ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『鎌倉殿の13人』における上総広常の描き方について その②

2022-04-21 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 誤解のなきよう申し上げておくが、ぼくは第15話『足固めの儀式』にいたく感動したのである。上総広常の誅殺シーンは、大河ドラマ史に残る名場面になったと思う。梶原景時(中村獅童)に斬りつけられてから絶命に至るまでの数分間は、ただ息を呑んで見守るばかりだった。何が起こったのか咄嗟にはわからぬままの驚愕のあと、懐刀を掏り取られていたことに気づいての焦燥、ぶざまに逃げ惑う時の恐慌から、頼朝の来室をみての一瞬の安堵、そして、事の起こりから裏切られて罠に嵌められていたことに気づいての衝撃、さらに義時の涙を眺めやっての微笑まで、佐藤浩市の動きと表情はあたかも眼前に惨劇を見せられるかの如くであった。ほんとうに真に迫っていた。そりゃあ子供も泣き出す道理である。
 「三國連太郎を彷彿とさせた。」といったら、すでにベテランの域に達している佐藤さんには失礼に当たるだろうが、長らくのあいだ、ぼくにとっての三國さんは「日本でいちばん演技のうまい人」だったので、これは自分として最上級の褒め言葉である。三國さんもまた、人間の弱いところ、醜いところを演じた時に異様な迫真力をみせる役者だった。
 涙を流す義時を眺めやっての最後の微笑は、「お前は俺みたいになるなよ。」という広常からのメッセージであろう……との解釈が佐藤さん自身のインタビューとしてNHKの公式に載っていた。このあとの流れから逆算するとそういうことにもなるのだろうが、とりあえずあの場面では、「義時はどうやら事前に今日のことを知ってはいたようだが、企みの最初から加担していたわけではない。」とわかったゆえの微笑ではないかとぼくは思う。「ブルータス、お前もか。」ではなかったということである。
 この無惨なシーンのあとが義時の第一子(のちの泰時)誕生の目出度いシーンとなり、その泣き声が「ぶぇい、ぶぇい」と聞こえる演出に続いて、サブタイトル「足固めの儀式」がテロップに出て、そのダブルミーニングが明かされる。怪僧・文覚(市川猿之助)の出まかせを指していた筈の「足固めの儀」が、じつは鎌倉新政権の「足固め」のためのスケープゴートの葬送……「広常粛清という儀式」を意味していたという、戦慄の謎解きである。
 正直ぼくは、これまで三谷幸喜氏のことを、「ニール・サイモンの日本版」くらいに思っていた。「日本版」とはつまり、(失礼を顧みずいえば)「劣化版」ってことである。しかしこの『鎌倉殿の13人』、なかんずく今回の『足固めの儀式』を観て、おおいに認識を改めた。小劇場のご出身だから、組織の中で煮詰まった人間関係の美点と暗部をたっぷりと味わってこられたのだろうか。とにかく「政治」を描ける人である。「政治」の本質を(それこそ小学生にもわかるくらいの)面白いドラマに仕立て上げられる脚本家だ。
 多くの作品が、お花畑のファンタジーでなければ、愚にもつかないコメディーか、悪意だけをむやみに誇張したサイコホラーばかりに偏りがちな令和ニッポンで、この才能は貴重である。
 とはいえぼくも、ひどく怠惰ながらも10数年にわたってブログをやってる身である。そしてこのブログのテーマは「物語論」だ。初めのうちは純文学を扱っていたが、又吉直樹の『火花』騒動によって、純文学の社会に及ぼす訴求力がどうしようもなく衰えていることを逆説的に思い知らされてからは、むしろサブカルチャーに目を向けるようになった。
 「物語論」は、作品そのものの分析が主だが、近頃では「人気を博した物語が社会にどう影響を与えるか?」についても興味がある。いっときアニメに深入りしてたのもそのせいだ。大江健三郎はいうまでもなく、おそらく村上春樹でさえも、大衆的な影響力ではたとえば庵野秀明に及ぶまい。そういった兆候は80年代後期のバブル時代(まだスタジオジブリが発足する前だ)に出てきていたが、ゼロ年代いこう決定的となった。
