ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

いま読みたい世界文学の10冊 ①『戦争と平和』その01(20.01.19 加筆)

2022-01-15 | あらためて文学と向き合う。
 昨年の12月19日に「ここらでひとつ、あらためてまじめに文学と向き合ってみたい。」などと大見得を切ってから、年を跨いでひと月近くが過ぎてしまい、もはや「あけましておめでとうございます。」という頃合いでもなくなってしまったのだけれど、ブログを更新できなかったのは、年末年始忙しかったとか、すこし体調を崩したといった事情を除けば、ほんとうにマジメに文学と向き合っていたせいである。つまり、インプットにかまけていて、アウトプットに手が回らなかった。
 とりあえず、「いま読みたい世界文学の10冊」を選んで、それらをせっせと読んでいた。再読・再々読のものもあれば、恥ずかしながらこれが初読というのも多い。正直なところ、「これまでさんざん大きな口を叩いておいて、ちょっと自分はブンガクを甘く見てたんじゃないか」との反省もあり、新年早々いささか忸怩たる思いなのだった。
 その筆頭がこれ。


☆☆☆☆☆☆☆☆


① 戦争と平和 トルストイ 望月哲男・訳 光文社古典新訳文庫 1~6


 「世界文学でどれか一作」といったら、たいていのひとがこれを挙げるのではないか。質量ともに圧巻の一語。ぼくは高校に入ってすぐ、学校の最寄りの商店街の本屋で第1巻を買い、「夏休みまでに読破しよう。」と目標を立てたものの、結局は冒頭のパーティーの章から先に進めずじまいで、そのままになってしまった。じつに40年以上も前の話であり、しかもそれ以後、とくに再チャレンジを試みることもなかったのだから、やはり「忸怩たる思い」というよりない。身も蓋もないことをいってしまえば、どうも翻訳ものが駄目なのである。
 それは新潮文庫の工藤精一郎の訳で、今なお版を重ねているが、ほかに岩波文庫から米川正夫の訳も出ており、のちに藤沼貴の新訳にかわった。だから現在は新潮文庫の工藤訳、岩波文庫の藤沼訳、そしてこの光文社古典新訳文庫の望月訳があって、ぜんぶ電子書籍化されている。
 このたび『戦争と平和』に取り組むに当たって望月訳を選んだのは、電子版でサンプルをダウンロードして3種の訳を読み比べてみて、いちばん読み易かったからだ。この訳がいちばん新しい。新しければいいってもんではないはずだけど、光文社古典新訳文庫は総じてどれも読みやすい。この『戦争と平和』もしかり。日本語がこなれていて、訳注が親切で、解説が行き届いている。実用本位の文章ならばいざ知らず、小説というのは文体が命だから、原著者のみならず訳者との相性が大切であり(だからぼくは苦手なのだが)、自分の体質にあう日本語になっておらねばどうしようもない。


 『戦争と平和』とはいかなる作品か。第1巻巻末の「読書ガイド」から、ごく一部を抜粋してみる。


「『戦争と平和』が書かれたのは、今からおよそ一世紀半前の1863年から69年にかけてのこと(eminus註 だから日本でいえば幕末から明治初頭。文久3から明治2まで)。1828年(eminus註 文政11)生まれのトルストイにとって、30代の半ばから40代の入り口までをそっくり捧げた勘定で、彼の創作歴の初期から中期へ、中・短編作家から長編作家への移行を画する作品となりました。
(……中略……)
 物語のつくりからしても、ロシア人、フランス人をはじめ諸国民からなる550名以上もの実在・架空とり混ぜた人物群の活動が、ロシアとヨーロッパ中・東部の広い地域を舞台に7年以上の歳月にわたって描かれるという、近代小説としては破格の規模。人名、地名、使用言語を含め、情報の種類や質もきわめて多様で、作品の分量も当然多く、本書のサイズで六巻に及びます。
 豊富な内容と多彩な語り口の独特な組み合わせゆえに、「(人間の生の営みを完全に再現した)真の芸術の奇蹟」(ニコライ・ストラーホフ)、「現代最大の叙事詩であり、近代の『イーリアス』」(ロマン・ロラン)といった称賛から、「ぶよぶよ、ぶくぶくの巨大モンスター」(ヘンリー・ジェイムズ)という酷評まで、評価のあり方も複雑です。興味深いことに、作者自身はこの作品を「小説ではないし、ましてや叙事詩でもなく、歴史記録などではさらさらない。」と、念入りな否定形で定義しています。」


