ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

80年代について。

2015-10-07 | 政治/社会/経済/軍事
前回の記事と関連して、「旧ダウンワード・パラダイス」からの転載ですが、これは本格的な80年代論ではなく、暫定的メモみたいなもの。近過去というのは学校の授業でもやらないし、適当な文献もありそうでないから(皆無じゃないけど)、ブログで扱うには格好のネタで、若い人には面白いんじゃないかと思ったんだけど、どうもあんまり読まれなかったみたい。平成生まれはバブルの昔話なんぞに興味はないか。ただ、ぼくとほぼ同年代かと思われる方から的確なコメントをいただいて、このころはまだあまりコメントが入らなかったので、うれしかったのを覚えている。では。


80年代について。
初出 2010年05月13日



 まずはこの文章から。

 「バブルは1985(昭和60)年9月のプラザ合意をきっかけに生まれ、90年の大蔵省による不動産融資の総量規制ではじけたといわれる。プラザ合意とは、この年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(五カ国蔵相会議)での合意で、この合意以降、各国がドル高の是正に向かって政策協調したため、それまで1ドル=240円だった円が一時は1ドル=120円に至るまで急速に円高になった。貿易で食っているわが国は深刻な時代に直面し、政府=大蔵省は国内産業を保護・強化し、円高不況から脱するために低金利政策に転換した。/こうして、86年1月から立て続けに六回にわたって公定歩合が引き下げられた。その結果、そこいらの中小企業や不動産屋でも巨額の融資を受けられるようになり、金利の安いカネが日本国中に大量に流れ始めたわけである。/この急増したマネーサプライがバブルを誘発したのだ。景気が好況に転化するとともに、86年頃から土地と株式の急速な資産額増加が始まる。そうして、投機が投機を呼び、信用が風船のように膨れ上がっていく過程が展開していったのである。」(宮崎学『突破者』 96年刊 幻冬舎アウトロー文庫 より)

 この経緯を、アメリカにスポットライトを当てて露骨に言ったらこうなる。

 「1970年代の半ば、オイルショックを乗り切った日本経済は、再び順調な成長軌道に乗ったが、そこに襲ってきたのが、アメリカからの内需主導型の経済構造への転換要求だった。1977、1978年のサミットで、アメリカは「日独機関車」論を展開し、日本とドイツは対米輸出を抑制して、内需主導型で世界経済を引っ張っていけと指示した。当時の福田赳夫内閣はこれを受けて、公共事業費を驚異的に増やした。そのために国債依存度が急に高まり、この状況は、四世紀半を経たいまもなお続いている。/そして、1985年のプラザ合意では、日本はアメリカの財政赤字を助けるために円の急激な切り上げ要求を飲んだ。その結果バブルが発生し、日本経済は一時の宴を謳歌したが、この時期に始まった日米経済協議では、日本はアメリカからさらなる内需拡大の要求を突きつけられた。1991年、バブルが完全に崩壊すると、内需拡大要求はさらに厳しくなり、日本は630兆円もの「公共投資基本計画」をつくり、以後、公債発行額はさらに飛躍的に増えたのだ。」(ベンジャミン・フルフォード『さらば小泉 グッバイ・ゾンビーズ』  06年刊 光文社ペーパーバックス より)

 ……経済の面でいうならば、確かにそうだったのかもしれない。貿易摩擦と言いながら、結局は今と同様、アメリカに振り回されていただけかもしれない。しかし十代後半と二十代前半の10年間、俗に「青春」と呼ばれる時期を、ほとんどすっぽり80年代に重ねて過ごした自分としては、それだけで済ませたくない気持はある。少なくとも文化の面では、80年代は後世に少しは何かを残したのではないか。そう思いたいのだ。

 80年代バブルの始まりを告げた《事件》は、ぼくにとってははっきりしている。1986(昭和61)年10月、民営化されたNTTが、自社株を1株119万7400円で売り出したことだ。これは抽選に当たらなければ買えなかったが、大方の予想どおりたちまち値上がりし、二ヶ月後には318万円という値をつけ、少なからぬ人々が懐を潤した。ぼくは証券会社が街頭に出した抽選テーブルの前を通りかかった覚えもあるし、大量に買って何十億という儲けを得た人が、「フォーカス」だか「フライデー」だかに載っているのを喫茶店で見た記憶もある(この写真週刊誌というメディアも、80年代のシンボルのひとつ)。五年ほど前、ライブドアやらジェイコムの件でデイトレーダーブームみたいなものが巻き起こったけれど、当時、あれよりももっと大規模な昂揚が列島を包んだものだった。ぼくの感覚では、バブルというものが庶民レベルに浸透して、何となくみんながざわざわ浮つき出したのはあの時からであったと思う。

