アニメ版としてリメイクされ、この1月から放送中の『どろろ』、いま第五話までだが、かなりの出来栄え。人間と世間と歴史の闇を煮詰めたかのごとき、凄愴かつ重厚、しかも極めて現代的な作品に仕上がっているのだ。
改めて思い知ったが、これはまた「物語」のもつ闇の部分を煮詰めた作品でもあった。手塚治虫はつくづく天才だ。魔物と契約した父親のため身体の48ヶ所を奪われた姿で産み落とされ(今回のアニメ版では12ヶ所に改変)、すぐに捨てられて川に流される百鬼丸は「貴種流離」の系譜を引いているわけだが、のみならず、ここには記紀神話にみる「蛭子」のイメージまで重ねられているではないか。これはむかし原作を読んだ時には気づかなかった。
「真の父親」ともいうべき医師・寿海に拾われ、義肢を装着してもらうことで「再生」を果たすところ、さらに魔物たちを倒して奪われた部分を取り戻すべく各地を遍歴するところは、『鋼の錬金術師』をはじめ、たくさんの後継作にインスピレーションを与えている。
いっぽうの主人公たるどろろは、まだ性的に未分化で、かのアトムとも、さらにいうならサファイア王子とも通底する手塚好みのキャラである。しかし、それが百鬼丸という強烈な個性のバディー(相棒)となることで、ほかの手塚作品にはないふくざつな効果を醸している(近いのはブラックジャックにとってのピノコか)。しかも彼女(なんだよね)は、「戦災孤児」でもあるのだ。
野心に燃える父・醍醐景光には「マクベス」のニオイがするし、母親の情愛を除くすべてのものに恵まれた弟・多宝丸との葛藤は(アニメ版ではまだそこまで話は進んでないが)、これまたどこの神話/民話にもみられる「兄弟相克」のパターンである。この点、高橋留美子の『犬夜叉』も、「後継作」のリストに加えてよいかと思う。
さらにアニメ版では、「六部殺し(まれびと殺し)」や、「母性的なるもののもつ二面性」、さらには「生きるための売春」など、業の深いモティーフがたっぷりと盛り込まれていた。また原作とは異なり、百鬼丸は身体の各部を取り戻すたびに「痛み」を知って「弱く」なる。あたかも嬰児からまた生をやり直すかのような按配なのである。人工知能が「心」を育てていくかのように。
ただし、その「成長」は、穏やかな日常の中でなされるわけではない。彼とどろろは、常に周囲を夥しい外敵に取り巻かれているのだ。
「物語」とは人間にとって不可欠なものだが、けして明るく楽しいだけではない。むしろ、「闇」の奥底から這い出るようにして生成されてしまうものなのかもしれない。そんなことまで考えさせられる、ストレスフルだが目の離せないアニメなのである。
ファンタジーだからって現実的に納得できない部分が多すぎるのだ。
百鬼丸が魔物を倒せるようになるまでのヘレン・ケラーの三重苦以上の状態からの現実世界への適応はもっと丁寧に描かれないと(もう視聴者の側はどうしようもなく進んだ世の中に居るわけで)ダメだし、魔物たちもフツーに戦国の世の中に共存している状態じゃあ変だろう(クトウル-のような存在を醍醐景光が召喚するンなら納得できようが・・・)。
絵柄もリニューアルしたんなら魔物のデザインも思い切って現代風にアレンジした方がイイだろうし、倒された魔物の木像が裂けるのも何だかな~ってカンジ。
もう原作もアニメもとっくに結末まで行っちゃったのだから、再度アニメ化するなら現代人が見てナットクできるようなアレンジが必要だと思いますね。
たんに「話題になりそうなコンテンツ」だなんてさもしい話じゃないでしょう。「今のニホン社会には『どろろ』という「物語」が必要なのだ!」と製作陣が決断したってことで、ワタクシはその決断を多とするものです。
出来栄えのほうも、6話まで見終えて、「原作に最大限の敬意を払いつつ、よくもここまで現代の抱える問題を取り入れたものだ」と感心することしきりなんで、今回のコメントを拝見して、「いろいろな意見があるなあ……」と改めて思ったんですが。
生まれて初めて聴覚を得た百鬼丸は、虫の音(ね)や風のそよぎにも赤子のように怯える。どろろの声さえ脅威でしかない。そんななか、たまたま出会ったミオの歌にだけ癒されるんですよね。こんなにも繊細で、胸に迫る描写は、原作にはもちろん、どんなリメイク版にもなかった。まさに「今」のスタッフだからこそできた表現だと思います。
そしてそのミオは、自分が身を売ってまで守ってきた「戦災孤児」ともども、無残に、そして呆気なく、侍どもによって斬殺される。そのとき、百鬼丸が咆哮するでしょう。声帯を取り戻してのち、彼が最初に発した声は怪我による叫びで、二度目がこの怒りの咆哮なんですね。コミュニケーションとしてではなく、感情の激発としての発声。おそらくこれから、どろろとの交流の中で、少しずつ人間としてのコミュニケーションを学んでいくのだと思います。こういう丁寧な作りにも、ほとほと感心してますね。