 すぐれた物語は読む者、観る者の心を動かす。心を動かされた人が多いほど、その物語は幅広く社会を共鳴させる。しかしぼくは、宇野常寛さんみたいな批評家ではないので、当ブログでは「自分が感動した作品」についてしか論じていない。『君の名は。』『宇宙よりも遠い場所』から、「まどマギ」やプリキュアまでをも扱いながら、「エヴァ」を取り上げてないのはそのせいである。エヴァンゲリオンはぼくの琴線に触れてこない(その理由についても分析できるがさすがに脱線が過ぎるので割愛する)。
 だから、冒頭で述べたとおり、ぼくはこの『足固めの儀式』に心を動かされたのだけれど、こんなブログをやってる以上、ただ「感動したッ」「泣けた」「神回」「広常かわいそう」「頼朝許せん」だけで済ませるわけにはいかない。「なぜ自分は感動したのか?」をきちんと分析し、そこから作品の批評へと至らなければならないのである。




 歴史の本にも、広常が誅殺された寿永2年(1183)の終わり頃から鎌倉での御家人たちの結束が固まったことは定説として書かれてある。確かに、そうでなければ京に向けて大軍を発することなどできない。考えてみれば当たり前だが、出兵のたびに豪族たちにいちいち相談して了承を取り付けていては埒が明かない。頼朝が木曽(源)義仲の討伐を命ずるためには、その時までに軍事権を完全に掌握していなければおかしいのである。
 「平家に対抗する旗頭として坂東の豪族たちに担ぎ上げられていた」だけだった頼朝が、名実ともに「坂東武者の棟梁」となったのが何時だったかについては諸説あるが、「イイクニ創ろう鎌倉幕府」の1192年(征夷大将軍に任じられた年)よりも早かったのは間違いない。「名実ともに坂東武者の棟梁になる。」とは、司法・行政上の統治技術としてはさまざまな制度設計があるけれど、その根幹においては「軍事権を完全に掌握する。」ということだ。暗記中心の教科書式のお勉強ではここのところがぼやけてしまう。
 権力の源泉は軍事力である。古今東西、この原則は絶対に不変だ。いまのロシアのウクライナ侵攻を見ても僚かだし、そもそも戦後の我が国がずっとアメリカに服しているのも、戦争に負けて占領され、国内の要所に基地を置かれ(「置いて貰っている」という見方もできるが)、冷戦が始まってからは核の傘に入れて頂いているからである。そんな現実がよく視えないのは、「軍事にまつわることは徹底して忌避する」という戦後ニホンの風潮のせいだ。まあこれについては「現実がそんなふうだから軍事から顔を背けている」というほうが実情に即しているのだろうが、いずれにせよ、現実が視えなくては歴史も視えない。「歴史の授業がつまらない」といわれる理由の一端はこのあたりにもある。
 寿永2年(1183)といえば、義仲が京に兵を進めて平家を都落ちさせた年でもある。このときの「治天の君」は、すなわち京の朝廷の頂点にいたのは、後白河法皇だ。法皇は平家に拉せられるのを恐れて身を隠していたが、「義仲軍迫る」との情報を得て戻ってくる。義仲の入京は7月で、法皇はただちに朝議を開いて勲功を与えるが、その第一位は頼朝、じっさいに兵を率いて平家を追い落とした義仲は第二位だった。
 これは遠く離れた鎌倉からの頼朝の朝廷工作が功を奏した結果で、ざっくりいえば「義仲が軍事をしているあいだに、頼朝は政治をしていた。」ということだ。第14回「都の義仲」でそのあたりが巧みにドラマ化されていた。
 さらに義仲軍は、朝廷が期待した京の治安維持に貢献するどころか、かえって乱暴狼藉をはたらいて法皇の不興を買い、ほかにもあれこれ政治上の衝突があって、関係はどんどん悪化する。ドラマでは「義仲は都の礼儀作法に慣れていないからしくじった。」との面が強調されていたが、それ以上に「都の政治に慣れていなかった」というべきだろう。長引く飢饉で兵糧が手に入らず、兵站が機能しない不運もあった。
