ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その⑤

2016-03-11 | 戦後短篇小説再発見
 これまで紹介した作品のうち、小川国夫の「相良油田」が浩と上林先生とのお話であり、ミシマの「雨のなかの噴水」が明男と雅子とのお話である、ということは誰の目にも見やすいと思うが、太宰の「眉山」が眉山こと女給のトシちゃんと「僕」とのお話であり、大江の「後退青年研究所」がミスター・ゴルソンと「僕」とのお話である、ということは、さっと一読しただけでは気づきにくいのではないか。
 どちらの短篇も、けっこうごちゃごちゃ人物が入り乱れているし、エピソードもあれこれ書き込まれてるから、ちょっと見には群像劇みたいに思えるけれど、作品の核を成しているのはあくまでも二人の主役の関係性なのだ。「眉山」のばあいはそれが「インテリ(知識人)」と「庶民」との対比となり、「後退青年研究所」は「アメリカ」と「日本」との対比になっているところが肝である。
 短篇ってぇものは紙幅がかぎられているからして、本当の意味での群像劇はやれない(やれないことはないのだが、ほぼ確実に前衛的/実験的な作品になる)。人間どうしの関係の最小単位である「二人」を舞台の真中に据えて、その他の登場人物を彼らの周りに配置する。中心となるのは、あくまでも主役ふたりの心のもつれや、かかわり合いの深まり(ないしは、すれ違い)なのだ。
 ついでにいうと、もし「二人」の「関係性」すら描かれず、どこまでも主人公(語り手/視点的人物)の内面の劇として作品が終始するならば、たとえ小説のかたちで書かれてはいても、本来それは「散文詩」と呼ばれるべきだろう。「檸檬」をはじめとする梶井基次郎のあの幾つかの美しい短篇のように。あるいは、ヘミングウェイの「ニック・アダムスもの」の数編のように。
 そんなワケで(きっこの真似)、「バス停」は、娘たる「あたし」と、その母親とのお話である。
 男がクルマで走り去ったあと、炎天下の田舎道、ふたたび母と娘ふたりきりの時間が帰ってくる。いくらか落ち着いてふだんの様子に戻った母は、何か喋りたそうに娘のほうをちらちら見るが、結局はひとことも発しない。タバコのことで意見をしたいのだろう、あの男が行ってしまったのも、あたしがタバコなんぞをふかしたせいだと言いたいんだろう、と忖度しつつ、なおも娘は、居直ったかのようにぷかぷか紫煙を吐き続ける。

「お小遣いあげようか?」とあたしは突然訊いた。そんなことを言うつもりはまったくなかったのに、舌が勝手に動いてしまった。「父さんに内緒であげようか?」

 まさしく「突然」に挿入されるこのセンテンスはほんとに巧くて、さすが長年にわたって芥川賞の最年少記録を保持していた人だなあと思う。たしかに人間の言動ってのはこういうもので、何から何まで考えたうえで喋ったりアクションを起こしたりするものではない。たとえばこれが、

「お小遣いあげようか?」とあたしは訊いた。どうにかして、この気まずい空気を追い払いたかったのだ。「父さんに内緒であげようか?」

 だったら台無しになってしまうのである。語り手の心の動きをべたべたと描写が追っかける感じで、理に落ち過ぎている。これではキャラが死んでしまうのだ。語り手の「あたし」は、どだいインテリなどとは程遠く、自らの内面をきちんと掌握して言語化できるタイプではないし、何といってもまだ20歳だし、何よりも、いま自分が置かれている状況に少なからず混乱しているのである。慢性的な情緒不安定と言ってもいい。そんな彼女のありようを描出するうえで、丸山さんの書き方は圧倒的に正しいのである。
 そして、彼女のこの不安定さ、おおげさにいうなら「存在論的不安による実存の揺動」とでもいうべきものは、この後いよいよ高じていき、それこそがこの作品における後半部分の主旋律というか、最大の見どころになっていく。
 札を一枚もらった母親は、またいくらか元気になり、それを思案深げにしばらくじっと見つめたあとで、地下足袋の底に押し込む。原作ではここでまた☆が入って一行あき、次の段落へと移る。


 急に母を見ていられなくなった。そのときになってあたしは初めて母の老けこみに気がついた。同時に、まだ若かった頃の母の姿をはっきりと思い出した。たしかにあれから十何年も経っていた。

 次の段落に入って、最初の部分がこれだ。連載の③で述べたとおり、ここまで彼女は「カネで買える」関係性にほとほと嫌気がさしている。だからこの場面で母親に向ける目が辛辣になり、苛立ちを覚えるのは自然である。それにしても、「まだ若かった頃の母の姿をはっきりと思い出した。たしかにあれから十何年も経っていた。」とは、いったい何のことであろうか。そりゃ十何年前と比べたら誰だって相当齢をくってるわけで、これでは母親が気の毒なようだが、それにしたって彼女が都会に出て行ったのは2年前のはずだ。どうしてここで、2年前ではなしに、十何年も前の記憶が出てくるのか。
 そのことは、じつはここだけ読んでもわからない。8ページもあと、ラスト近くで、バスが(予定より15分遅れて)やってきた時にようやくわかる仕掛けになっている。つまり、ずいぶんと巧緻な仕掛けが施されてるわけだけど、この『戦後短篇小説再発見 1』を買って、「バス停」を読んだ方のうち、果たしてどれだけの人がその仕掛けに気がついているか、ぼくははなはだ懐疑的である。さらさらと粗筋を追って読み流しただけではぜったいにわからない。しかるに世の中の大多数の人は、おおむねそういう読み方しかしない(いやまあそれ以前に純文学を読もうって人がほとんどいないわけだけど)。プロの作家というものは、短篇ひとつ仕上げるにも、精密機械を組み立てるほどの神経を使ってるのだ。そのことを多くの読者はわかってない。これは非常に悲しいことで、ぼくがこの「戦後短篇小説再発見を読む」というシリーズをやっているのは、主にそのためなのである。