ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その③

2016-03-01 | 戦後短篇小説再発見
 「バス停」の裏のテーマはおカネです、と前回述べた。ならば表のテーマは何かといえば、それはもう「都会と田舎との対比」だろう。これは一読すんなり見て取れる構図で、丸山さんの他の作品にも頻出するメインテーマである。前者の華やかさに対する後者の野暮ったさ。しかし見方を変えれば、虚飾まみれの軽薄さと、地に足のついた質実さとの対比ともいえる。太田裕美の名曲「木綿のハンカチーフ」(元ネタはボブ・ディランの『スペイン革のブーツ』)なども思い起こされるところだ。むろん丸山健二の描く「田舎」はそんなに甘ったるいものではないが。
 「バス停」の語り手である娘はなぜ、せっかくの休みを費やして、郷里に顔を出す気になったのだろうか。見違えるくらい垢抜けた自分を皆に見せつけて、虚栄心を満足させたかったからか。それはもちろんあったろう。じっさい、ちやほやされて得意になっていたようだし、「故郷へ錦を飾る」とまではいかないものの、ややスター気取りのきらいもあるのだ。20歳やそこらの娘さんだから、無理からぬところはあるけれど。

 まあ愉しい休日だった。二年のあいだに覚えたどんな遊びよりも面白かった。三日間一滴の酒も口にしなかったし、タバコも人前では喫わなかったし、見ず知らずの男にむしゃぶりついたりもしなかったけれど、毎日ごろごろしていただけだけれど、いつになくいい気分だった。退屈には違いなかったが、気分は上々だった。

 とはいえやはり、懐かしさ、人恋しさがまるでなかったはずはない。いかに刺激に満ちてはいても、所詮はうわべだけの付き合いでしかない都会での人間関係から逃れて、馴染みの土地で、もっと深くて濃密なものに触れたい。そんな思いが皆無だったとは思えないのである(ただしその思いは、ほぼ無意識の底に紛れており、彼女自身はっきり自覚しているわけではないが)。ところが結果は、4日滞在の予定を1日繰り上げることになった。なぜか。


 いい加減なことばかり喋りまくる自分に愛想がつき、ついであたしが財布に手を触れただけで皆の顔つきが変ることに気づいたとき帰りたくなったのだ。都会へ帰って、同じ店で働いている女たちといっしょにお酒を呑んで、ばか騒ぎをしたくなった。

 この三日間特に不満は感じなかった。ただひとつ両親が大切な質問をしてくれなかったことが、不満といえば不満だった。誰もがあたしの仕事について詳しく訊こうとしなかった。二年前のデパートの売り子をまだつづけていると考えているのなら、よほどの世間知らずだった。また、およその察しがついていてわざと訊かないでいるとしたら、この上ないろくでなしだった。

 じっさいには、だれひとり自分の心に寄り添ってはくれなかった。だからとうぜん、自分のほうから胸をひらくこともなかった。ほんとうは彼女は、「カネでは買えないもの」を求めて帰ってきたはずなのに、結局のところ、自分がみんなの関心をほぼ「カネで買っていた」だけだと気づいて、索然としてしまったわけである。それならば、都会の仲間たちの元にいたほうがましだ。初めから割り切った関係なのだから。
 かろうじて、ただひとりの例外が母親だった。この人もまたカネに目がくらんではいるものの、それでもまだ、情愛めいたものを彼女に向かって発散してはいるのである。ひどく不器用で、たどたどしく、少なからず愚かしいやり方で……ではあるが。
 見送りに付いてきてくれた母親と共にカンカン照りの田舎道でバスを待ちながら、彼女は「土地や田畑ならともかく、財布の中身を比べあったとすれば、村の誰よりあたしが一番だ」などと考えて自己満足にふけり、「そんなあたしが、こんな所で所在なくバスを待ってるのはおかしい」と不満をつのらせる。これではまるで、2年前に都会に働きに出た時、まだ何も知らない小娘だったあの時と同じではないか。あの時は父も母も泣いたし弟も泣いた、同級生も学校の先生も、そしてあたしも本気で泣いたのだ……。
 この短篇に瑕疵(キズ)らしきものを探すとすれば、入院中の「弟」をはじめ、ここに見られる「同級生」など、同世代ないし年齢の近い世代が出てこないことだろう。ふつうなら幼なじみの一人くらいはいるだろうし、いかに相手が忙しくとも、3日間あれば一度くらいは会う時間が作れたはずである。彼女の顔を見に集まってきた(そして小遣いをもらった)ご近所さんたちのなかに、かつての「同級生」は含まれていなかったのだろうか。いずれにしても、前面に現れないのは確かだ。もし同世代の友達との交流が描かれていたら、作品のおもむきはかなり違ったものになったろう。
 まあ、そうやって作者は「現実」を少しずつ都合のいいように改編しながら「作品」をつくっていくわけで、そこに生じる「軋み」をこまめにチェックするのは大事なことだとぼくは思う。むろん、そればっかりやってたら、ただのアラ探しだけど。
 彼女は暑さと疲労でバテている。都会暮らしでカラダがなまっている、という以上に、さぞや不摂生な生活を送ってるんだろうな、と推し量っても邪推にはなるまい。いっぽう母親は、「顔と同じくらい日焼けした手で」娘のバッグを大事そうに抱え、この炎天下、草の上に腰を下ろして上機嫌である。たくさんカネをもってる娘が自慢でならず、村人が通りかからないかと心待ちにしている。
 その気持ちは娘の彼女もじつは同じで、こんなにも垢抜けた自分を、近所の人だけじゃなく、村中の人間に見せびらかしたかった、などと考えている。タクシーを呼ばず、わざわざバス停まで歩いてきたのもそのためだったのだ。しかし当ては外れて、まったく人影はない。

 暗い谷の方から吹いてくるひんやりとした風がなかったら、あたしはとっくにへたばっていただろう。
 その涼しい風だけが頼りだった。月見草の花がかすかに揺れて、草むらの奥深いところで鳴いていた虫が急に黙ると、谷川の水で冷やされた空気のかたまりがあたしを包みこむのだった。するといっぺんに汗がひいて、頭の中心まですっきりした。

 こういった自然描写のみずみずしさが丸山文学の魅力のひとつで、それは人間たちの薄汚れた情念やら、始末に負えない人事のもつれと鮮やかな対照をなすようだ。娘は暑さにうんざりして、もう母と口をきく元気もなく、さっさと村のことなど忘れて、冷房のきいた車内に乗り込み、タバコをふかし、冷えた缶ビールを喉の奥に流しこもう、てなことを考えている。都会で彼女が、あまり身持ちのよくない同世代の女性と同居(今でいうルームシェア)していることが、その呟き(内的独白)によって読者に知らされる。
 原文では、ここで☆をはさんで行があき、次の段落へと移る。物語の世界に変化が生じ、ちょっとした「事件」が起こるのである。