ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて文学と向き合うための10作リスト・01 外せない4作品。

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。

 今年に入ったら世界文学の古典的名作について論じようと思い、「あらためて文学と向き合う」というカテゴリまで作って昨年末から準備してたのに、『戦争と平和』について少し書きかけたところで、体調不良などで滞っているうち、プーチン大統領のウクライナ侵攻ですっかり気勢を殺がれてしまった。「文学に罪はない。」という言い方はできるし、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説と向き合うことに意義がある。」という言い方もできるが、やはりこの状況下でロシアにまつわることを楽しげに語るのはどうにも気が引けるのだった。
 「あらためて文学と向き合う」のカテゴリでは、『戦争と平和』を皮切りに10本の作品を扱うつもりだった。『戦争と平和』ほどではないにせよどれも大物ばかりであり、相変わらず意気込みだけは立派である。そういえば「戦後短篇小説再発見を読む」のカテゴリも長らく中断している。ほかにも「いずれやります。」と言っておいて放りっぱなしになっていることが沢山あったと思うがどれくらいなのかは自分でもよくわからない。いいかげんな奴である。しかし「あらためて文学と向き合う」はごく最近の話なのだからこのままというのも落ち着かない。
 『戦争と平和』論は当面のあいだ憚られるので、今回は「論じる予定の作品リスト」および「それを選ぶに至った経緯」について述べたい。
 まず①、その『戦争と平和』だけれど、これは問答無用の即決だった。妥当な判断だと思う。評価の定まった古典的作品のなかでは、この長編を文学史上の最高峰に挙げる人はけして少なくないはずだ。ぼくとしては、高1の春にいきなり挫折して以来これまでの人生で何度か手を伸ばしながらも結局通読できなかった難物を克服する良い機会でもあった。望月哲夫氏の新訳が出て、これがすこぶる性に合っていて読みやすかったのだ。
 ②がジェイン・オースティン『自負と偏見』(新潮文庫。小山太一訳)。長らく親しまれた中野好夫訳に代わってのこれも新訳である。新しければいいってものでもないのだが、小山さんの日本語はいつも明晰で読みやすい。
 近代小説発祥の地ともいうべき英国からはまずジェイン・オースティンを選んだ。これもそんなに迷わなかった。1775(安永4)年生まれだからトルストイより50年ほど前のひとだ。作風はまるで対照的。さほど大きな題材は扱わず、日常の細部、感情のささやかな動きを緻密に描く。ネット上でどなたかが「トルストイが黒澤明ならばオースティンは小津安二郎」と評していた。少々荒っぽすぎる比喩かもしれぬが、ニュアンスとしてはそんなところである。
 「生きるための婚活」という普遍のテーマを扱っているゆえに、昔から根強いファンに支えられているし、小説史における女性作家の草分けということもあり(紫式部を除く)、近年になって専門家からの評価もますます高い。この人は外せないと思った。
 ③がスタンダールの『赤と黒』。大岡昇平訳。これもいくつか訳が出ているが、70年代に講談社版世界文学全集の一冊として出た大岡さんの訳である。これに関しては数種の訳を読み比べて厳選したわけでなく、家にあったものを選んだ。ぼくが20代の頃にはどの古本屋にも「文学全集」の端本が300円くらいで転がっていた。しっかりした装丁だから嵩張るのが難だが、貧乏な身にはあれはほんとに助かった。そのようにして手に入れた一冊である。
 そうはいっても大岡さんといえば戦後の日本を代表する作家であると共にスタンダリアン(スタンダールの研究家。あるいはマニア)としても高名だった。もともとスタンダールの翻訳や研究書から文業をはじめて創作へ移行していったのだ。丸谷才一流にいうなら「スタンダールの弟子」のひとりである。この訳は上下に分冊されて講談社文庫から出ていたが、今は絶版らしい。勿体ない。
 そしてまたトルストイもいうならばスタンダールの弟子なのだ。いかに彼が大才であろうとお手本もなしに『戦争と平和』は書けない。当時のロシアにはあの大作の導きになるような先行作品はなかった。スタンダールは1783(天明3)年生まれだからオースティンさんとおよそ同時代である。つまりトルストイの50年先輩。トルストイの頃のロシアはすべてにおいてフランスに範を仰いでいた。『戦争と平和』の中の「ワーテルローの戦い」の描出に当たって『パルムの僧院』の戦闘描写を参考にした……という話は有名だけれど、影響を受けたのがそこのところだけである筈はないのだ。
 村上龍のデビュウ作『限りなく透明に近いブルー』でも言及される『パルムの僧院』でもよかったのだが、より読みやすいほうということで、『赤と黒』にした。迷える青年ジュリアン・ソレルの苦難は現代ニッポンの若い世代にも共感できると思う。
 ④がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。上記3作と比べるといささか異色の小説なのだが、やっぱりこれも外せない。なにしろあの村上春樹が、『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』と並べて「もっとも影響を受けた3冊」に選んでいる。発表されたのは1880(明治13)年ではあるが十分これは「現代小説」といっていい。少なくとも「現代小説の源流のひとつ」であるのは間違いない。
 日本では亀山郁夫氏が殊の外このドスト氏に拘って何冊も関連書籍を出しておられる。ぼくが選んだのもその亀山氏の光文社古典新訳文庫版である。今から10年前に出て、この手の古典としては異例なほどの売れ行きを示した。
 この4作は迷わなかった。ほぼ「スタンダード」といっていい。しかしそのスタンダードの中にロシアの小説が2作も入っているのはどういうことなのだろう。近代化の面でも文芸の面でも、あの国は常にヨーロッパ(西欧)に後れを取っていたはずなのだが。しかしその後進性ゆえに、同じく後発だった明治ニッポンの文学者にとってはちょうどよい規範となり、二葉亭四迷(1864/元治1~1909/明治42)を介して日本の近代小説はロシア文学の多大なる影響のもとに誕生したといっていいわけだけれども。



あらためて文学と向き合うための10作リスト・02につづく


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