ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫) 紹介

2022-11-30 | 雑読日記(古典からSFまで)
 民主主義社会において、個人への暴力は、いかなる状況の下にあっても、絶対に正当化されるものではありません。一日も早いご快癒をお祈りいたします。
 人前に出ての発言などでは、とかく挑発的な物言いが目立ったとの話もありますが(ぼくはじっさいに見聞きしたことはないので、あくまで伝聞)、著作を読めば、けして軽佻浮薄なタレント論客ではなく、学者として、真摯に社会の現状を見据えておられたことがわかります。



 とうわけで、本の紹介。『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)です。




 2014(平成26)年に刊行された書籍の文庫版(だから扱われてる素材自体はいささか古い)。
 最先端の社会学の知見をフル活用して、サブカルから政治まで、現代日本社会の病理をミヤダイ流に分析した本。
 講演やインタビューを元にしているので、「まえがき」と「あとがき」以外は「ですます調」ながら、内容のほうはずっしりと読みごたえあり。
 「宮台真司でどれか一冊」といわれたら、ぼくならこれを選びますね。
 もちろん、書かれていることに一から十まで納得するものでもないし、このタイトルはさすがに大仰すぎると思うけど、一読の価値はあります。



実朝のこと。

2022-10-28 | 雑読日記(古典からSFまで)
 『鎌倉殿の13人』は、ぼくがこれまで観てきた大河の中でも一二を争う面白さで、きわめて完成度も高く、日曜8時が楽しみでならない。たんに毎話のストーリーが面白いというだけでなく、伏線が緻密に張り巡らされているため、「あっ、これがあそこに繋がるのか」という発見の快感がある。本来ならばもっとブログで語りたかった。そうしなかったのは、NHKの報道姿勢に不満があるからだ(国会中継をやらないことなど)。
 ニュースやNスぺでは政治の暗部を取り上げぬどころか、徹底して忌避しているのに、フィクションにおいては権力の怖さ、醜さをこれでもかとばかりに描き尽くす。その対比が興味ぶかいなあと思ってはいるが、べつに企図してのことではなく、たまたまそうなっているだけだろう。それに、描かれるのは頂点における権力闘争だけで、ぼくらの先祖だったはずの民衆のほうにはほとんど目は向けられない。そこは大河の限界だが……。
 それにしても、三谷幸喜という人はいつからこれほど腕を上げたのか。2004(平成16)年の『新選組!』はもとより、6年前の『真田丸』でさえ、さほど感心はしなかった。なにやら、ここまで積み重ねてきた脚本術が飽和点に達し、この一作において咲き誇ったかのようである。マンガ的なキャラ付けや展開も多いが、それをも含めて、当世風の長尺テレビドラマのひとつのお手本といえるのではないか。
 俳優も、ベテラン・中堅・若手そろって魅力的なひとばかりで、泰時役の坂本健太郎はいかにも清新だし、金子大地演じる頼家の焦燥や不安が裏返しになった傲岸さもよかった。そしてなにより、実朝役の柿澤勇人。このドラマをみて実朝に好感を抱かぬ視聴者がいようか。
 劇界に疎いぼくは、これらお三方の顔と名前をこのたび初めて知ったわけだが、頼家、実朝、泰時と並べて、中でいちばん年齢が低い実朝を演じる柿澤さんがじつはもっとも年長だそうだ。本作では10代の前半からを演じているが、初見の際には、「20歳そこそこの新人を抜擢したのかな。」と思った。さすがに10代前半には見えなかったけれど、ぎりぎりティーンエージャーには見えた。しかし調べてみると当年35歳、しかも舞台で場数を踏んだ中堅俳優とのことで、演技力というものの凄さ(むろん演出や美術といったスタッフの力も与ってのことだろうが)を改めて思い知った次第だ。
 さて。ここからはドラマを離れて実朝の話にうつる。すなわちこまではマクラである。だからカテゴリも「映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽」ではなく「雑読日記(古典など)」に入れておく。


