ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

読まずに語る! マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

2018-11-04 | 哲学/思想/社会学
 マルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ 清水一浩・訳)が売れてるらしい。売れている、といっても「哲学書としては。」って話で、映画化されたラノベみたいな勢いで売れてるわけではもちろんない。こういうものを買って読むのはインテリの中でも「好きモノ」の方々であって、ぼくはまあ、インテリではないんだけれどかなり「好きモノ」ではあるから「読んでみたいな。」とは思っている。きっとそのうち読むつもりだが今はまだ読んでない。読みもしないで書くわけだから、この記事に限っては「なぜ世界は存在しないのか」の検索ワードで上位にこないよう願う。訪問される方に有意義な情報を提供できるかどうか自信ないからだ。

 マルクス・ガブリエルは1980年生まれの哲学者。2009年にボン大学の教授となり、ドイツでは最年少の哲学正教授として話題になったそうな。少壮気鋭というやつだ。ネットの画像で見るかぎり、ルックスもまあまあ。Wikipediaによると、同大学では認識論・近現代哲学講座を担当すると共に、大学内にある「国際哲学センター」のディレクターも務めているとか。過去にはカリフォルニア大学バークレー校の客員教授を務めた、ともある。また「複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟している。」らしい。なんだかよくわからないけど、相当にアタマがいいのは間違いないようだ。

 しかし、これは半分くらい負け惜しみでいうんだけれども、この手の「アタマの良さ」ってのはようするに「情報処理能力の高さ」であって、それで誠に創造的な(クリエイティヴ、と読む)業績を残せるか否かはまた別である。むろん、情報処理能力の低い人より高い人のほうが創造的な仕事を成し遂げる可能性はだんぜん大きいにせよ、逆は必ずしも真ならず。

 ぼくなどは最近つくづく「哲学」ってのは「文学」と似てる、っていうか、ほぼ文学と同じじゃん、という気分になっているんだけど、どちらもつまり、コトバでつくった「世界観」というか「世界像」という点でそっくりだ。あえて言ってしまえば「作品」なのだ。緊密で体系立っててエレガントな「作品」もあれば、ゆるゆるでぐずぐずでみっともない「作品」もある。ニッポンでいえば江戸中期の人だけれども、カントなんてやっぱり今読んでも立派だし、相対性理論と量子力学とを経由した現代人にとっては、確かに古びて見えるけど、しかしこれほど立派な作品を生み出せるひとは現代でもそうはいない。

 こんなこと言っちゃナンだけど、そのへんの大学で「哲学」の講義をもってるような人たちの大半は、自前の「作品」がつくれないから「解説」や「概論」をやって喰ってるわけで、その点も「文学」を担当してる先生方と一緒である。知識が豊かだからって「作家」になれるわけじゃない。「作品」をつくるってのは、それくらい大変なことなのである。

 ところで、どうしてぼくが当の本を読みもしないでこんな記事を書きだしたかというと、「マルクス・ガブリエル なぜ世界は存在しないのか」で検索を掛けて上のほうに出てきた池田信夫さんの短い書評が面白かったからだ。
 以下、出だしの引用。


「世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。それに対して「世界は存在する」と主張したのが唯物論だが、素朴実在論は認識論として成り立たない。
 ヘーゲルの観念論を徹底するとニーチェのいうニヒリズムになり、超越的な存在を否定する「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。そこで出てきたのが、ポストモダン的な「相関主義」を否定して、世界は主観に依存しないで存在すると主張する新実在論である。」


 近世~現代に至る西欧哲学の一筆書きとして、じつに明快である。残念なのは、これがガブリエル氏の本の要約なのか、池田さんご自身の見解なのかがアイマイなとこだが、もし本の要約だとしたら、『なぜ世界は存在しないのか』は、何よりもまず的確な「現代哲学入門」として使えることは間違いない(注・このあと確認したら、ガブリエルさんは本編で別にこんなことは書いておらず、池田氏オリジナルの要約だった)。

 一筆書きだからとうぜん、この濃縮された「西欧近代~現代哲学史」のエッセンスには穴も開いてれば歪曲や単純化も見受けられるのだけれど、この手の話は厳密にやったらたちまち膨れ上がってしまうので、なんとなく哲学っぽいこと、現代思想っぽいことに関心のある若い人なんかはとりあえずこれだけ頭に入れといて、細かいとこはネットを探ったり本を読んだりして詰めていったらいいんじゃないか。

