『よりもい』は、明るく楽しいアニメなのだが(ニューヨークタイムズもそういっている)、なにぶんこの12話はとくべつなので、厳粛な気持ちにならざるをえない。
ぼくとしても、ほかの回はともかく、12話のことを書く時だけは、襟を正し、背筋を伸ばし、正座するつもりでやっている。椅子に腰かけてるんだから正座はできないんだけども、そういうつもりでやってるのである。
これはいちおう論考なので、私的な話を絡めるのは慎むべきだとは思うのだが、なんとなく「まあ書いてもいいかな」という気分になっているので書く。幼いころ、近所に7つばかり年上の女の子がいて、よく可愛がってもらった。美人であり、聡明でもあり、考えてみれば「スヌーピー」も「ビートルズ」もぼくはこの人から教わって知ったのだった。生まれ育った地域そのものは極めて柄が悪かったため、ほかにその手の「文化的」な情報を齎してくれる相手はいなかったのだ。それやこれやで、いまだにシスコン気味である。
ぼくが小6くらいの時に越してしまって、それからほどなく嫁していったそうで、まるっきり疎遠になったのだが、数年まえ、とつぜん訃報をきいた。
そのひとの名前が貴子だった。
『宇宙よりも遠い場所』というアニメに過剰なまでの思い入れをしてしまうのは、そんな偶然による個人的事情も与かっているようだ。
貴子が藤堂に遺した最後のことば「きれい、きれいだよ……とても。」が、何を目にしてのものだったか、というのは、考えておくべきことである。
「朦朧たる意識のなかで、かつて藤堂と一緒にみたオーロラを幻視していたのではないか」と、ぼくは仮説を立てて、その旨を、昨年(2018年)9月29日の記事「『宇宙よりも遠い場所』のためのメモ。02 トリビア」に記した。
確信があったわけではなく、この件については煮え切らぬまま、「先に13話のことをやろうか」と思っていたところ、zapさんという方から、前々回の記事にコメントを頂いた。以下その全文を転載させていただく。なお、一行目に「朧化(ろうか)」という耳慣れない単語がみえるが、これは「ぼかす」くらいの意味で、ぼくが以前にコメントへの返事の中で使ったものを、zapさんが再利用して下さったものである。
内陸基地のモデルが朧化されている理由としてもうひとつ考えられるのが
物語上、その場所が貴子と一緒に、あるいは貴子自身が「選んだ」場所
という意味が付与されているからだと考えます。
これが既存の基地であれば、そうした意味合いは薄れてしまいます。
加えて申し添えれば、
貴子の最後のことば「きれいだよ、とても」は
個人的には「星空」を指すものと考えています。
もちろんオーロラ説を否定するものではありませんが、
満点の星空のカットの後、行方不明の貴子を捜索している場面が描かれていて
すでにブリザードは止んでいます。そこに最後の通信が入るのです。
内陸基地は天体観測を目的とした基地です。
その場所の決定に貴子が少なからず関わっていたとしたなら
「きれいだよ、とても」という言葉は
「ここを観測地に選んで良かった」という意味を含むはずです。
この場所に天文台を作ることは、吟にとって貴子の遺言に等しかったのではないでしょうか。
だからこそ、彼の地を吟は「小淵沢天文台」と名付けるのだと思います。
このシーンは、「内陸基地」へと向かう雪上車の中で、一行がブリザードに見舞われたとき、報瀬が「お母さんがいなくなった時も、こんな感じだったんですか?」と尋ね、藤堂が「たぶん、内陸の基地に忘れ物をしたか、足を滑らせたんだと思う。気づいた時には姿はなくて、瞬く間にブリザードになって。」と答えたさいに、回想として挿入される。










まったくもってそのとおりで、虚心に映像を追うならば、このとき貴子がどこかで星空を見ていたと考えるのが自然だろう。ぼくは4枚めのカットを、「ブリザードが静まった」ことを示すためだけのものと思って見過ごしていたが、いささか浅慮だったようだ。