 むろん予兆はその前からあった。明確には名指しできないんだけど、70年代からの連続性において、80年初頭にのみ成立しえた「何か」があったはずなのだ。マンガというスタイルで書かれた80年代論ともいうべき岡崎京子さんの『東京ガールズブラボー』(1993年刊)のラストに、次のような文章がある。「そんであたしは高校卒業するまでに6回家出して6回とも連れ戻された/その間にYMOは散開しディズニーランドは千葉にできて/ローリーアンダーソンがやってきて/松田聖子がケッコンした/ビックリハウスが休刊して「アキラ」が始まった///何となく「どんどん終わってくな」という感じがした///浪人して美大に入って東京で一人ぐらし始めた年に/チェルノブイリとスペースシャトルの事故が起こった」

 このマンガの主人公「金田サカエ」の年齢は、ほぼ岡崎さんご自身と重なっている。YMOの散開と、東京ディズニーランドの開園は83年、「チェルノブイリとスペースシャトルの事故」は86年。まさにこれから狂乱の時代が始まろうって時に、「どんどん終わってくな、という感じがした」なんて、「岡崎さん、やはり天才だなあ」とぼくなどは思うが、たしかに、「14番目の月」じゃないけれど、宴はたけなわとなる寸前がいちばん楽しい、ということはあるのかも知れない。バブルの到来とともに何かが終わったという感覚は、岡崎さんより少しばかり年下のぼくにもぼんやりと分かる気はするが、それを今、うまく言語化することはできない。

 ぼくにとって83年という年が忘れられないのは、YMOでもディズニーランドでもなく、サントリー=電通によるサントリー・ローヤルの伝説のCM『ランボー、あんな男、ちょっといない。』が初めてテレビで流れたからである。http://www.youtube.com/watch?v=cfve3SzJOS4 (演出は鈴木理雄。82年が初オンエアとの記述もあるが、ぼくは83年と記憶している)。あれからほぼ30年、CG加工が当たり前となった現在でさえ、これ以上のインパクトをCMから受けた覚えがない。金曜ロードショーかなにかの折にあれを見たとき、「えらい時代が来たもんだ」と思った。商品そのものではなしに、その商品にまつわるイメージを拡張し、増幅して市場に流通させる。そのなかで表現の技術は飛躍的に磨かれていく。いま改めて見直してみると(そんな真似ができるのは、パソコンの普及とインターネットのおかげなんだけど)、この映像は、それこそバブルの狂乱と、それが通り過ぎたあとの索漠さ、までをも予感しているように見える。

 じつは今回のこの記事、1996年4月の「STUDIO VOICE」、特集「Babylоn 80s」を傍らに置いて書いている。和訳すると「80年代 虚飾の都」みたいなタイトルになるこの号は、音楽、ファッション、文学、哲学、映画、アート、演劇・パフォーマンス、写真、漫画、メディア・スペースの十項目に分類された、かんたんな用語事典になっていて、当時を偲ぶのにちょうどいい。96年刊行ってことは、その頃はまだ80年代の余殃が色濃く残っていたわけだが、それから14年を経て、今や当のスタジオボイス自体が休刊になった。時代の流れというほかないが、それはともかく、巻頭、野々村文宏による序文の中に、このような文章がある。

 「……結局のところ、経済や流通の問題をネグっておいて、現実にありえない仮想の階層を用意して……それが解釈の勝利だ、なんて言ってるうちは甘くて、やがて足元をすくわれることになる。そりゃそうだ。自分が足場だと思っているものが、実は無いんだから。」

 もちろん、足場などあるはずもない。セゾンや電通を始めとする巨大資本に都市ぐるみ囲い込まれて、遊園地という名の豊かな植民地の中で、楽しく踊っていただけなんだから……。だけど、本当にそれだけだったんだろうか?

 ブログを始めた4年前から、折りにふれてこのことを考え続けてるんだけど、いまだに明瞭な答えが出ない。模索中。でも、せっかく押し入れの底から引っ張り出したので、「Babylоn 80s」の中から、80年代をシンボリックに表す「記号」を抜き出してみよう。今も残っているものもあるし、消えてしまったものもある。ぼくなんかの世代にとっては、気恥ずかしくも懐かしい。平成生まれの皆さんにとってはどうなんだろう。

