必殺のセリフは雅子(という名前がここで読者に明かされる)の耳に届いたようなのである。

「それがきこえたという確証は、つかのまに与えられた。自動販売機からチューインガムが飛び出すように。」

 ほらまた比喩だぜ。しかも王様やら金の鵞鳥から一転して、自動販売機とチューインガムときた。メルヘンチックから、キッチュで俗悪なイメージへのすばやい移行。それにしてもこの短編が発表された当時、チューインガムが自動販売機で売られてたんですね。というか、自販機がもう出回ってたんだね。1963(昭和38)年のことですが。ま、自販機くらいはそりゃあるか。

「彼女はそのやせた引立たない顔立ちから、まるで周囲を押しのけて、押しやぶったようにみひらかれた、大きすぎる目を一そう大きくした。それは目というよりは、一つの破綻、収拾のつかない破綻だった。そこから一せいに涙が噴出したのである。」

 これもまた劇画的、否、マンガ的な描き方といえる。すすり泣きの兆しすら見せず、泣き声も立てず、「別れよう」宣言の直後に雅子はどっと泣き出した。しかしこれ、「泣く」という表現でいいのだろうか。「すばらしい水圧で、無表情に涙が噴き出した。」というのだから、それこそまさしく噴水である。しかも彼女は、明男とともに外に出てからもなお、延々とそのままの調子で目から涙を噴出し続けているのだ。人間業とは思えない。体内にタンクを仕込んだアンドロイドじゃなかろうか。ともあれ、冒頭の一行のまえには、これだけのいきさつがあったわけである。

 その②につづく。

 追記) 2019.01 このあいだ気づいたのだが、googleで「雨のなかの噴水」(この表記が正しい)もしくは「雨の中の噴水」と検索するとこの記事がけっこうな上位にくる。びっくりしたよ。それで、若い人のために書き添えておくのだけれど、新潮文庫『真夏の死』のあとがきでミシマが言及しているリラダンの「ヴィルジニーとポウル」は、いま光文社古典新訳文庫で出ているサン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』とは別物ですからね。というか、リラダンは、これのパロディーとして「ヴィルジニーとポウル」を書いたわけ。リラダンの「ヴィルジニーとポウル」が読みたいならば、澁澤龍彦が編集した『世界幻想名作集』(河出文庫)に入ってます。新刊としてはもう売ってないようだけど。