ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その④

2016-03-10 | 戦後短篇小説再発見
 お話が停滞したら新キャラを出す。古今東西、これはストーリーテリングの基本である。新たなキャラクターが登場すれば、そこに新たな人間関係が生まれ、否が応でも作品世界に変化を来たす。新キャラの出現はそれ自体がひとつの事件といっていい。
 それがエンタメ小説(直木賞系)で、しかもミステリや冒険ものであったなら、「事件」は文字どおりの事件であって、人の生死や、時には国家の存亡にさえ関わったりもするわけだが、純文学(芥川賞系)はもっぱら日常の生活を重んじるものだから、それほど大変なことにはならない。往々にして、登場人物の心にほんのわずかな漣(さざなみ)が走る、といったていどで収まってしまう。まず天下国家を揺るがすほどの事態に発展しないのは確かである。
 そんなだから純文学は面白くない、ってぇことで、まともな市場が形成されず、「火花」くらいの作品が持てはやされてしまう。「火花」はけっして悪い小説ではないが、そこまで騒ぐほどのものでもない。それもこれも、読者が成熟してないせいだ。ふだんから純文を読みなれている層が手薄いために、作品の文学的価値とは別のところで、話題性だけが独り歩きする。困ったことである。
 まあ、こんなことで困っているひとも、ぼくを含めて日本全体で数千人単位だろうとは思うが。
 ぼくみたいな少数派からすれば、大きな事件が起こらぬからこそ、登場人物たちの心の襞が濃やかに写し取られて、純文学は好ましい。もとよりすべては、文章(ことば)の力があればこそだ。


 バスではなく、おんぼろの乗用車が一台あたしたちの前を通って行った。一旦通り過ぎてからまもなく引き返してきた。運転している男は黄色いヘルメットをかぶって作業服を着ており、母とは顔見知りらしかった。ダム工事に来ているのだ、と母は言い、いい人だ、とつけ加えた。しかし、あたしはそうは思わなかった。あたしはひと目見てどんなタイプの男かわかった。