 さて。そうはいっても「ここはやっぱり看過できない。」という点もある。「言語論的転回」というキーワード(キーコンセプト)である。
 これについてはwikiにも「コトバンク」にも簡明な説明が載ってるんで、ここでは詳述は避けたいが、ひとことでいえば「哲学の歴史で延々と議論されてきた問題って、じつはコトバの問題じゃね?」という発想のことだ。これが相当な「発想の転換」だったもんだから、「転回」と呼ばれてるわけだ。
 かんたんな例をあげましょう。
 Aが「人生には意味なんてない。」といい、
 Bが「いや、人生にはやっぱ意味あるよ。」と反論をする。そこで例えばお互いがそれぞれの半生やら体験談を語りだしたら、まあ会話としてはそれなりに面白くなるかもしれぬが議論としてはおそらくずっと決着はつかない。まずは「人生」というコトバでお互いがどういう内容を想定しているのか、それを明らかにしてないからだ。
 もっというなら、「意味がある」「意味がない」というコトバでお互いがどういう内容を想定しているのかについても、詰められるだけ詰めといたほうがいいだろう。

 もっと高尚な例でいえば、「神は存在するか?」というのはどうだろう。昔よく「アナターは神をー信じまーすかー」と路上で尋ねられることがあったが、まず「神」というコトバでその人がどういう内容を想定してるのか、そこがわからないから答えようがない(もちろん大体察しはつくが)。といって、そんな問答を始めたら時間がいくらあっても足らないし、そもそもその人とそれほどの縁を結ぶ筋合いもないので「ちょっと急いでるんで~」と逃げなきゃしょうがなかった。

 ともあれ、「言語論的転回」すなわち「哲学の歴史で延々と議論されてきた問題って、じつはコトバの問題じゃね?」という発想ってのは、すごく卑近にいえばそんな感じで、それを病的なまでに探究したのがウィトゲンシュタインというひとである。

 ウィトゲンシュタインはユダヤ系のオーストリア人だけど、イギリス国籍を得てケンブリッジの教授になった。ヘーゲルに代表される「ドイツ観念論」や、デカルトに始まる「フランス合理論」からは切れていて、英米系の「論理分析哲学」の始祖(の一人)と目される天才だ。

 この「論理分析哲学」は、第二次大戦後には現代哲学の大きな潮流となった。それは、日本で80年代バブル期に流行ったいわゆる「ポストモダン」の面々、すなわちフーコー、ドゥルーズ、デリダ諸氏とはまた別の流れなのである。むろん、「言語論的転回」はほんとうに大きな出来事だったので、「ポストモダン」の面々も相応の影響を受けているのは間違いないが(とくにデリダ)、論理分析学派ほどではない。

 上で引用した池田さんのブログの文章のなかの、
「「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。」
 というくだりの「新ニーチェ派」とはもっぱらフーコーやドゥルーズやデリダ、及びその影響下にある思想家たちのことで、つまりこれでは論理分析学派がすぽっと抜け落ちてしまう。

 もちろん池田さんは、このあとでちゃんとウィトゲンシュタインにも言及しておられるけれど、ぼくがネット上の情報をあれこれ漁ったかぎりでは、どうも『なぜ世界は存在しないのか』におけるマルクス・ガブリエルさんは、「論理分析学派」からは意図的に距離を置いておられるようだ。っていうかどうもこの本、「英米系論理分析哲学」に対する「大陸系」からの逆襲。という印象さえも、ぼく個人は受けたのだった。

 「論理分析哲学」はその後いくつかの流派に分かれていったが、総じていえば「科学(的世界観)」に最大限の敬意を払う、という点で共通している。そして、「科学(的世界観)」は何といっても厳然と現代世界を律しているわけだから、論理分析哲学は、業界でも大きな力をもってるのである。哲学者の中には、「科学(的世界観)」と「哲学(的世界観)」との融合を目論んでいるひともいれば、最終的に「哲学(的世界観)」が「科学(的世界観)」に包摂されるのを期待している(かに見える)人もいるくらいだ。

 「論理分析哲学にあらずんば哲学に非ず。ポストモダン派だ何だといっても、所詮は言語の戯れではないか」といった風潮さえも、ひと頃はあったのである。
 ところが、『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルさんは、その「科学(的世界観)」までをも相対化している。どうやら、「哲学(的世界観)」どころか、「文学(的世界観)」までをも、「科学(的世界観)」と同価値のものだと述べてらっしゃるらしいのである。

 まさに「英米系論理分析哲学」に対する「大陸系」からの逆襲、いや、これはもう「科学(理系)」に対する「哲学(文系)」の逆襲とすらいえよう。
 ここのところをさして、千葉雅也氏×東浩紀氏による対談書評では「面白くない。」「哲学的後退。」「人文学の自慰的な話。」とまで酷評されている。ただこればっかりは自分のアタマで確かめなくちゃしょうがないので、読んでみたいのは山々だけれど、とうとうほんとに『宇宙よりも遠い場所』のディスクを買っちまったので、当面は本が買えないのだった。

 追記) 2019.06 そのあと買って読みました。たいへん面白かったし、「読まずに書いたこの記事も、それほど的外れなことはいってない。」と思って安堵しました。書評はいずれまた。






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