 YMO。AOR。ビートたけしのオールナイトニッポン。RCサクセション。デフ・ジャム。戸川純。ブルーハーツ。おニャン子クラブ。アインシュトゥルツェンデ・ノイバウテン。ナゴム・レコード。オルタナティヴ。BOOWY。川久保玲。カラス族。東京コレクション。PARCO。山本耀司。竹下通り。FACE。ファッション通信。DCブランド。ハウスマヌカン。ポール・スミス。メンズファッション。村上春樹。キッチン。なんとなく、クリスタル。山田詠美。埴谷雄高×吉本隆明論争。サラダ記念日。「雨の木」を聴く女たち。片岡義男。さようなら、ギャングたち。ノーライフキング。虚航船団。構造と力。チベットのモーツァルト。「情報資本主義社会批判」。GS(グループサウンズではない。「楽しい知識」という矢鱈と部厚いニューアカ雑誌)。記号論。ポスト構造主義。ジェンダーとセクシュアリティー。ものぐさ精神分析。廣松渉。日本近代文学の起源。ディーバ。蓮實重彦。ミニシアター。ディレクターズ・カンパニー。ストレンジャー・ザン・パラダイス。ゴダールのマリア。小津ブーム。スパイク・リー。ブレードランナー。デビッド・リンチ。薬師丸ひろ子。原田知世。ベルリン・天使の詩。リュミエール。

 松任谷由実。稲垣潤一。糸井重里。ヘタウマ。超少女。ローリー・アンダーソン。日比野克彦。大竹伸朗。ヨーゼフ・ボイス。ナムジュン・パイク。アンゼルム・キーファー。キース・ヘリング。ニュー・ペインティング。ポストモダン建築。子宮回帰。夢の遊民社。如月小春。ラジカル・ガジベリンバ・システム。東京グランギニョル。蜷川幸雄。勅使河原三郎。青い鳥。第三舞台。ブリキの自発団。自転車キンクリート。PHOTO JAPON。篠山紀信「激写」。ハーブ・リッツとブルース・ウェーバー。メイプルソープ。ダイアン・アーバス。荒木経維。リブロポート。シンディー・シャーマン。ロンドン・カルチャー。わたせせいぞう。鈴木英人。ねじめ正一。伊藤比呂美。AKIRA。ナウシカ。うる星やつら「ビューティフル・ドリーマー」。ホイチョイ・プロダクション。北斗の拳。オネアミスの翼。パトレイパー。江口寿史。わたしは真吾。バタアシ金魚。BE FREE。BANANA FISH。岡崎京子。みうらじゅん。蛭子能収。ピテカントロプス。宝島。MZA有明。インクスティック。青山ブックセンター。WAVE。そしてもちろん、MTVにマイケル・ジャクソン。そういえば、マドンナやアンディー・ウォーホルがテレビCMに当たり前みたいに出てきて、吃驚させられたもんだった。



コメント①

興味深く記事を読みました。

野々村文宏の言葉がひっかかっているとか…。あなたも私と同じような「時代の暗示」を感じている。と勝手に共感してしまいました。

結局のところ、電通やセゾンらの巨大資本は、国際金融資本につながっていて、それらに迎合する勢力と、民族的な勢力とのせめぎあいが80年代にも、そして2010年にも存在する。というのが、ウェブによって明らかになったことでしょう。

別記事で、浅田さんのことを述べられていますが、彼は1975年以降批評の場はない。と、言明されています。そういう諦観の中で、浅田さんも坂本さんも現代を生き抜かれている。そんな感じがしています。

スコラについては記事を上げていますので、ご覧いただければ幸いです。

投稿 スポンタ中村 | 2010/05/13



 コメントありがとうございます。
 Web論がご専門のようなので、釈迦に説法と申しましょうか、まことにお恥ずかしいのですが、本文中で引用した野々村文宏氏の巻頭言の続きに、このような一節があります。
「若い読者たちに僕が何か言えるとしたら、自分の身の回りを撮った写真であれ、渋谷系であれ、日本語のラップであれ、テクノのクラブであれ、インターネットであれ、いっさいの足元それじたいを疑ってかかれ! としか言いようがない。そんなの、別に新しくないぞ。むしろ見事なまでに80年代前半と同じだぞ。……」
 「渋谷系」などが出てくる辺りが、いかにも90年代中盤ですが、この中で、「インターネット」だけは明らかに新しいものだし、これに相当するものは、80年代には皆無だったと思うのです。これらをすべて並列して、一緒くたにするのは、野々村さん、ちょっとまずいのではないか……(なにぶん14年前のことだから、その後、考えがお変わりになったかもしれませんが)。
 インターネットは、われわれが「囲い込まれた遊園地(という名の、じつは植民地)」から抜け出す手段になりうるのではないか、という夢想を僅かながらぼくは抱いているのですが、これはあまりにシンプルかつ楽観的すぎるでしょうか。
 「スコラ 音楽の学校」についての5月10日の記事も拝見しました。ジャズに関する講義では、12年前に山下洋輔さんがNHK教育「趣味悠々」でおやりになった「ジャズの掟」が忘れられません。今回はあれよりずっと「啓蒙的」になっておりますが、たとえば池上彰さんのような方が引っ張り凧となる世情を見るに、これもまた、時代の流れなのかもしれませんね。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/05/14