 ぼくのほうから思いつくまま付け加えるならば、礼賛のほうでは、たしか辻原登が「神が書いたとしか思えない。」と最大限の賛辞を呈し、返す刀で「これに比べればドストエフスキーなど青春文学に過ぎない。それもかなり病的な」と切り捨てていた。ドスト氏に対して辛辣すぎる評価だとも思うが、20世紀最大の作家のひとりウラジミール・ナボコフ(一般には『ロリータ』)の作者として有名)も、わりとこれに近い評価を下している。サマセット・モームも、かの『世界の十大小説』(岩波文庫)において、「あらゆる小説のなかでもっとも偉大な作品」と明言している。
 いっぽう、誹謗のほうでは、柄の悪さ・品のなさにおいて世界文学史上屈指のブコウスキーが、連作短編のなかで自分の分身と思しき男に「久しぶりに戦争と平和を読み返したが、やっぱりひでぇ代物だった」と再三にわたって罵らせている。じっさいにはもっと汚い言葉遣いだったと記憶しているが、当ブログでは品格を重んじてこれくらいの表現に留めておきましょう。しかし、本気で「ひでぇ代物」だと思っているなら繰り返し読み返すこともないはずで、これはブコウスキーが、『戦争と平和』の凄さを十分に認めたうえで「俺はアイツの対極を目指してるンだよ。」と暗に宣言していると取っていいだろう。誰であろうとおよそ小説を書く者ならば意識せずにはいられない。ヘンリー・ジェイムズだって、本音をいえばそのはずだ。それくらい、巨大な作品ってことである。
 トルストイじしんが本作を「小説でも、叙事詩でも、歴史記録でもない。」と述べたというのは有名な逸話で、ぼくもこの文章を読む前から耳にしてはいたが、これはもちろん、謙遜でも韜晦でもなくて、「小説や叙事詩や歴史記録を超越したテクスト」との自負であり、実際まさしくそうとしか言いようがない。
 ところで、「小説(novel)」という用語(概念)は厳密にやればなかなか厄介で、難しくなってくるのだが、「叙事詩(epic)」という文芸用語も、しょっちゅう使われるわりには厄介なものだ。
 Wikipediaの日本版には、
「叙事詩(じょじし、英語: epic、epic poem、epic poetry、epos、epopee)とは、物事、出来事を記述する形の韻文であり、ある程度の長さを持つものである。一般的には民族の英雄や神話、民族の歴史として語り伝える価値のある事件を出来事の物語として語り伝えるものをさす。」
 とある。
 さらにこのあと、
「大岡昇平はさらに「戦争を内容とする」ものとしている(「常識的文学論」)。
 と付け加えてある。この『常識的文学論』は、いまは講談社文芸文庫に入っているが、1960代初頭、井上靖の『蒼き狼』(新潮文庫)がベストセラーになって、いろんな評者が「現代的な叙事詩だ。」「壮大な叙事詩だ。」と持て囃すものだから、小林秀雄直伝の批評精神に富む大岡さんが、「叙事詩とはああいうものではない。いやしくも小説を評するかぎりは言葉を正しく使え。」と怒って論争を仕掛けたものである。
 これは「『蒼き狼』論争」として、戦後日本文学史の1ページを飾っている。つねづね大衆小説~サブカルと「純文学」との関係性をさぐっているぼくにはたいそう興味ぶかいのだが、ふつうのひとには、まあ、どうでもいい話かもしれない。
 覚え書きとして記しておくと、文学史上、真に「叙事詩」と認定された作品はこのあたりだ。

『ギルガメッシュ叙事詩』(メソポタミア)
『イーリアス』『オデュッセイア』(古代ギリシア)
『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』(インド)
『アエネーイス』(古代ローマ)
『ベーオウルフ』(イングランド)
『ローランの歌』(フランス)
『わがシッドの歌』(スペイン)
『カレワラ』(フィンランド)
『ニーベルンゲンの歌』(ドイツ)
『シャー・ナーメ』(イラン)
『マナス』(キルギス)
『ナルト叙事詩』(オセット)
『ユーカラ』(アイヌ)
『ウズ・ルジアダス』(ポルトガル)

 ギルガメッシュからニーベルンゲンまでは有名だし、あとユーカラも日本文学の近傍だからお馴染みだが、ほかのやつは耳慣れない。かつて筑摩世界文学大系に入っていたものは、バラしてちくま文庫などで出ていたりするが、それ以外のは手に取るのも大変そうだ。なお、「オセット」とは今のロシア文化圏らしい。
 ダンテの『神曲』、ミルトンの『楽園喪失(失楽園)』を加える論者もいるけれど、これらは形式としては叙事詩の体裁をとってはいるが、いくつか当てはまらないところもある。
 ()内に現行の国名が書かれているものが多いが、いわゆる「国民国家」が成立する前の作品群なので、「国」というより「民族」、もしくは「文化共同体」の産物といったほうがいいだろう。
 それら「文化共同体」は、強大なものが殆どだが、必ずしもそうとはいえないものもある。「日本が入っていないではないか」と思うが、これにつき、日本版wikiには、