「百鬼丸が魔物を倒せるようになるまで」とは、少年期の彼に寿海が剣術を仕込むシーンのことでしょうか。そもそも、あんな状態の人間が義肢を操ること自体、リアリズムの見地からいえば不可能なんで、そこは「早送り」みたいな感じでやったんだなあとぼくは思ったんですが……。原作では、「念動力」ってことになってましたね。ブラックジャックのピノコもそうだけど、青年誌向けの作品で「鉄の旋律」というのもありました。手塚さん愛用の手法だったんですよね。
原作の百鬼丸は、ほかにテレパシーも使えば腹話術も使う。まあ超能力者ですね。今回のアニメでは、テレパシーと腹話術は完全に封印してるけど、義肢を自在に扱えるのだけは「念動力」と解釈しなきゃ説明がつかない。だけどそれは表に出さないようにして、「修練のたまもの」みたいにしてるんで、そこに違和感をおぼえるのはわかります。そこはたぶん今回のリメイク版でいちばん難しかったところじゃないかと。
あと「魔物」の件ですね。父の醍醐景光と契約して、百鬼丸から各部を奪った妖(あやかし)は「鬼神」と称されているようですが、ともかく、リアルな時代劇のなかに異形のバケモノがぞろぞろ出てくるってのは無理があるっちゃあ無理がある。原作では、明記はされないけど「室町末期。応仁・文明の大乱を経たあと」が時代背景なんですね。だけど妻夫木聡・柴咲コウが演った2007年の実写版では、「賢帝歴・三千四十八年」とか何とか、いちおう昔の日本をモデルにしながら、架空の異世界って設定にしてました。それもひとつのやり方でしょう。
ただ、ぼく個人は、『今昔物語集』とか『日本霊異記』とか、古い説話が好きなんで、古代~中世びとの感性として、生活の場のすぐそばに「異界」なり「妖」がつねに蠢いている、というニュアンスは分かるんですよ。何しろ昔は、いまの感覚では及びもつかないくらい「闇」が濃くて深かったわけで……。このアニメは全体にかなり色調を暗くしているので、おどろおどろしい妖がいきなり出てきても、ビジュアル的にはそんなに違和感をおぼえません。それに、鎮められない「怨霊」(恨みつらみ)が煮詰まって化けて出るなんて、この現代社会にあってさえ、けっこう起こっていそうな話じゃないですか……。今の6期・鬼太郎は、(見てないけど)そんな塩梅でやってるようだし。
というわけで、あれこれと反論に相勤めましたが、いうまでもなく、100人の視聴者がいれば100の見方があり感じ方があって、それぞれの意見や好き嫌いがあるわけで、ぼくの考えをどなたかに押し付ける気は毛頭ないです。だけどまあ、これはいちおうワタシのブログなもんで、これくらいは言わせてください(笑)。
私はナカナカにイイ出来だったと評価しています。あの(臥せった奥方が変化する)蛾の化け物など、ヨイ出来でした。
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愛するが故に評価が辛いのはご容赦を。
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私のブログで今回のリメイクを大層評価している方がいるので、ご紹介しておきましょう。
『正しいリメイクの形』(西京極 紫の館)
https://blog.goo.ne.jp/nishikyogoku/e/f504fe5f496f1d1a0dddca44ce11f4f6
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私はそこのコメントにもカキコしましたのでヨロシクです。
百鬼丸は、天才・手塚がうんだ膨大なキャラのなかで、ぼくがいちばん好きというか、いちばん感情移入してるキャラですね。
ちょうど今ブログでやってる「生まれながらの不平等」にも関わるんだけど、ぼくなんて、本一冊、レコード一枚無い家で生まれて、親はスカポンタンで、「俺にはなんもねえじゃん。いってみれば、なんもかんも奪われてるみたいなもんじゃん」と小5くらいの時に思ってね。
せっせと図書館に通って、それまで知らなかった知識を得て、疑問に思ってたことが少しずつ判然としていくたびに、「一つずつ取り戻してる」ような気になってました。
完全に「比喩」として百鬼丸をみていたわけで、それが正しい態度と呼べるかどうかは怪しいけど、自分にとってはリアルでしたね。
まあ、それは「百鬼丸」についてのぼくの思い入れ。今回のリメイク版『どろろ』という「作品」についての話はまた別。
「物語」ってのはほんとに無限のバリエーションが可能でして、mobileさんが書いてらしたのも、もちろんそのひとつ。どれが正しくてどれが間違いってことはない。もっと肉付けをして、二次創作として完成させたら面白いんじゃないかな、とまじめに思います。
ただ、ぼくは今回のスタッフによるリメイク版がすごく好きだし、これまで(6話まで)のところ、現代のニホンが切実に必要としている「物語」だと評価しているのです。