NHKのEテレで宮沢章夫がサブカル講義をするシリーズがあって、その主題に、「テレビ」だの「ロック」だの「SF」だのと並んで「女子高生」が取り上げられたことがある。このイチゼロ年代のニッポンにおいて、「女子高生」とは文化的事象として一考に値するテーマなのである。ぼくもいちど、女性作家が女子高生を主人公にして書いた小説をランダムに選んでまとめて読んだことがあるけれど、どの作品に出てくる女の子もみな当然のように(いまどきの用語だと「デフォで」とか言うのか)性体験をもってるもんだから、思わず「ケシカラヌッ」と叫んで東海林さだお風に机を「ドンッ」と叩いてしまったのだった。こういう問題にかんしてワタシはたいそう保守的である。さすがに「貞操観念」なんて古色蒼然たる単語を持ち出すつもりはないが、男女を問わず、学生の本分は勉強です!
冗談はさておき、近ごろの女性作家が描く「当世女子高生事情」がどのていど現状を反映してるのかはわからないけれど、今の10代はぼくなどの及びもつかぬくらいに性的な意識が「ひらけてる」ことは間違いあるまい。「蛇にピアス」はいわばその極値であろう。あそこまで開けちゃあさすがにやばいと思いますがね。ともあれ、そう考えると、けして10代の性を主題にしていたわけではないが山田詠美の存在はやっぱり大きくて、バブル直前の1985年、「ベッドタイムアイズ」をひっさげての「山田詠美登場 以前/以後」でニッポンの女性の表現史を区切る、という見方もアリかもしれない。
「入江を越えて」が発表された1983年は、「海を感じる時」の5年後にして、「ベッドタイムアイズ」の2年前でもある。
風があるわけでもないのに、空気の中には埃が混じっている。乾いた土が、人の動き、車の動きで、細かい粒となって舞い上がっていた。上りホームで電車を待つ人々のほとんどは、都会へと帰る海水浴客だ。彼らの持つ鮮やかなビーチバッグは、昼過ぎの陽射しにしなだれた夏の花のように見えた。塚田苑枝の乗っている電車は、上り電車が到着すると同時に発車する予定の下りだった。
冒頭の一節である。「海を感じる時」と違って、一人称の語りではなく三人称の形をとるが、物事はすべてこの「塚田苑枝」の視点から綴られ、ほかの登場人物の視界なり内面へと移ることはない。三人称形式の中でももっともシンプルな手法で、このばあい、「塚田苑枝」のことを「視点的人物」とよぶ。ただ、中沢さんの小説にかぎっては、「視点」という表現が適切かどうか。
「風があるわけでもないのに、空気の中には埃が混じっている。」は視覚描写なんだろうけど、「埃っぽい」というのは皮膚にまつわってくる感覚だから、触覚描写でもあるわけだ。ぼくは敏感肌なもんで、そのへんがよくわかるのである。
この「戦後短篇小説再発見」シリーズには、巻末に編者の手になる「著者紹介」が附されているが、中沢けいのところにはこう書かれている。「生の充実を求める現代女性の生態、男と女の関係を自然体の瑞々しい生理感覚で描く。」
そう。瑞々しい。キーワードはまさしくそれだ。中沢さんの文章は、ほんとに瑞々しいのである。「自然体」とは、いわゆる文学少女、文学青年にありがちな気取った比喩や観念的な言い回し、というものが見られないという意味で、それも中沢文学の特徴にはちがいないけれど、そのことも含めて、「瑞々しさ」こそがこの作家のいちばんの麗質なのである。
それこそ皮膚感覚でいうのだが、女性の文章ってのは概して男性のそれよりしっとりしている。濃やかでもある。小説ってのは学術論文でも社説でもないので、しっとりして濃やかな文体で書かれることが望ましい。だから♂であっても優れた小説家はみなフェミニンな資質をもっている。あの中上健次ですらそうだった。小説という極めて特殊なエクリチュールにおいて、性差の壁はしばしば溶融されるのだ。
じつをいうと、主題の選び方、そして物語のつくり、すなわちストーリーテリングや登場人物の絡ませ方において、中沢けいはけして豊かなほうではない。それらの点でこの人をしのぐ作家はたくさんいる。だからぼくたちは、たとえば宮部みゆきを楽しむようには、中沢けいを楽しむわけにいかない(この二人はほぼ同い年である)。
中沢けいの魅力は、そういったものとは別のところにある。お話の内容ではなく、文体そのものが魅力的なのだ。文章のひとつずつが、しっとりしていて濃やかで、官能に満ちてスリリングなのだ。
「海を感じる時」ののち、10代のおわりから20代半ばにかけて、中沢けいは年に一作から二作くらいのペースで「群像」誌上に短篇の発表をつづけた。『海を感じる時』『野ぶどうを摘む』『ひとりでいるよ一羽の鳥が』までが文庫化された。いずれも短編集である。「入江を越えて」は『ひとりでいるよ一羽の鳥が』のラストに収録されている。
その2冊目の作品集『野ぶどうを摘む』の解説で、川村二郎は初期の中沢文学をこう要約する。
中心にはいつも一人の少女がいる。父を早くなくし、母と弟と三人でくらしていたが、性的に成熟するにつれて、失った父への思慕や未知の生の領分への好奇心の複合した、漠然たる衝動に促されて、高校の上級生の少年に接近する。世間の良識を代弁する母はもちろんそのような少年少女の交渉を頭から認めようとしないから、母と娘とのあいだには息苦しい緊張が生ずる。それ以前から潜在していた緊張が、この事件をきっかけにして一気にあらわにされたのだといってもよい。(…………)
やや趣を異にするものもあるけれど、上記の3冊を見るかぎり、どの短篇もおおむねそんなところである。それは作者の実体験を反映しているのかもしれないが、ぼくはそういう伝記的な批評が好きではないので深入りはしない。ただ、中沢さんの作品が、いうところの「私小説」を思わせる構造をもっているのは事実だ。
「中沢けいは、タイプこそ違うが倉橋由美子、金井美恵子に勝るとも劣らぬ才能の持ち主」と前々回にぼくは述べたが、この意見はおそらく評論家(文芸評論家なんて職業がいまだに成立してるんだかどうかぼくはよく知らぬが)や編集者といったプロの人たちからは受け入れられないかもしれない。「それはどうだろう」と首を傾げられるかもしれない。中沢けいの作風は、昔ながらの「私小説」の伝統を継ぐものだから、ヌーヴォーロマンの旗手であった倉橋・金井のお二人に比べて、(年齢はずっと下なのに)その作品はたしかに古風にみえる。
いま俎上に乗せている「入江を越えて」にしても(いや……あまり俎上に乗せてないけど……)、要するに、ひとりの女子高生の夏の初体験を描いた短篇であって、題材としてはアマチュアにだって書けるだろう。しかし、その出来事を綴る文体の圧倒的な瑞々しさが、まぎれもなくこれを、ひとつの「作品」へと昇華しているのだ。
「純文学の生命は文体なり」という文学観をもつぼくが、大方の玄人筋の評価以上に、中沢文学を高く買う理由はそれだ。