日本文学では、古来に上代日本語を基礎とする古事記、日本書紀、万葉集が有り、その他に『平家物語』などの軍記物や、アイヌのユーカラのような英雄の冒険譚も多くあるが、それらを韻文とする学説は、定かになっていない。

 ……とあって、さらに、

「厳密な意味で、日本に叙事詩が存在しない」との説もあり、代わりに和歌を含みこんだ『歌物語』が成立したと考えられ、『源氏物語』なども和歌を含んでいることから、一級文芸として評価されたとの説がある。
小西甚一は、著作の『日本文藝史』で、「日本は、英雄叙事詩を持たない」と述べている。


 ……と書かれている。
 しかしこの記述は微妙に違っていて、大著『日本文藝史』(講談社)の第1巻で、碩学・小西甚一は、「日本には英雄詩がない。」という言い方をしているのだ。「叙事詩」と「英雄詩」とは違う。ただ、「英雄詩」なる用語(概念)がそれほど熟しているとも思えない。
 古事記や日本書紀にみるスサノオやヤマトタケルの説話が「英雄詩」に当たらない……とは、ぼくにはひどく意外に思え、初めて『日本文藝史』を読んだ際には戸惑ったが、しかし小西氏は、スサノオやヤマトタケルが西欧的な意味での「英雄」の類型に当てはまらない、といっているわけではなく、ほかの箇所ではヤマトタケルをはっきり「英雄」と呼んでいる。
 されどそれを「詩」という形式で歌い上げたわけではない……というわけなのだろうが、このあたり、どうもややっこしくてすっきりしない。もうひとつの巨大な文化共同体・チャイナにおける「英雄(詩)」の不在とも併せて、いま少し考えたいところである。
 「英雄」うんぬんをひとまず置いて、「叙事詩」なる用語にスポットを当てると、「詩」とはほんらい韻を踏んで綴られるもので、つまりはそれが「韻文」という意味だ。しかるに日本では和歌も俳句も五七五の定型(律)によって綴られ、韻(rhyme)を重視しないため、ついついそれを忘れてしまう。
 明治から現代に至る「近代詩/現代詩」でも、韻(rhyme)はほぼ閑却されたままだった。例外として思いつくのは谷川俊太郎の「ことばあそびうた」くらいのもので(かっぱ かっぱらった かっぱ らっぱ かっぱらった とってちってた / やんまにがした ぐんまのとんま さんまをやいて あんまとたべた まんまとにげた ぐんまのやんま たんまもいわず あさまのかなた)、そういう意味では現代詩人たちよりも、いまどきのラッパーたちのほうが、USAのアフリカ系ミュージシャンを介して欧米の詩の伝統によほど忠実だといえる。
 『戦争と平和』は小説であり、散文で書かれているわけだから、そりゃあもちろん「叙事詩」ではない。しかしやっぱり多くのひとが「近代の叙事詩」という言い方をする。上掲の引用のとおり、ロマン・ロランもそういったし、サマセット・モームもいった(お二人とも、まあ、端的にいって通俗作家なのだが)。つまりそれは比喩であり、あくまでも「叙事詩的」ってことなのだ。だからここは大岡さんほど厳密にならず、「叙事詩と見まがうほどのスケールと格調を備えた長編小説」の含意ってことで勘弁して頂こう。
 モームは「このような規模の作品が今後書かれることはない。」とも述べた。そう言いたくなる気持はわかるのだが、モームより30年ほど後に生まれたJ・P・サルトルは「全体小説」という概念を提唱し、『自由への道』(岩波文庫)で自ら実践して見せた。その継承者の中には、たとえば本邦の野間宏がいる。そうそう。サルトルより先に、アメリカにはその名も『U.S.A.』という大作をものしたジョン・ドス・パソスがいた。むしろこちらがサルトルに影響を与えたとおぼしい。 
 「社会のすべて、世界のすべてを自らの手で描き尽くしたい。」という欲望はクリエイターならばいちどは抱くものであり、20世紀の作家たちによるそれらの試みが成功しているか否かは(読んでないので)ぼくには判断できないけれど、『戦争と平和』が(あくまでも19世紀の限界の中で、とはいえ)その目論見を達成しているのは確かなことだ。
 いやいや。内容はほぼそっちのけで、思いつくままの文章になったが、この「あらためて文学と向き合う」カテゴリにおいては、肩肘張らず、こんなぐあいに散歩みたいに筆を運んでいきたいとおもう。文学ってのは何よりもまず楽しむものなのだから。








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