☆☆☆☆☆☆☆


 実朝ファンの文学者は多い。たとえば『右大臣実朝』を書いた太宰治(1909/明治42~1948/昭和23)。


 青空文庫 『右大臣実朝』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html



 これは代表作『駆込み訴へ』におけるキリストを実朝に、ユダを公暁になぞらえたもので、この時期の太宰がもっていた人間関係のモデル像が投影された一作だ。「平家ハ、アカルイ。……(中略)……アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という一節がとみに印象的で、よくあちこちで引用される。ぼく個人としては『駆込み訴へ』よりもこの中編のほうが膨らみと奥行きがあって好き……というより太宰の全作の中でたぶんいちばん好きである。
 近代日本の批評をつくった小林秀雄(1902/明治35~1983/昭和58)にも「実朝」という名高いエッセイがある(新潮文庫『モオツァルト・無常という事』所収)。
 太宰のもそうだが、小林のこの「実朝」も太平洋戦争下の作品で、時節柄、戦意高揚の翼賛めいた文章でなければ、あとは日本の古典についてくらいしか書く題材がなかったということはあるだろう。しかしいま読むと、有史以来といっていいほどの国難の時期に、2人の優れた文学者が、ニホンという国の歴史を改めて確かめ直しているようにも見える。いずれにせよ、戦時下にある文学者の憂愁と孤独が、一読それとは分からぬかたちで、実朝の境涯に仮託されているのは両作ともに間違いのないところであろう。
(とはいえ、太宰はともかく小林秀雄は、ニッポンの敗戦責任について実になんとも身勝手な発言を残しており、ぼくは一貫してそのことに腹を立てている。しかもその件に関して小林を大っぴらに批判したのはいまもって中上健次とタモリだけである)
 青年期にこの両者から多大な影響を受けた詩人・批評家・思想家の吉本隆明(1924/大正13~2012/平成24)も、ランボーやマルクスやフロイトや親鸞に拘るのと同じくらいに、ずっと実朝に拘っていた。『源実朝』という著作もあり、ちくま学芸文庫に入っている。ぼくはこの評論を他の本で20代の頃に読んだのだが、和歌の素養が乏しいせいもあり、いまひとつ釈然としなかった。いま読めばもう少し理解できるだろうけど、残念ながら手元にない。ただ、有難いことにネットの上にはこのような文章が公開されている。


実朝論 - 吉本隆明の183講演 - ほぼ日刊イトイ新聞
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a015.html




 吉本さんが『源実朝』という論考を上梓するのは、1969年に行われたこの講演の後だが、要諦はほぼこの中に尽くされているといっていい。
 和歌の創作や鑑賞にかんする細かい技術論は別として、これほどの巨きな文学者たちが、こぞって実朝に熱を上げるのは、さっきも少しふれたとおり、稀にみる繊細な感性と鋭い知性を持ちながら、「武門の暴力」に絶えず圧迫されつづけ、芸術の世界に半ば逃避せざるを得なかった彼の境涯がいたく同情をそそるからである。吉本さんは西行論もものしているが、実朝はなにしろ三代目の将軍だからスケールが違う。
(ただ、従来の実朝像はいかにもロマン主義的で、近ごろの研究では、彼は武芸は不得手ながらも、将軍としては相当に有能だったとされているらしい。しかし、有能だからといって孤独や憂愁を抱え込まぬものでもないだろう)
 さらに実朝には、「夭折」という属性もある。これもまた文学好きを惹きつけてやまない主題である。
 それで思い出されるのは、終生を通して「夭折」に憧れ(敗戦によって「あらかじめ約束された死」を奪われたために)、ついには高度成長の絶頂期にあって45歳の若さで切腹をした三島由紀夫(1925/大正14~1970/昭和45)のことだが、三島には実朝を扱った作品がない。いや作品がないどころか、文業のなかで実朝に言及している箇所が見当たらない。見落としということもあるので、これからも気を付けて探すつもりだが、ぼくにはこれが不思議でならない。やはりミシマは、「武門」を希求しつつも結局は「公家」であったということか……。
 小林、太宰、吉本、三島に比べれば、失礼ながら知名度は落ちるかもしれないが、ドイツ文学者で小説も書いた中野孝次(芥川賞候補になったこともあるが、一般には『清貧の思想』で知られる)にも、若年のころに実朝を論じたエッセイがある。氏は1925(大正14)生まれ、2004年(平成16年)没。吉本、三島と同年齢だ。すなわち「敗戦によって“あらかじめ約束された死”を奪われた」世代である。いや、「奪われた」という表現は三島由紀夫にのみ当てはまるので、ふつうは「死を免れた」というべきか。しかし、それは後年になってからの感慨で、戦時中の軍国少年の大半は、聖戦完遂のために死んでいくことを自明と思っていたろうし、「誇り」とさえ思っていた(思い込まされていた)者もけして少なくなかったはずだ。
 この中野氏の実朝論もまた、上述の基本線に則っているが、吉本隆明の、綿密ではあるが回りくどい文章よりもよほど読みやすく、評論として洗練されている。講談社文芸文庫から出ていて、品切れのため古書のほうはとんでもない値をつけてはいるが、電子書籍版は手ごろな価格だ。正式なタイトルは『実朝考―ホモ・レリギオーズスの文学』。
(なおホモ=レリギオーススとは「宗教という文化をもつヒト科」といったような意味で、いまの大河で描かれているような衆道(BL)とは無関係なので念のため)。
 さて。歌人としての実朝についての評言で、ぼくがこれまで目にした内で最高のものは、丸谷才一の『新々百人一首』(上下。新潮文庫)の下巻221ページにみえるくだりである。


「大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも」
でも、
「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」
でも、
「もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原」
でも、
「いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる」
でも、
「萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ」
でもなく、






いつもかくさびしきものか葦の屋にたきすさびたる海人の藻塩火






 を掲げて、丸谷さんはいう。


 「注目に値するのは、一首が、『新勅撰集』以下十三の勅撰集に入選しなかつたことである。言語の多義性にもかかはらず、ここにはたぶん王朝和歌の美学を破壊する、その点で現代短歌に通じると言へないこともない、何か危険なものがあった。実朝は王朝の様式美から逸脱して、孤独な、あるいはむしろ自閉的な、生を歌う。定家をはじめとする世々の撰者たちは、その社交性の欠如を拒み続けたのであらう。すなはち現代短歌はこの一首にはじまる。」