 じつに判りやすいかたちでの、新キャラ登場である。映画のワンシーンを見るようだ。連載の初回でも述べたが、この短篇はほんの少し手を加えるだけで寸劇に仕立てられるだろう。そういうふうに書かれている。最近の若手作家は、文学全集に名を連ねる古典的な大作家などより、むしろドラマや劇画やアニメ、時にはゲームやコントなんかに影響を受けて創作に携わるひとも多いかと思うが、初期の丸山健二の作品も、当時はサブカルとして一段低く見られていた映画というジャンルからの強い影響がうかがえる。
 弱冠20歳とはいえ、水商売の世界で揉まれて男ズレしている娘の目には、この男が「油断のならない、金をかけずに遊ぼうと考えている男」と映る。「勤め先のお店へ来る客のなかにも、彼のような男が何人もいた。」 もちろん、その観察はきっと的を射ているのであろう。はてさて。世の中の紳士諸君よ、他人事ではありませんぞ。
 男はまじまじと彼女を見つめ、愛想笑いを浮かべながら、町へ行くなら乗せていってやる、と誘う。こんな暑いところで、いつ来るともわからぬバスを待ってることはない、クルマならバスよりずっと速いよ、と言い、助手席のドアを開けたりする。町に行くには淋しい森をふたつも通り抜けねばならない。娘はもとより警戒して乗らない。誘いにも乗らぬしクルマにも乗らない。いっぽう、齢はくっているものの、世間知らずでお人よしの母親は、「乗せてもらえ、おまえ」としきりに勧める。若くして都会で辛酸を舐めている娘と、村落共同体のなかでのんびりと人生を送ってきた母親との違いだ。
 男のほうも(村の人々とは違って)、娘のことを一目で見抜いたらしい。「普通の女を見る眼つきではない目」で彼女を見ている。娘のほうは、「どんなひどいことでも平気でやってのける人相だ」と内心で推し量っている。これはいささか言い過ぎじゃないのとも思うが、ひとけのない場所で、年老いた無力な母親とたった二人、いかつい男と対峙している彼女からすれば、それくらいの不安はあって当然かもしれない。もともと彼女は、丸山作品に出てくるキャラの共通項として、「人間はお互いどうし狼である」というホッブス流の理念が肌に染みついているのである。
 男はクルマをバス停の脇に停めて降りてくると、彼女と母親とのあいだに腰を下ろす。下心まる出しといったところか。原作ではこのあと、5ページほどにわたってねちねちと粘る男のもようが描かれる。男はつれない彼女にとりあえず見切りをつけて、将を射んとすればまず馬からとばかりに、母親にしきりと取り入ろうとする。そしてまた母は、よせばいいのに妙に積極的になり、日ごろの無口を一変させて、見え透いた言葉でむやみに娘を売り込みにかかる。家柄から始めて、財布の中身までぺらぺら喋る。まるで見合いの席にでもいるかのようだ。娘のほうは気が気じゃない。あたしと財布と、両方いっぺんに狙われるんじゃないか、この男があの太い腕を振り回せば済んでしまうことだ、などと身構えながら考えている。
 一場の光景としてみるならこれは確かに緊迫したシーンで、これがもし直木賞系の小説だったらここからたとえば松本清張的な展開を見せてもおかしくないし、ことによったら石原慎太郎のあの悪名高き「完全な遊戯」の世界に転がり落ちていっても不思議ではないところだ。しかし、もちろん丸山健二は慎太郎よりも節度を弁えているゆえに、そういう話にはならない(まあ、ふつうはあんな話にはならない。シンタローが変なのである)。
 ネタを割ってしまって申し訳ないが、というか、それを言ったらこの「戦後短篇小説再発見を読む」というシリーズ自体が成り立たぬのだが、結論から言うと、男は何ら実力行使をせず去ってゆく。なべて世は事もなし。いかにも純文学らしく、真の「事件」は起らないのである。
 この短篇は母娘ものである。母と娘のお話なのである。男の登場とそれにまつわる顛末は、この娘と母親との関係に一石を投じ、その関係性の微妙さ、難しさを浮き立たせるためのエピソードにすぎないのだ。小川国夫の「相良油田」においては、あたかも象徴劇のごとく、上林先生と浩との道行きの情景や、その際の会話がひとつ残らず作品の本質に絡まっていて、本当に味読するためにはそれこそ全文引用しなければならず、どこを削るか悩まされたけれど、この「バス停」における男の挿話は、そこまで重要なものではない。
 いちばん肝心なのは、尻を落ち着けて動こうとしない男に対し、さながら張り合うかのように、娘がこういう態度を取る場面である。

 男はときどき横目でこっちを見たが、あたしは仏頂面をしていた。そして母が「真面目な娘でねえ」と言ったところで、あたしはハンドバッグからタバコを取り出した。両切りのタバコを爪の上にトントンとたたきつけてから唇の端にくわえ、村の男の一カ月分の収入よりも高いライターでもって火をつけた。煙を肺いっぱいに深々と吸いこんで、鼻からゆっくりと出した。

 この振る舞いに対し、母はあんぐりと口を開けて「あたし」を見るが、男の顔つきは少しも変わらない。すでに一目で彼女の素性を見て取っているのなら、それも当然であろう。ただ、母がそれきり黙りこくってしまったために、完全に話は途切れて、あたりには気まずい沈黙が訪れる。それでも男はなかなか腰を上げようとしない。とりつくしまのない彼女に手を焼いて、ひとりでそわそわしている。娘はさらに緊張を強める。
 しかし、すでに先にも述べたとおり、結局は男は何もしない。「それじゃあ、気いつけて」と間の抜けたことばを投げかけ、強烈なワキガの臭いを残して、夏の向うへと走り去っていく。舞い上がった土埃が草や稲の上に落ちて白っぽく染める。
 娘はまだ、仲間を呼びに行ったんじゃないか、あるいは、森のどこかで強引にバスを停めて乗り込んでくるつもりではないか、と警戒を怠らぬのだが、これはさすがに杞憂であろう。そこまでのワルとは思えない。むろん、彼女が母親並みのお人好しで、見るからにもう隙だらけで、かくも毅然たる態度を見せなかったら、どう転んだか解らないけれど。
 男はクルマで走り去り、あとにはふたたび、母と娘が二人きり。新聞沙汰になるような「事件」は起こらなかったけど、しかし、何もなかったわけではない。男の出現によって生じた波紋は、くっきりとお互いの心に刻まれているのである。