ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

後藤明『世界神話学入門』(講談社現代新書)をめぐって。

2020-01-23 | 物語(ロマン)の愉楽
 本書の表紙画像を貼り付けようと思ったが、その絵というのが例のあのモローの描いたオルフェウス(の首)であり、「ショッキング。」と感じる方もおられるやも知れぬのでやめることにした。あの仮借なき残酷さもまた、神話のもつ重要な機能のひとつではあるのだが……。




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 前回の記事の冒頭ではあんなことを述べたけれども、引用なり確認のために書籍の一節を参照しようとして、「あれ? どの本で見たんだっけ?」と探し回ることのほうがじっさいには多い。だいたいぼくの読書というのは、なにかを読んでいる途中で他の本に移り、さらにまたそこから他の本に、といった具合にどんどん逸脱していくので、つねに数冊あるいは十数冊くらいが同時に起動している。だから初めのほうで読んでたやつが紛れてしまったり、そもそも何を読んでいたかすら失念するのもしょっちゅうだ。
 それでも昔なら「あの本のあそこら辺に載ってたぞ。」と目星をつけてページを繰ったらたいていは当たっていた。ところが最近はめっきり鈍くなってしまった。探しても見つからぬことのほうが多い。むろん不便だし、記憶があやふやなのはそれだけで気持がわるい。喉元まで出かかってるコトバがどうしても出てこない、あの感じである。困ったもんだ。
 一冊をちゃんと読み上げて内容をきっちり頭に入れてから次の本に移り、それを読み上げて頭に入れてからまた次に……という読み方が正しいのだろう。しかし逸脱型、あるいは遊弋型の読み方であっても頭脳さえ明晰であれば本当はそんなに混沌とはしないはずである。情報をきちんと仕分けして然るべき場所に関連付けて置いていき、古くなったもの、おかしなものはさっさと捨て、常に全体をきれいに整理していれば、それで問題はないはずなのだ。そういうことができぬのは、もともとのアタマの性能がわるいので、情けないけどしょうがない。
 神話のことを考えていると、どうしても、人類の発生について意識が向く。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(上下・河出書房新社)は未読なので、当面の参考書は出口治明さんの『全世界史』(上・新潮文庫)と『人類5000年史Ⅰ』(ちくま新書)だ。出口さんは元ビジネスマンだが、驚くべき知的好奇心の持ち主で、もっぱら歴史にまつわる膨大な文献を(いわゆる一次資料ではなく、専門書を含む一般書だけど)読破して、その精髄(エッセンス)をわかりやすく叙しておられる。
 「恐るべきアマチュアとしての知識人」とでもいうべき方だけれども、この方の叙述は①西洋史・東洋史といった愚かしき区分に囚われず、人類全体の物語として歴史を把握すること。②事象相互の因果関係がきわめて明晰で、「かくかくの理由によってこうなった。」という流れがよくわかり、無味乾燥な事例の羅列に堕さないこと。が特徴である。ようするに、面白いのだ。
 だいたい歴史なんてのは面白くて当たり前であり、それをあそこまで詰まらなくする学校の勉強が異常なのだが、おそらくあれは庶民に正しい歴史感覚や歴史意識を身につけさせまいとするお上の差配であろうと思う。そうとでも思わなければ説明がつかない。ともかく、出口さんの著す人類の歴史はそういったものとはぜんぜん違って生き生きしている。




 そして、約七〇〇万年前、アフリカでチンパンジーとの共通祖先からヒトが分かれます。ヒトが誕生したのです。(……中略……)その後のヒト亜族の栄枯盛衰の中で、直立二足歩行を始めて道具を使うようになり、火が発見されて、最終的には、現生人類(ホモ・サピエンス)だけが生き残ったのです(……後略……)。
 約二〇万年前(二五万年前という説もあります)、私たち現生人類が、東アフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)の辺りで誕生しました。そして、約一〇万年前から六万年前にかけて海路アフリカを出発、そこから全世界に、すなわちユーラシア大陸を横断して、ベーリング海峡を渡り、南アメリカの南端にまで拡がっていったと考えられています。




 と、『人類5000年史Ⅰ』には書かれている。本編ではこのあと話は「言語の誕生」から宗教や社会的慣習の成り立ちへと進む。『全世界史』のほうはもっと簡略な記述だが、東アフリカの大地溝帯(グレートリフトバレー)とは今のタンザニア地方であること、当時の人口は五〇〇〇人くらいだったこと、その中の一部がアフリカを出たあとアラビア半島沿いにユーラシアに入り、しばらくそこに留まった後、七万年ほど前にまた旅立ち、その時の人口は五〇万人ていどと推定されている……ことなどが述べられている。




