ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第5回・小川国夫「相良油田」その⑥

2015-12-03 | 戦後短篇小説再発見
 今年の3月にはじめたこの「相良油田」の回がえらく長引いて、われながら弱ってるのだが、あながち悪いことばかりじゃなくて、先日ひょんな発見があった。花村萬月の『ゲルマニウムの夜 王国記①』(文春文庫)を買ってきたところ、なんと巻末に、作者の花村氏と小川国夫との対談が載っていたのである。しかも、おざなりな内容ではなくて、小川国夫ファンにとっては看過できない重要なことがいろいろ書かれている。奥付を見ると、この文庫版の初版は2001年。いやはや。ぜんぜん知らなかったなあ。花村文学はとかく荒っぽい印象があって、ずっと敬遠してたからなあ。1999年に「文學界」に掲載されたものの採録なのだが、無頼派というよりむしろアウトローくさい花村さんと、生真面目な小川さんとの取り合わせは、やはりいかにも意外に思えた。ちなみに年齢差はほぼ30歳。

 少し考えて、あっ、そういえば、単身オートバイを駆っての放浪癖、という相似点があるなと思い、いやいやいや、そんな皮相なことじゃなく、カトリックというもっと大きな共通点があったじゃないかと思い至った。対談のタイトルも、「神を信じるか」となっている。これはまことに巨大な問題で、正直ぼくには扱いきれない。しかし対談を読み始めると、何よりもまずこの二人、「暴力」という主題で激しく共鳴しているのである。あけすけにいえば、「暴力」というテーマが俺たちの文学の根源にはあるんだぞ、と両者がそれぞれの口から語っているのだ。それが思うさま露骨に顕在化してるのが花村文学であり、前面に出さずに暗喩もしくは象徴のかたちで描かれているのが小川文学である。と、ほとんどもう、小川さん自身がそこまで言っちまってるんである。ぼかぁほんとにびっくりしたね。

 「純文学」はエンタメ系と比べてそれほど好んで暴力を扱うわけではないが、それでも何人かの作家の名前はすぐ浮かぶ。小川さんは大昔に中上健次と対談していたが、それほど意気投合していたふうではなかった。あと、1999年の時点なら、たとえば藤沢周でも阿部和重でも対象になりえたはずだけど、惹かれあう相手が花村萬月じゃなきゃならなかったのは、やっぱりそこにカトリックという同じ土壌があったからだろう。宗教とは暴力である、などと言ってしまったらもちろん極論・暴言のそしりは免れまいが、いかに教義の根幹に「非暴力」を据えていようと、やはり宗教と暴力とは切り離せないものだとぼく個人は思う。人類の過去が(そして現状が)否応もなくそれを証明している。このふたりの描く暴力は、カトリックの信仰を何らかの形で一度くぐった暴力だ。はっきりと論理化はできないのだが、そのことをぼくは肌で感じる。

 「解説」としてのその対談は、あいさつ代わりに花村が小川の「描写の力」を賛美したのち、ただちにこんな話になる。


 花村 たとえば、「速い馬の流れ」の最後の海の描写ですね。(メモを出して)「浩が浜の方を振り返ると、槇の向うに青黒い海が迫っていて、波頭が流れていた。それは、今までよりも速くなっていて、馬が群がって、斜になだれ込んで来るようだった。遠くにも、歯を出して背筋を嚙み合いながら、無数の馬が続いていた。」ちゃんと頭の中に絵が浮かぶんです。海をこんな描き方できるなんて、とんでもない人だと思って、それ以来、小川さんの作品に一人で勝手にのめり込んでいったんです。

 小川 ……なんといえばいいのでしょうか。いまの部分は自然描写ですけれども、僕は何かこう自然の動きの中に暴力的なものを感じるんですかね。

 花村 はあー。

 小川 その……「速い馬の流れ」は、なにか女がさいなまれるとか、翻弄されるとか、そういうフィーリングをバックに置いて海を書いてますから。

 花村 ええ。事情のありそうな女性が出てきますね。

 小川 花村文学だったら、ズバリ描いちゃうところですけれどね(笑)。

 花村 そうなっちゃうから、駄目なんですよ(笑)。

 小川 僕はズバリ書こうとしても、あなたほど知らないから、書くと、馬脚を表すだろうと思って書かないんです。


 小川国夫が志賀直哉とならんでヘミングウェイに影響を受けているのは明らかだけど、ヘミングウェイの文体は「氷山の8分の1」と言われる。海面の上に出てない8分の7が、あの簡潔な文体の裏打ちとなって凄みを生み出しているというわけだ。つまり、ぼくなりの言葉で乱暴にまとめてしまえば、花村萬月の文学とは、小川国夫が書かない(小川さん自身の謙遜めいた辞に従うならば、書けない)8分の7をあからさまに描いたものだ、ということになる。さらにこのあと対談の中身をつぶさに読んでいくならば、どうしてもそういうことになるのである。積年の小川ファンとして、また、純文学とエンタメ小説との差異についてあれこれと考え続けてきた者として、ぼくがびっくりさせられたのも当然だろう。そこまで言っていいもんかいと。

 小川さんはほかにも、「自分の小説は説明しないから、ふつうの読者にはわからない。」とか「俺、描写書いとくから、あとのことは想像してくれ、と思ってる。」とか「編集者にはいつも、せめてもうちょっと言葉を足してくださいと言われる。」とか、なんかもう苦笑を通りこして笑っちゃいそうな意味のことをおっしゃっておられるんだけど、年齢とキャリアを重ねて一定の境地に達せられたのか、これほど面白い対談も久しぶりだった。もっと早く気づけばよかった。15年も遅かった。でもまさか、小川国夫と花村萬月とが肝胆相照らしてたなんて思わんもんなあ。

 いま俎上に載せている「相良油田」にも、けして前面には出てこないけれど、やはり暴力は伏在している。あくまでも夢のなかの話ではあるが、例の「海軍士官」が生々しい屍体となって登場するのだ。しかしそれは、「浩」と「上林先生」との(夢の中での)道行きの果てのことである。まずはふたりのやりとりを見ていこう。



 その⑦につづく。

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