コメント②


ニッポン・クロニクルの「80年代について」の記述の中で、『80年代を表す「記号」』を眺めていて
あ、と思ったのは、
70年代にとんがっていた人たちが80年代にメジャーになるとともに面白くなくなっている……と云うことでした。
有名になり、仕事と収入が増えて、成熟したのではなく、薄まって面白くなくなってきている。

社会が豊かになりひとつの仕事の値段が上がった時に、仕事を増やし、出番を増やしお金持ちになるのは
普通の人の心情ですが、
一人の人のクリエイティビティは実は無限に湧いて出てくるわけではなくて
探索し掘削するしんどい作業を潜り抜けないといけないわけで、
どんなに天才でも出がらしになる時はすぐ目の前にあるのです。

名前が売れれば、仕事は来るし、買う人も増えるけれど、それは名前に対する代価であって
仕事の内容に対しての代価ではないということを本人はつい忘れてしまう。
100万円の仕事が来たら、次にその仕事以上のものを目指して、100万円で暮らせるだけ頑張って次を目指して精進しないと
成熟の域には達せないのではないでしょうか。

本当の経済の豊かさは、目指すものを探求している人が、
喰うための稼ぎにあくせくしないで仕事に集中できる社会的な余裕があること、
作る側はどんなに高価で買い上げられても、納得できるもの以外は安易に外にださないことで
やっと成熟の域に到達できるのかもしれません。と、自戒を込めて……

投稿 かまどがま | 2012/11/19


 岡崎京子というマンガ家は、「天才」であったと思います。このばあいの天才とは、「桁外れに鋭い感性のアンテナを備えた表現者」といったていどの意味ですけど。この記事でも書いたとおり、まさにこれからバブルが膨らもうという1983(昭和58)年において、「『どんどん終わってくな』という感じがした。」と、岡崎さんは90年代前半に証言しているわけです。
 この一節は、『東京ガールズブラボー』という作品の末尾に置かれています。ぼくは岡崎さんよりちょっとだけ年下なのですが、一読してすぐ、このカンジは何となく分かるなあと思った。しかし、うまく自分の言葉にはできなかったのですが、今回かまどがまさんが指摘されたような内容も、その中には含まれているのかも知れません。
 たとえば荒井由実が松任谷由実になって、リゾート地に似合う軽やかで明るいポップソングを量産するようになった。ぼくはその頃の楽曲もけして嫌いではないのですが、そこにはもう、「ひこうき雲」のような深い内面性はなくなってしまいました。70年代と80年代との「差異」を象徴する事例のひとつでしょう。
 つまり、「芸術作品」から「作り手の内面」が脱色され、「商品」へと変質させられていったわけですね。80年代とはそういう時代であったと。
 村上春樹は1979年デビューだから、実質的には80年代の人ですが、それでも『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』までは「純文学」であったと思うんですよ。それが3作目の長編『羊をめぐる冒険』から、マーケティングを重視するようになっていく。
 これはクリエーターの側の話ですけど、では、彼ら/彼女らのつくる「商品」を享受(消費)していた一般ピープルたちはどうだったか? むしろ問題はこちらかもしれない。金回りがよくなり、生活に余裕ができたんだから、流行りの「現代思想」でも読んで思考を鍛えればよかったのに、カフェバーだディスコだサーフィンだスキーだと遊び回って、あとに何も残さなかった(あ。ゴミの山と財政赤字が残ったのかな?)。結局はそのツケが、「失われた十年」を経て今に至ってるように思うのです。学生運動の遺産がほとんど残らなかったように、バブルカルチャーの遺産もやっぱり残らなかった。日本という国は同じことばかり繰り返しています。そしてジリ貧になっていく。
 これこそまさにニッポンという風土の最大最強の特質なのではないでしょうか。「ラディカル」とは「根底的・根源的」そして「過激」という意味ですが、ものを真剣に考えていけば、どうしたってラディカルになるわけです。しかし、それは空気を乱すことでもある。だから最初から、なるべく、ものを考えないようにする。技術的なことや実用的なことは別ですよ。そういう思考はむしろ得意で、世界でもトップクラスなのですが、より根底的なことは考えない。あえて考えないよう努める。自分たちの拠って立つ基盤を揺るがさぬように。
 それが日本という国です。西欧の哲学を読んでいると、さながら炙り出しのように、わが国のそのような特質が見えてきます。この国のネット文化も結局はその延長の上にあるようで、近頃のぼくは、以前ほどネットの力を信じられなくなってきてるんですよね……。

投稿 eminus | 2012/11/20

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