 こういった学説は考古学のみならずDNAの解析技術などの進歩によっても更新されるので、いずれ変わってくるのかもしれないが、当面はこれを目安としておいて間違いはない。
 神話に特化したものとして、2017年に出た後藤明氏の『世界神話学入門』(講談社現代新書)があり、そこでも「人類の起源は七〇〇万年前、ホモ・サピエンスの時代はどれほど遡っても二〇万年前」と書かれているからだ。ぼくの方針として、信頼に足る二人の著者が同じことを述べている際は、その言説は差し当たり「事実」と見なすことにしている。
 この『世界神話学入門』は、「世界各地の神話にかんする学問の入門」ではなく、『「世界神話学」の入門』の含意だ。「世界神話学」という学問ができているのだ。それは従来の「比較神話学」を総合してさらに体系化したもので、まだまだ若いジャンルだが、かなり有望そうである。
 後藤さんの専門は、「海洋人類学および物質文化や言語文化の人類学的研究」となっている。ぼくたちの祖先がアフリカを出て海を渡るにあたり、どのような船を造ったか……といったことにかんする記述が詳しい。文学部のご卒業だがむしろ理系の趣である。ユング派流の元型分類や構造主義的な物語論から「神話」に近づいたぼくには当初いささか違和感があったが、このような実証研究も当然すごく大事なものだとすぐにわかった。
 じっさいこの本、たんに考古学に関心のある人が読んでも面白いだろう。しかしもちろん神話に興味をもっていればよりいっそう面白い。「世界の神話はローラシア型とゴンドワナ型とに大別できる」というのがこの本の主眼である。大林太良さんほかの編纂になる『世界神話事典』(角川選書)をぼくは愛読していて、そこでも各民族の神話はテーマ別に分類されているのだが、たしかに「ローラシア型とゴンドワナ型」なる二通りの仕分けは有効であると思われる。




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 ぼくはかれこれ10年以上ブログをやってて、このgooブログには5年まえに越してきたのだが、「純文学とは何か?」、換言すれば、「純文学とそれ以外の小説との違いは何か?」というのが一貫してひとつのテーマであった。アニメやゲームと連動した「ライトノベル」の隆盛や、いわゆる「なろう系」の爆発的な流行によって、そのギモンはいよいよ切実なものとなっていたけれど、ここにきて少しずつ自分なりの答に近づきつつあるようだ。
 純文学とは近代小説であり、ライトノベルは神話的な構造をもったファンタジー。そしてその中間のいずれかに(もとより、かなり近代小説寄りの位置に)直木賞系の「大衆小説」がある。当面のあいだはそう見なしておいてよさそうだ。
 純文学は「近代」の産物であり、近代の内実を整えるうえで大きな役割を果たした。現在は市場原理の面では気息奄々というべき状況が続いているが、芥川賞が発表されればニュースで取り上げられるていどのオーラを保ってはいる。のみならず、今後とも果たすべき役割はまだ残っている。
 ただ、それはどれほど射程を長く取ったところでせいぜい280年ほどの歴史しか持たない(紫式部とシェイクスピアとセルバンテスとを除く)。いっぽう「神話」はなにしろ人類の発生とともに古いし、そこに「映像」と「音声」、もっといえば「キャラ」が付与されることで圧倒的な訴求力を発する。商業的に太刀打ちできぬのも宜なる哉だ。

 最後に、半ばは自分のための覚書として、『世界神話学入門』の中から、神話の発生にまつわる人類学的考察を抜き書きさせて頂きましょう。






 このようにアフリカで新たに発生したホモ・サピエンスには認知構造、論理的思考、イメージ化能力、記憶および季節サイクルなどの予測能力など、文化面での急速な進歩が見られた。考古学者のP・メヤーズはその特徴を列挙しているが、筆者(注・後藤氏のこと)の補足を加えて紹介しよう。


 (一)石器製作の変化、とくに剝片石器から、より定型的な石刃製作への移行。一つの石塊から作り出す石器の刃の長さの総計が指数関数的に増加し、効率の良い石材利用ができるようになった。また規格化した石器は作業の規範化、また破損した場合の交換可能性という具合に、作業の効率を増大させた。
 (二)石器の種類の増大、たとえば鑿(のみ)、錐(きり)など現在の大工道具の原型はこの時代に出現したと言われる。作業の各工程に適した道具を選び、使い分けることによって、作業の効率やスピード、そして正確さが増大した。
 (三)骨角器の出現。骨角器の出現は、銛(もり)や釣り針など石器では作るのがむずかしい形態を実現させただけでなく、石器に比べてより細かい彫刻ができるので、立体芸術の発達にもつながっていった。またそのことが、人類のイメージ形成力を増大させた。
 (四)変化の速度の増大や地域差の増大。技術進化が加速度的に増大することはよく知られている。さまざまな分野の技術革新が統合されるからである。また地域差が増大することは、「自分」と「他人」という意識の明確化を意味している。本来の意味における「文化」が出現したと言えるだろう。
 (五)ビーズ、ペンダントなど個人的装飾品の出現。これは自意識の出現と関係しているだろう。自意識は萌芽的な哲学的思考につながるので、それが思考の原型となって神話が生まれたのではないかと考えられる。
 (六)経済および社会構成両面における重大な変化。人類の行動が本質的に社会行動になっていく。一人で語っていても神話は伝達されないのだから、社会的脈絡の中で神話や伝承が語られていく状況が生じたことを意味するだろう。
 (七)表現主義的あるいは自然主義的な芸術的の誕生。それは骨角器の彫刻や洞窟芸術において見られる。このような表現は頭の中にある象徴の外化、そしてモノによる象徴的表現による概念や記憶の保存、という連関的意味を持つ。

 引用ここまで。



 すなわち、ヒトがヒトたりうるためには、「神話」を語り始めることが不可欠だった、ということであろう。



追記)この記事を書いて2年ほどの後、ハラリ氏の『サピエンス全史』を読んだら、やはりそのようなことが書いてあった。人類の文明には、よかれあしかれ「物語」が不可欠であるらしい。







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