 「すなはち現代短歌はこの一首にはじまる。」 これほどの賛辞がほかにあろうか。丸谷さんは、おそらくは小林秀雄いらいの伝統をふまえて、武門の暴力のなかで生涯を送ったかの鎌倉の天才歌人に無上ともいうべき位置づけを与えた。塚本邦雄も大岡信も高橋睦郎も、ここまで実朝を評価してはいない。気難しい国文学者たちの同意を得られているとは思えないけれど、これはぼくが知る中でもっとも麗しい、実朝に向けての言祝ぎである。



Smells like teen spirit 和訳

2022-05-05 | 雑読日記(古典からSFまで)
 「子どもの日」だからってわけではないんだろうけど、とつぜん発作的に、ニルヴァーナの『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』が聴きたくなって、CDを探したけれども見つからなくて、you tubeでオリジナル・バージョンを立て続けに10回聴きました。そのあとブラッド・メルドーのバージョンと、ロバート・グラスパーのバージョンを見つけて、こちらも3回ずつくらい聴いたかな。現代最高クラスのジャズの大家2人にカバーされるとは、「90年代のロックシーンを一変させた一曲」というに留まらず(それだけでも凄いことだけど)メロディーそのものもよほど優れているのでしょう。そのあとさらに、ONE OK ROCKによるカバーを見つけて、正直、カバーとしてはやっぱりこれがいちばん刺さりましたけどね……。








Nirvana - Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=hTWKbfoikeg





Brad Mehldau  Smells like teen spirit
https://www.youtube.com/watch?v=50p5MxZ8GF0



Robert Glasper Experiment  Smells like teen spirit
https://www.youtube.com/watch?v=KdgWiWrtMZo



ONE OK ROCK  Smells like teen spirit
https://www.youtube.com/watch?v=AmZTRPEfoAg





 それでまあ、これも半ば発作的に、自分で訳を付けてみました。スティングの『シェイプ・オブ・マイ・ハート』、スザンヌ・ヴェガの『トムズ・ダイナー』に続く第3弾……というほどのものでもないですが……。言葉遊びが肝なので、そのあたりには留意したけれど、あくまでも私訳であり、試訳ですのでご了承のほど。あと、皮肉にみちた、反抗精神の塊みたいな詞ですので、いくぶん不穏当なイメージや表現も含みます。そのこともご了承ください。


☆☆☆☆☆☆☆






teen spiritはお手軽なデオドラント剤の商品名。カート・コバーンはじっさいに或る女性からこう言われたそうで、それは「ちゃんとした香水もつけてないようなコと付き合ってるのね。」という揶揄だったんだけど、カートはそれがわからなくて、「あ。10代のスピリットのニオイか。いいね」と思ってこの曲をつくったそうな。というわけでこのタイトルの解釈は、「ガキの魂みたいに臭うぜ。」みたいな感じでいいと思う。そんなつもりで訳してみた。






Load up on guns
Bring your friends
弾込めした銃、しこたま抱えて
ダチもいっぱい連れてきなって


It's fun to lose and to pretend
She's over bored and self assured
負けるのも なんか偽ってんのも悪かない
彼女はめちゃ退屈すぎ そんで気ィ強すぎ


Oh no, I know a dirty word
弱ったね、失点だ、オレ汚ねぇ言葉を知ってんだ


Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello
やあ、やあ、やあ、どれくらい落ちてる?
なあ、なあ、なあ、どれくらい落ちてる?
よう、よう、よう、どれくらい落ちてる?
おい、おい、おい、どんだけ落ちてんの?


With the lights out
It's less dangerous
Here we are now, entertain us
明かりを消せば ヤバさも減るさ
さあ来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ


I feel stupid and contagious
Here we are now, entertain us
なんかバカっぽいし、伝染りそうだな
でも来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ


A mulato
An albino
A mosquito
My libido
ムラート(注①)
アルビノ(注②)
モスキート(蚊)
俺のリビドー(性的衝動)


イェイ!
へい!
イェイ!


I'm worse at what I do best
And for this gift I feel blessed
ベスト尽くしてもどうにもダメだ
でも才能はあると思うんだよね


Our little group has always been
And always will until the end
うちらはずっとこんなだったし
しまいまできっとこんなだろうぜ


Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello, how low?
Hello, hello, hello
やあ、やあ、やあ、どれくらい落ちてる?
なあ、なあ、なあ、どれくらい落ちてる?
よう、よう、よう、どれくらい落ちてる?
おい、おい、おい、どんだけ落ちてんの?




明かりを消せば ヤバさも減るさ
さあ来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ
なんかバカっぽいし、伝染りそうだな
でも来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ


ムラート
アルビノ
モスキート
俺のリビドー


And I forget just why I taste
Oh yeah, I guess it makes me smile
で、俺はなんでこいつに嵌ったんだっけ
あ そうだった 笑わせてくれるからだな


I found it hard, it's hard to find
Oh well, whatever, nevermind
キツいって気づいたか 気づいたのがキツいのか
まあいいや、どっちでもいい 気にしない 苦にしない


やあ、やあ、やあ、どれくらい落ちてる?
なあ、なあ、なあ、どれくらい落ちてる?
よう、よう、よう、どれくらい落ちてる?
おい、おい、おい、どんだけ落ちてんの?