 朝廷は軍事力をもたないに等しい。だから清盛と仲違いして平家と敵対したのちの法皇は圧迫されて長らく不遇をかこつ羽目になったし、清盛の没後、義仲が上洛してきた際には歓迎したが、義仲が意のままにならず、結局はまたこちらとも対立するようになると、抵抗(小規模の戦闘)もむなしく幽閉されてしまう。
 しかし朝廷には、古代からの伝統によって培われた「権威」がある。この「権威」が、時の「権力」にお墨付き(認可)を与えて、ここで初めて正当性を付与されるのが日本政治史の特徴なのだ。
 義仲が法皇を幽閉するほど腹を立てた理由の一つは、義仲が平氏追討のため京を離れている隙に、法皇が頼朝に宣旨(せんじ)を与えたからである。これは「寿永二年十月宣旨」としてwikiにも独立の項目が立てられているが、ひとことでいえば頼朝に東国支配の権限を認めたものである。その重要度については専門家のあいだでも意見が分かれているようだが、「鎌倉幕府」の成立へ向けてこの宣旨が大きく与ったことは確かだろう。
 地方の「革命軍事政権」が、中央から認められて、「自治政府」への道を歩みはじめたといってもいいか。
 これが寿永2年10月のこと。ドラマでも、この宣旨を授かっていこう、頼朝を取り巻く体制が変質していったのがわかる。それまでの、いわばアットホームでざっくばらんな雰囲気から、頼朝をトップに頂いて、役員たちをブレーンとして経営戦力を練り、組織全体を動かしていく、一個の「意志決定機関」へと変わっていくわけだ。その変質ぶりを身を以て表しているのが、大泉洋という役者の幅広い演技力である。
 宣旨が下ったのが寿永2年の10月。そして広常誅殺はその2ヶ月後の12月だ。この2つの件が無関係なはずはない。
 その側近グループの中心にいるのが大江広元(栗原英雄)だけど、じつはこのドラマの広元は少し史実とは違う。しかしそれを言い出すとキリがないので先へ進もう。とにかくこの広元がもっとも頼りになる謀臣であり、頼朝の知恵袋だ。義時はそのグループの末席に連なってはいるが、まだまだ使い走りである。
 この広元は京から下ってきた下級公家だが、第12回のラストで初登場したさい「鎌倉は安泰です。ただ、一つだけ気になることが……」と述べていた。ここでの引きがひどく思わせぶりだったため、ネットでも憶測を呼んでいたようだが、その「気がかり」こそが上総広常の存在だったと、視聴者は15話のあとで思い知らされるわけである。
 おそらく頼朝と広元は、広常の危険性についてじっくりと検討し、彼を粛清することのメリットを計算して謀殺を決め、その方法についても綿密に計画を練りあげたのだろう。そのことは義時はもちちん、ほかの御家人たちにも一切知らされていない。側近グループに近い位置にいた比企能員(佐藤二朗)や梶原景時でさえ知らなかったことは15話で明示されていた。ましてや、このたびのクーデター(謀反)に加わった御家人たちが知る由もない。
 14話と15話では、表向きのストーリーの裏側で、そんな陰謀が進行していた。知らないのは彼らだけではない。視聴者もまた同じである。いわば義時たちとわれわれ視聴者とはまったく同じ「蚊帳の外」に置かれていた。だからこそ、15話の後半での「あれよあれよ」の展開があれほどショッキングだったし、その不条理なまでの理不尽さによって、われわれは心を激しく揺さぶられたのだ。
 ……しかし、だ。たしかにあの作劇は、ドラマの運びとしては誠に巧いのだけれども、「軍事力」というキーコンセプトに即して考えたばあい、どうしても無理がある。
 前回の末尾で、
「これはドラマとしては大成功といえる。しかし、ロジックからすると相当に無理がある。反則すれすれ、といってもいいかもしれない。」
 と述べたのはそのことだ。




 すでにあちこちで指摘されているが、14話・15話で描かれたあのクーデター未遂騒動は完全なるフィクションである。じつは吾妻鏡には広常誅殺のことがまったく記されていないらしいが、そもそも、あれほど大切なことが目白押しだった寿永2年に、鎌倉政権の中でどのような事態が起こっていたのか、はなはだ記述が薄いらしいのだ。