それで「オーロラ」にこだわることとなり、さらには「幻視」なんてものを持ち出したわけだけど、やはり無理がある。
オーロラはたしかに次の13話において大きな意味を担う。しかしそれはどこまでも「希望」の象徴だ。悲しみの色を帯びてはいない。そのことからも、「きれい、きれいだよ……とても。」は、星空を見上げながらの言葉だったとみるのが正しい。
貴子は星空を仰ぎながら通信機の向こうの藤堂に向けてその言葉を遺した。それゆえの「小淵沢天文台」であり、第7話「宇宙(そら)を見る船」とも響きあうわけだ。
もともと自分自身の考えをまとめるために始めた連載なのだけれども、あちこちからコメントを頂いて、この作品への理解と愛着がますます深まっていく気がする。ありがとうございます。
遺志だとか生前の希望だとかいっても、それが本心なのか、ほんとうに願っているのかは、だれにもわからない
私が来たかったから。貴子がそうしてほしいと思っていると、私が勝手に思いこんでいるから
結局、ひとなんて思い込みでしか行動できない。けど、思い込みだけが現実の理不尽を突破し、不可能を可能にし、自分を前に進める。私はそう思っている
という事かなと思い直し始めているところです。
前回言い足りなかった分を付け加えさせてください。
貴子が最期に見たものがオーロラだという意見は否定しないと書きました。
否定しないというよりも、この考えも充分魅力的だと考えています。
仮に報瀬が母の最期の言葉を聞き知っていた場合、
(それはおそらく母の行方不明を告げる吟の口から聞いたでしょう)
母が最期に見た、きれいだといったものはなんだろうと考えるはずです。
そして同じく母の言う「南極の宝箱」と重なって
母が消えた彼の地へと報瀬を導く強いモチベーションになったはずです。
いや、別に報瀬が母の最期の言葉を知らなくてもかまわない、
少なくとも我々視聴者は、貴子は最期に何を見たのだろうという疑問を抱え、
報瀬と同化しつつ物語を追いかけたはずです。
そして、母からの最期のメール
「本物はこの一万倍綺麗だよ」
「綺麗」という言葉が使われているのがポイントです。
ああ、母が見たものが見つかったんだと思うだけでなく
「知ってる」
と、それを既に乗り越えた報瀬がいます。
これは実物を見たから言っているだけではないでしょう。
四人で、一緒の時間と空間を通して共に苦労を乗り越えてきた四人で見ているからこそ
母が最期に見たオーロラを越えられるのです。
(これは報瀬の南極での最期のスピーチと重なり、
同時に12話で雪上車の中でキマリが報瀬に言ったことも受けています)
こういう見方も充分魅力的だと思うのです。
オーロラが幻視であってもいいんじゃないでしょうか。
思うに貴子が最期に見たものを物語として明示しないのも
管理人さんがおっしゃる「朧化」ではないでしょうか。
「きれい」と言ったものを受け取る側が自由に感じ取る、
そういう余地を残しています。
本当に「よりもい」は脚本・演出と飛び抜けています。
そうなんですよねえ。星空と解しても、オーロラと解しても、どちらでも、豊かな物語が広がる。いや、「物語」の奥にあるもの、あるいは、物語のその先といったほうがいいかな。
法律の条文ではあるまいし、「黒白を争う」ことではない。「貴子が最後にみたもの」については、このアニメを見終えたぼくたちが、それぞれに、想像の裡で思い描けばいいのかな、という気もします。
おっしゃるように、作り手のほうも、あえて「朧化」のための余白を残しているとも思います。
ひとつだけ、無粋を承知で事実確認をしておくと、仮にそれがオーロラであったとして、あのときじっさいに空にかかっていたわけではないんですよね。あくまでも幻視のなかの情景であると。ぼく自身は、そこに引っかかっていて、「星空」に傾いています。ただ、さらに何回か見直したならば、また変わってもぜんぜん不思議じゃありません。
たとえそれが幻視のなかのものであっても、貴子がそのとき、宇宙(そら)を視ていたのは、間違いのないことですもんね……。