明かりを消せば ヤバさも減るさ
さあ来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ
なんかバカっぽいし、伝染りそうだな
さあ来たぜ、せいぜい楽しませてくれよ


ムラート
アルビノ
モスキート
俺のリビドー


A denial
A denial
A denial
A denial
A denial
A denial
A denial
A denial
A denial


断固!
断固!
断固!
拒絶!
拒絶!
拒絶!
否定!
否定!
全否定だあああーっ!










注① ムラート (Mulatto, Mulato) は、ラテンアメリカおよび北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。なお、女性だけを指していう場合はムラータ (Mulata) という。


注②アルビノとは、目と皮膚と毛髪をはじめとした全身(眼皮膚白皮症)、または目のみ(眼白皮症)が、先天的にメラニン色素をつくれない、もしくは少ししかつくれない体質のこと。





タイトル考

2021-11-26 | 雑読日記(古典からSFまで)
 明治期の小説のタイトル(題名)は簡潔なものが多かった。たとえば夏目漱石(1867/慶応3~ 1916/大正5)のばあい、『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』『夢十夜』『二百十日』『野分』『虞美人草』『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』といった塩梅だ。
 異色なのはデビュウ作の『吾輩は猫である』くらいか。これがもし『私は英語教師である』だったら面白くも何ともないわけで、いかにも当時の書生が愛用しそうな「吾輩」ときて、しかも語り手が「猫」だというのだから(それも比喩ではなくて本物の猫なのだ)、いかにホフマン(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン。ドイツの作家・作曲家・法律家。1776/安永5 ~1822/文政5)の『牡猫ムルの人生観』という先蹤があったにせよ、卓抜なことをやったものである。
(注・19世紀末のフランスで『蚤の自叙伝』という春本がよく売れており、漱石はイギリス留学中、「牡猫ムル」ともども、その『蚤の自叙伝』をも英訳版で読んでいたのではないかとの推測がある。「蚤」の冒頭が「猫」のそれと酷似しているのだ。「牡猫ムル」と『蚤の自叙伝』では、ずいぶんと品が下がってしまうが、下品で通俗的だからこそ強いインパクトを受けるというのもよくある話だ。影響関係とは誠に複雑なものである。)
 その「猫」以外のタイトルは前述のとおり簡潔なのだが、では地味なのかというとそうでもなくて、こちらが内容を知っているせいもあるかもしれぬが、それぞれに陰翳に満ちた豊かな象徴性を湛えているように映る。詩的といってもいいかもしれない。
 とはいえ簡潔なのは間違いない。これは江戸期の歌舞伎の外題がどれも長くて賑々しかったことへの反動ではないか。西欧文化を規範と仰ぐ近代の小説家たちは、歌舞伎的なもの、戯作的なものからの脱却を(意識的にか無意識的にかはともかく)目指しており、そのあらわれがタイトルの付け方にも出たのではないか。ぼくはそう思っているのだが、このことについて権威ある筋の論文なり考察なりを読んだ覚えがないから定かではない。あくまでも私見であり、仮説である。
 もうひとりの文豪・森鷗外(1862/文久2~ 1922/大正11)はどうだろう。『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』『半日』『青年』『雁』『妄想』『百物語』『山椒大夫』『高瀬舟』『寒山拾得』『堺事件』『阿部一族』『大塩平八郎』『渋江抽斎』『北条霞亭』。
 やはり簡潔である。新政府の要職にある役人(軍医)という職業柄も与ってか、漱石よりも実証的で手堅い印象がある。詩的というより散文的だ。後年になると実在の人物の名をそのままタイトルに冠した評伝を手掛けるようになってその印象は更に強まるのだが、しかし作家・翻訳家としての鷗外は奇譚や怪奇・幻想ものも好んでおり、上記のホフマンやあのE・A・ポーなどを訳してもいる。実作では『百物語』や『寒山拾得』あたりにその薄気味悪さの片鱗がうかがえる。こういった奥行きの深さが文豪の文豪たる所以であろう。
 そんな中でぼくが面白いと思う鷗外タイトルは、『ヰタ・セクスアリス』『かのように』『じいさんばあさん』、並びに『興津弥五右衛門の遺書』『最後の一句』だ。
 ヴィタ・セクスアリスとはラテン語で「性的生活」の意味だが、明治42/1909年のニッポンで、これをそのまま日本語タイトルにしたら出版は不可能だ。初期の大江健三郎かよ?という話である。もとより内容はポルノなどであるはずもなく、極めて真面目に一男性の性欲のありようを描いた作品なのだが、それでも掲載誌「スバル」は発禁処分を受けたのだ。明治末あたりなら、一級の知識人にとっては、かえって今日よりもラテン語は身近だったかもしれないが、それでも大多数の読者にはこのタイトルは珍紛漢紛、それでいてハイカラに響いたろう。内容にふさわしい意欲的なタイトルではあった。
 『かのように』は、とても柔らかな表題で、これは当時はおろか今日でもなお新鮮に響く。故・森田芳光監督の劇場デビュウ作『の・ようなもの』(1981/昭和56)を思い起こさせる。
 『じいさんばあさん』も、ひらがなの表記と相俟って、どこか民話ふうの趣を持ったタイトルだ。
 『興津弥五右衛門の遺書』と『最後の一句』は、どちらも封建制の下での武家の悲劇を扱ったものだが、「〇〇の〇〇」と単語を二つ重ねると、がぜん劇的になって想像が膨らむ。単語(あるいは熟語)ひとつで構成されたタイトルは今でも数多いが、「〇〇の〇〇」というタイトルもそれに劣らぬくらい多い。だが「硝子戸の中」「趣味の遺伝」「琴のそら音」のような随筆めいた短編を除けば、漱石はその手のタイトルを付けなかった。