 これについてはぼく自身、吾妻鏡の原テキストに当たったことがないので、「らしい」「らしい」と伝聞調にならざるをえないわけだが、北条氏の強い影響下に編まれた幕府の「正史」たる吾妻鏡に寿永2年の記述が薄いのは、「よほど表沙汰にしにくいことが多かったのではないか。」とする専門家もおり、ぼくもその説に同調する。
 いずれにせよ、ドラマでのクーデター騒ぎが三谷オリジナルの創作なのは間違いない。たとえば中公文庫や講談社学術文庫の『日本の歴史』にも、その他の概説書にも、そんな事件は記されていなし、さらには誰かの歴史小説でも、もしくは過去の大河などでも、描かれたことはない。
 御家人たちが糾合して頼朝を追放し、義仲の子息・義高をかついでの反乱を画策するなんて、いかにも無理がありすぎる。ただ、京に攻め上った義仲の勢力が一時は大いに盛んだったために、御家人たちにかなりの動揺が走っていたこと、また、朝廷との距離の取り方をめぐって(つまり東国経営だけに専念するのか、中央の政局に本格的にかかわるのか)頼朝と御家人たちとの間に路線対立が生じていたということはあり、そのあたりを三谷氏はああいうかたちでエピソード化したわけだ。
 けれど、よく考えてみれば、それまで頼朝を支えてきた有力御家人の大半が敵に回ったあの状態で、頼朝があんなに強い態度に出られるわけがないではないか。ようするに、あのとき軍事権は誰にあったのか、ということだ。京の義仲に向けて(じつは史実では、このころ頼朝は他にも派兵をしているのだが)義経を先発させているのだから、頼朝の命によって動かせる軍勢があったのは間違いない。しかしそのいっぽう、御家人たちもまだ手勢をもっていたはずである。そうでなければクーデター計画自体が成り立たない。ここに齟齬が生じている。
 もちろんぼくは、あのエピソードが史実から離れたオリジナルの創作であることを問題にしているのではない。そこは一向に構わないのだけれど、ひとつのフィクションとして見ても、内的なロジックそのものが破綻しているということだ。
 具体的にいうなら、頼朝は、彼らのあいだに根回しをして、相応の見返りを提示し、幾人かの御家人たちをあらかじめ手なずけておかねばおかしい。そんな下準備もなしに、それまで御家人たちを抑えてくれていた広常をあのようなかたちで誅殺したら、かえって危険だし、いっそうの反撥を喰らって政権基盤が根底から揺らぎかねないではないか。
 ここは専門家の間でも定説がないようだからぼくの推測としていうが、じっさいの広常誅殺は、かなり周到な根回しと裏工作のもとに行われたはずだ。ドラマでの頼朝は、「上総介の領地は一同に分け与える。」と言い放っていたが、所領ってのはおいそれと分割できるものではない。史実では、亡き広常(彼には嫡男がいたが、こちらも自害させられた)の領地は房総半島のライバル千葉常胤(ドラマでの配役は岡本信人)の千葉氏と、あと三浦氏との両家によって継承されている。少なくともこれらの両家は、広常暗殺を事前に知らされ、黙認していたはずだとぼくは考える。
 そしてもちろん、じっさいの広常は、あんな愛すべき好漢ではなく、頼朝のマブダチになりうるような良い奴でもなくて、坂東武者を代表して、正面から頼朝とぶつかるのも辞さぬ硬骨の武将だったのであろう。
 とはいえ当然、こういったこともぜんぶ三谷氏は承知のうえだろう。多少の齟齬には目をつぶっても、ドラマとしての鮮烈さと、人間なるものの深淵とを追い求めるのが優れた作家というものだ。反則すれすれとはいいながら、ロジックを弾き飛ばしてでもあのシナリオを仕上げたことで、あんな「神回」が生まれたわけだし、佐藤浩市の凄い名演を観ることができた。だから本当はなにも難じるつもりはないのだけれど、それでもやっぱりこのようなものを書いてしまわずにいられないのは、ぼくがどこまでも「物語」と、物語が社会に及ぼす影響とにこだわっているせいである。






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