ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第7回・中沢けい「入江を越えて」その①

2016-03-23 | 戦後短篇小説再発見
 「戦後短篇小説再発見1 青春の光と影」、7人目にしてようやく女性作家が初登場である。そしてまた、あの「新潮現代文学」全80巻に収録されておらず(つまり昭和50年代の時点で文壇の主流メンバーに入っておらず)、なおかつ芥川賞を授与されていない作家の初登場でもある。
 中沢けい。昭和34(1959)年生。1978年に「海を感じる時」で群像新人賞を取って18歳で鮮烈にデビュー。「新潮現代文学」に収録されてないのも当然で、この人はそのあとに出てきた世代、いわば「文壇」がちょうど崩壊を始めた頃の世代といえる。同じ群像新人賞出身の作家としては、1976年の村上龍と1979年の村上春樹とにぴったり挟まれているのも今日から見れば面白い。べつにご本人は面白くもなんともなかろうが。
 前回の「バス停」は母娘ものだったけど、あのときにも述べたとおり、われわれオトコには母娘関係の難しさってものはわからない。「海を感じる時」はたまたま「バス停」の翌年に発表されたものだが、その関係性のドロドロぶりは、とても「バス停」の比じゃあない。「バス停」の母親は不器用ながらも切々と娘を見守っている按配だったが、「海を感じる時」の母娘関係はもう「愛憎渦巻く」としか言いようがない。娘に対する母、母に対する娘のなかに、愛と憎しみとが、ともども渦巻いているのである。語り手(主人公)である女子高生の性体験談よりも、ぼくなんかむしろそっちのほうが印象に残っている。
 「海を感じる時」については、当時「群像」の選考委員だった大御所・吉行淳之介が「18歳の作者が、感傷に流されず、背伸びもせず、冷静に対象を眺める力をもっているのは、その年齢とおもい合わせると、大したことなのである。また、その少女の描く18歳の子宮感覚は、清潔で新鮮であり、そういう表現が作品に登場したということは文学上の事件といえる」と評した。これは今でも語り草である。「子宮感覚」という表現は、フェミニズムが浸透した今日の感覚ではやや耳ざわりに響くやも知れぬが、「女性ならではの生理的な感覚」といったほどの意味で、いかにも吉行さんが好みそうな言い回しだ。それにしても「清潔で新鮮」とはさすがに的確な評である。爛れた男女関係を描いてるはずなのに、ちっとも汚い感じがしない。
 そうはいっても、女子高生のセックスについて物おじせずに踏み込んでいった小説として、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』ほどではなかったにせよ、スキャンダラスでセンセーショナルな文学という扱いを受けた。本もけっこう売れたはずだ。どういう事情かは知らないのだが、2014年になんだか唐突な感じで映画化もされた。それはこの作品が今もなお魅力を失っていないことのあらわれではあろう。
 ところが、このたび調べてみて驚いたのだが、「海を感じる時」は芥川賞の候補になっていなかった。中沢さんが芥川賞を取ってないのは知っていたが、候補にすらなっていないとはまったく意想外だった。このデビュー作だけでなく、そのあとに発表したいくつかの秀作(「入江を越えて」をふくむ)も候補になっていない。話題性においては第一作に及ばぬとはいえ、文章も小説のつくりも一作ごとにぐんぐん巧くなってるのに……。ほんとにこれは意外だった。
 「芥川賞を取っていない大物作家」という話題は奥が深くて、それだけで記事が数本書けるほどだが、その筆頭は太宰治であろう。又吉直樹の受賞のさい、太田光が「ダザイ超えかよー」と叫んだのはその含意である。これはどうやら選考委員との確執によるものだったらしい。あと、三島由紀夫も取っていないが、これは三島のデビューが戦時中で、芥川賞が中断していたためだった。戦争に負けて改めて芥川賞が再開されたら、もう自分が選考委員を務めるくらいに天才・三島は偉くなってたのである。
 若くしてデビューした女性作家では、倉橋由美子(1935生)、金井美恵子(1947生)が取ってないのも有名だ。このお二人は少なくとも一度は候補にはなったと思うが……。これらの閨秀(けいしゅう)が取れなかったのは、「若い女の子」にとっての芥川賞のハードルがそれだけ高かったということである。中沢けいは金井さんよりさらに一回り下の世代になるが、その頃でも事情はさほど変わってなかった。1978年当時といえば、選考委員はオトコばっかり、それも50代から70代のおじさんないしおじいさんばかりであった。いちばん若い大江さんで40ちょっとだったと思う。だから、「娘くらいの(あるいは孫くらいの)齢の子の書くものなんて……」という気持がどこにもなかったとは思えないのだ。
 倉橋由美子、金井美恵子は日本の現代文学史にくっきりと名を刻む作家であり、中沢けいはタイプこそ違うがこの二人に勝るとも劣らぬ才能の持ち主だ、とぼく個人は思っている。当時のほかの候補作とじっくり読み比べたわけではないから、あまり大きなことは言えないが、「海を感じる時」を初めとする中沢けいの諸作が候補にもならなかったのは、芥川賞の歴史における欠落の一端を示すものではなかろうか。
 それにしても、「若い女性作家と芥川賞」という話になると、どうしても綿矢りさのことを思い起こさずにはいられない。彼女の受賞作「蹴りたい背中」も、現役の女子高生を主軸に据えて描いたものだが、セックスの要素は微塵も出てこなかった。もし性意識ってものが時代とともに爛熟していくものならば、「海を感じる時」と「蹴りたい背中」とはむしろ順序が逆じゃないかと思えるのだけれど、そこがブンガクの奥の深いところというか……。ひょっとすると、若くて未熟な精神にとっては、お互いの心をじっくり育てていくよりも、「カラダの関係」をもってしまうことのほうがかえって簡単なのであろうか……。このあたり、高校時代はひたすら本を読んでいて、実体験の極度に乏しいぼくには今もってよくわからないのである。だからこれから「海を感じる時」じゃなかった、「入江を越えて」を論じるについていささか不安がなしとしないのだが、まあ順番なんでやってみましょう。ただ、ほかの作品に対する解説にもまして、私的で我流のものになっていくような気がしているが……。