21.10.01 文化の腐蝕

2021-10-01 | 雑読日記(古典からSFまで)
 2006(平成18)年にブログを始めたとき、「この国は衰滅に向かっている……。」との危機感のもとにダウンワード・パラダイス(下り坂の楽園)なるタイトルを冠したのだけども、あれから15年、わたくしが発したあまたの警鐘(メッセージ)はことごとく虚空のかなたに消えていき、いやそもそも、浅学菲才に加えて根っからの怠け者ゆえに、ブログの内容とて質量ともにとうてい納得のいくものではなく、警鐘もなにもあったものではなかったというのが正直なところで、結句、当然ながら現実の世界に何ひとつ爪痕を残すこともなく、元号を跨いで、いまやニッポンは或る面において実際に滅びてしまった……といっていいのではないか。
 その「象徴」というべき事象の一つが、目もくらむほどの特権を享受しながら、しかし公人たる自覚は一切持たず、「自由」の御旗を振りかざして我儘勝手を貫き通す「皇族」の出現であろう。15年前にはこのような事態は想像だにしなかった。この手の醜聞は英王室だけのことだと無邪気に信じていた。倫理(モラル)、知性、品位、教養、伝統……今やあらゆるものが地に堕ちて、饐えた腐臭を放っている。けだし、国の腐蝕は文化の領域において覆いようもなく露呈する。文化こそはひとつの国の現在の姿をまざまざと映し出す鏡でありまた鑑でもある。






☆☆☆☆☆☆☆☆






あたそ
@ataso00
インスタで自称「読書ソムリエ」って人の投稿をたまたま見てみたら、読んでる本が「20代でやるべき15のこと」「価値のある人生を歩むには」「成功のための条件」「男と女の!必読!恋のトリセツ」みたいな本しか読んでなくて、読書ってそういうことじゃなくない!!!??って思ってしまった。




CDB
@C4Dbeginner
でも普通の人にとっての『教養書』ってそのジャンルなんですよね。売れてる小説は『娯楽』で、純文学系は『何も起こらない、なんのメッセージもないつまらん本』。箇条書きで『ためになること』『やりかた』が書いてあるような本が一番勉強になる教養書だという認識で、バカにされるどころか尊敬の対象。
CDB
@C4Dbeginner
もう冗談抜きで、10代20代にとっては立花隆的な位置にひろゆきがいて『ジャンルを横断する知の巨人』くらいに思われている。河合隼雄の位置にメンタリストDaiGoがいるみたいなそういう状態。




猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
まさかと思うが、自分らの世代であれば本田宗一郎や松下幸之助、盛田昭夫あたりに憧れてた感覚が現在はひろゆきや堀江なのだとするとこの国には確実に地獄しか待ってないな。そりゃ安倍政権支持するよな。
猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
これが孫正義ならギリギリではあるんだが。
猫=リュック・ポンティ
@nasitaro
本田宗一郎は今で言えばジョブズやリチャード・ブランソン、イーロン・マスクあたりなんだよな。こういう人、日本ではもう無理でしょ。




 以上、ネットで見かけたツイッターからの引用。いささかの誇張はあれど、おおむね正鵠を射ているのではないかと思われる。

(引用元の皆様には心からお礼を申し上げます。)





Suzanne Vega Tom's Diner

2021-09-17 | 雑読日記(古典からSFまで)
 本日は気分を変えてこんな話題を。
 さいきんリスニングの勉強をかねてyoutubeで英語の歌をよく聴くんだけど、むかし聞き流していたものを、歌詞を味わいながら再聴するのはとても有意義だ。
 たとえばアメリカの有力な女性シンガーソングライターのひとりスザンヌ・ヴェガの代表曲『Tom's Diner』。俳句みたいに切り詰められたことばを繋いで、ありふれた朝のスナップのなかに、都会を生きる寂しい現代人の心象風景を浮かび上がらせる。あたかもロラン・バルトの『偶景』のようだ。
 ヒットしたのは派手めのアレンジを施したヴァージョンだけど、ポエトリー・リーディングに近い(当時日本のテレビCMでも使われた)このオリジナル・ヴァージョンのほうがお薦めですね。


https://www.youtube.com/watch?v=nps_iOxEurs







私訳


I am sitting
In the morning
At the diner
On the corner



わたしは椅子に座っている
通りの角の
この食堂で


I am waiting
At the counter
For the man
To pour the coffee


カウンターの席で
わたしは待っている
店の男が
コーヒーを注いでくれるのを


And he fills it
Only halfway
And before
I even argue


でも彼は
半分までしか満たさない
文句を言おうと
したのだけれど


He is looking
Out the window
At somebody
Coming in


彼は窓の外に目をやって
誰かが
店に入ってくるのを
じっと見ている


"It is always
Nice to see you"
Says the man
Behind the counter


「いらっしゃい。いつもありがとう」
カウンターの奥から
彼が
声をかける


To the woman
Who has come in
She is shaking
Her umbrella


入ってきて
そう声をかけられた女は
傘を振って
雨のしずくを切る


And I look
The other way
As they are kissing
Their hellos


あらぬ方向に
わたしは視線を逸らす
挨拶のキスを
彼らが交わすから


I'm pretending
Not to see them
And Instead
I pour the milk


彼らのことなど
見てない振りで
ごまかすように
ミルクを注ぐ


I open
Up the paper
There's a story
Of an actor


新聞を
開く
俳優の
ことが書いてある


Who had died
While he was drinking
He was no one
I had heard of


お酒を飲んでて
亡くなったとか
聞いたことのない
人だ


And I'm turning
To the horoscope
And looking
For the funnies


わたしは紙面をめくり
星占いに行って
それから
4コマ漫画を探す


When I'm feeling
Someone watching me
And so
I raise my head


ふいに
誰かがわたしを見ている
そんな気がして
顔を上げる


There's a woman
On the outside
Looking inside
Does she see me?


女がいて
店の外から
店内を見ている
わたしを見てるの?


No she does not
Really see me
Cause she sees
Her own reflection


いや そうではない
わたしをではない
彼女が見ているのは
ガラスに映る彼女自身だ


And I'm trying
Not to notice
That she's hitching
Up her skirt


彼女はスカートをぐいっと
たくしあげている
わたしはなるべく
気づかぬようにする


And while she's
Straightening her stockings
Her hair
Is getting wet


彼女はさらに
ストッキングも直して
そうこうするうち
髪の毛が濡れてくる


Oh, this rain
It will continue
Through the morning
As I'm listening


ああ。この雨は
午前中ずっと
降り続くだろう
こうやって


To the bells
Of the cathedral
I am thinking
Of your voice


大聖堂の鐘の音を
聴きながら
わたしは思い浮かべている
あなたの声を



And of the midnight picnic
Once upon a time
Before the rain began


そしてあの真夜中のピクニックを
ずっとずっと昔
この雨が降りはじめる前のこと


I finish up my coffee
It's time to catch the train


わたしはコーヒーを飲み干す
電車に乗る時間だ



気になる日本語② 「~しかない。」「~でしかない。」

2021-08-20 | 雑読日記(古典からSFまで)
 本日は気分を変えてこの話題にしましょう。まえに『気になる日本語① 「世界観」』という記事をアップした。ついこないだのように思っていたが、確かめたところ何と5年前の2016-08-12。まことに月日の流れが早い。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/0f44950779a0f782ad23818123b76fa8

 この記事でも冒頭でオリンピックの話をふっている。なるほど。本来ならば2020年にやるはずだったのを1年遅らせたのだから、5年前の8月12日といえばまさにオリンピック真っ只中だったのだなあ。あの頃はもちろん、こんなことになるとは悪夢にも思ってなかったが。
 それにしても、読み返してみたらこの記事、言ってる内容は正しいのだがどうも論の運びが回りくどい。今ならばもう少し簡潔に書けると思う。つまりは、「いま多用されている『世界観』という表現は、ほんらい『世界像』と称するべきだ。」と述べているのだが。
 これを書いたときは、同様に「気になる日本語」を10項目くらいピックアップしていて、順次取り上げていくつもりだったが、折しも8月だったので、戦争の話に移ったためにそのままになってしまった。ぼくはブログを計画的にはやっていない。即興演奏に近いと思っているほどだ。気分しだいで二ヶ月くらいすっぽかしたりするし。
 その10項目のメモはまだ残っているが、この5年のあいだに、それらぜんぶが霞むくらいに猛威を振るっているのが「~しかない。」や「~でしかない。」だろう。
 ラジオを聴いてると、「リスナーからのメールやお便り」でこの言い回しを耳にしない日はない。「たくさんの感動を届けてくれて、アスリートの皆さんには感謝しかありません。」といった類いだ。内容も紋切り型なら表現そのものも紋切り型……なのだが、しかしもともと内容と表現とは不可分のものだから、つまりこのメールだかお便りだかを送った方は、紋切り型の思考にどっぷりと浸ってしまってるってことだろう。
 むろん、この一文だけを以てその方の全人格を推し量るのは僭越なので、とりあえず「オリンピックに関しては」紋切り型の思考にどっぷりと浸ってるんだろうな、という話ではあるが、ただ、こういった「お上が推進し、全国民に強い同調圧力をかけてくる事案」に対してぼくたちがことのほか「紋切り型」に陥りやすいのは確かで、そこにひときわ注意喚起を促したいのである。
 5年前の記事でも、
「重箱の隅を突ついているのではなく、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられない。」
 と述べているが、この問題意識は今も変わっていない。コトバは社会の写し絵だ。言葉について考えることは、社会について考えることでもある。
 「~しかない。」「~でしかない。」という表現は、使い手の趣旨としては「強意」だろう。「感謝しかありません。」とは、「とても感謝しています。」の意だ。
 また「とても感謝しています。」は、「感謝でいっぱいです。」と言い換えられる。これは昔からある表現で、ぼくも好きだ。「感謝」というのは明るくて肯定的な言葉だから、洒落た編み籠に花束が詰まってるようなイメージがある。気持ちが弾む。
 「~しかない。」は否定形なので、どうも弾まない。ぼくは五輪に大反対だし、「アスリートの皆さん」にも感謝どころか悪印象しか持っていないが(あ。いまオレも使ったな)、どうせなら「感謝でいっぱいです。」となぜ言わないんだろう、という疑問は残る。
 まあ、「感謝でいっぱいです。」だと、すでに使い古されて陳腐化してると感じるからだろうね。でもぼくなんかは、今ならばかえって「感謝でいっぱいです。」のほうが新鮮に響くけどね。
 この手の言い回しが流行るのは、出だしのころ、ちょっと目新しくて気が利いてる……ように映るから若い世代が濫用し、そのうちに、なんだかそちらのほうが当たり前みたいになって置換されてしまう……というパターンを踏んでのことが多いと思うが、「~でいっぱいです。」が「~しかない。」に置き換えられた理由というのは、社会心理学の面からみても、いまひとつよくわからない。
 「強意」といえば、「~すぎる。」というのもあって、これも「気になる日本語」の筆頭株だが、こちらも大物だから別に記事を立てたほうがよさそうだ。ただ、「~すぎる。」は「素敵すぎる。」「爽やかすぎる。」といったように名詞や形容動詞に付くと共に、「嬉しすぎる。」のように形容詞にも付く。いっぽう、「~しかない。」「~でしかない。」は名詞か形容動詞にしか付かず、形容詞に付くことはない。その相違だけは書き留めておこう。
 形容動詞といえば、2020年の5月に大阪府の吉村洋文知事が、緊急事態宣言の延長について、
「出口が見えなければ不安でしかない。出口戦略として、国が客観的な基準を示すべきだ。」
と記者会見の席で述べたのが印象に残っている。
 ついでにいうと、大阪は全国に先駆けてかなり早くから「医療崩壊」に近い状況に陥っており、その主因の一つは、維新の会が政権の座に就いていらい「行政の無駄を省け」との号令のもとに公立病院・病床・医療従事者といった「医療的リソース」を削減したせいだといわれている。
 だから吉村知事の発言は「どの口がいうか。」という感じなのだが、しかしこの人は(たぶん若くてハンサムだから)幅広い人気を博している。府民も市民もとことん甘い。この点においてもニホンの縮図となっている。事の本質を見ず、表層だけで好悪を決めるポピュリズム。
 それはさておき、コトバの話に戻ると、ここでの問題は「不安でしかない。」である。「不安で(胸が/心が/頭が)いっぱいです。」という言い回しは昔からあるので、その裏返しとして、ここは「不安しかない。」でもよかったはずだ。
 ところで、たいそうややっこしいのだが、「不安でしかない。」の「で」は、「不安でいっぱいです。」の「で」とは違うのである。「不安でいっぱいです。」の「で」は、手段・方法・道具・材料などをあらわす「格助詞」だ。
 「バケツは水で一杯だ。」の「で」である。
 いっぽう、「不安でしかない。」の「で」は、「不安だ」という形容動詞の「だ」が、「~しかない」に接続されて変化形をとったものである。前提として、「不安だ」という品詞は、名詞「不安」に終助詞の「だ」がくっ付いたものではなく、「不安だ」という形容動詞と見なすという文法上の取り決めがある。
 「不安しかない。」と「不安でしかない。」は、たんに間に「で」が入ったわけではなく、「不安」(名詞)「不安だ」(形容動詞)と、品詞自体が別物になってるってことだ。
 吉村知事のアレは、人気のある公人が公の場で発したものだから、わりと影響力があったようだ。以前ならば「不安しかない。」と言っていたであろう人が、「不安でしかない。」と言うようになった事例が増えたような気がする。あくまでも体感ではあるが。
 ただ、「不安」とか「不安だ」はネガティブで暗い言葉だから、「~しかない。」との相性は悪くない。その点はまあ、いいんだけども、名詞だけでなく形容動詞も使えるぞってことになると、これがいよいよ拡張されて、「あそこでタクシーを拾えたのはラッキーでしかない。」といった具合になってくる。これはどうにも聞き苦しい。「ラッキーとしか言いようがない。」が正規の言い方だろう。
 つまり「ラッキーでしかない。」は、見た目は同じでも、「不安でしかない。」とはまた違う出自の表現からの転用なのだ。そのことは、「ラッキーでいっぱいです。」という言い方がこのばあい成立しないことからも明らかだ。
 このように、本来ならばいろいろと多彩な出自をもつ表現が、ぜんぶ一緒くたになってしまうと、日本語の表現がさらに貧しくなってくる。残念ながら、いまどきの流行りの言い回しは、日本語を豊かにするよりも、貧しくするほうに働くことが多いようだ。





愛想のよいを惚れられたと思い

2020-11-21 | 雑読日記(古典からSFまで)

 2020年11月10日にテレビ放映された第三期『おそ松さん』のAパート「まあな」は、ドラッグストアの女性店員に親切にされた末っ子のトド松と次男のカラ松がすっかり勘違いして岡惚れしてしまい、ひとしきり煩悶のあげく2人同時に交際を申し込みにいってあえなく玉砕。というおマヌケかつ切ない話。Bパートの「帰り道」ともども、この週はギャグ控えめで真面目っぽい(シリアスというほどではない)回になっていた。
 「それにしても、若い女性に優しくされて、(あれっ、この子おれに気があるのでは?)と誤解するなんて、現実にもありがちな話だけど……待てよ、こういうシチュをずばっと言ってのけた江戸の川柳ってなかったか?」と思い、ちょっと調べて見つかったのが今回のサブタイトル。


「愛想のよいを惚れられたと思い」


 あいそ、では語呂が悪いから「あいそうの……」と読むんだろうが、これは上手いね。これでもう言い尽くしてるようなもんだけど、さらに駄目押しで、たとえば「馬鹿がにやけて一人やきもき」とでも下の句を付ければ、情けない絵面が浮かび上がって、若い男たちにとっては軽挙妄動の戒めとなるのではないか。いや、なにも若い男とは限らぬか。中年でも、はたまた老年であっても、誰にだって起こりうることだ。誰しもが生活のなかに多少の潤いを求めているし、かつはまた、些かなりとも自惚れ鏡を胸の内にもってるもんだから。
 そんな勘違いヤローを発生させたら面倒だってんで、近ごろの若い女性なんてぇものは、みんな怖い顔して街なかを歩いてますよね。むろん、ビジネスやなんかで利害関係のある相手ならともかく、袖がすりあうていどの輩にたいして愛想よくする謂われはまるでないんで、それはそれでいいんだけども。
 「男は度胸、女は愛嬌」なんてのは昔の諺で、これだけ社会進出を果たした以上、そこには女も男もない。オトコのほうだってべつに無関係な相手に愛想使ったりしないんだから、そこは同じことだよね。
 ま、社会全体のムードとして、ギスギスはしますがね。

 ぼくだって、もっと若くて様子のよかった時分は(笑)、歩いててちょっと肩が当たったりしたら「あ。すみません」と言って相手のほうを見て口角を少し上げたりしたもんだけど、最近の空気からすると、なめられる、あるいは、薄気味悪がられる、のではないかと思って「どうも」とか口の中でぼそっと言って足早に立ち去りますもんね。それくらいが今の時代の距離感でしょう。平成の30年を経て、ずいぶん空気が変わったね。こういうのは皮膚感覚なもんで、あまり言語化されないんだけど、一応は社会学の範疇じゃないかと思うんだけども。

 そんな話題はさておいて、川柳ってのはほんとに人情や世帯風俗の機微をみごとに突いてますよね。そっちの話をしたかったんだ。
 和歌ってものは貴族(公家)にとって「詩」すなわち「美の結晶」である以上に、「社交の具」であったわけでしょう。むしろ武器っていうべきかな。詩才を認められるってことは、たんに名誉だけじゃく、まさに死活問題でもあったわけですよ。定家だって、家柄は貧乏貴族なんだけれども、その創作と鑑賞(批評)の才によって栄達を遂げたわけでさ。
 時代が変わって武家の世になり、室町あたりで「連歌」ってのが盛んになってくる。これはもう宮廷なんかではなくて、町なかに下りてきてるわけだよね、詩が。いろいろな階層の人を交えた講(結社)の中で、遊びとしての詩がやり取りされる。
 川柳ってのはさらに下って、やはり「町人」のものだよね。いかにも江戸って感じがする。余裕もあるしさ。
 こっちのは、結社の中のものってんじゃなく、むしろもっと開かれてますよね。『誹風柳多留』なんてね、正確な出版部数は知らないけども、けっこうみんな読んでたんでしょ。「おっ、こいつァ上手ぇこと言やァがったな。」「わかるねェ。」てなもんでね。今でいう「あるあるネタ」の宝庫だったりもしたと思う。
 あとね、もっと口承文芸に近いところで、「端唄」ってのがあるでしょう。それと都都逸。このあたりに今すこし興味があるんですけどね。


「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」


 なんて、いいよね。これは五七五じゃなく、七五七五なんだけど、リズムに乗って心地よい。五七五とか七七に拘らずとも、定型にさえ収まってれば、どう切っても口調がいいんですよね。
 春、夏、秋、冬の四季折折で、ちょいと一句ずつ選(よ)ってみましょか? どうせならちょいと色っぽいのを……。




「浮気うぐいす梅をばじらし わざと隣の桃に鳴く」


「朝咲いてよつに萎れる朝顔さえも 露に一夜の宿を貸す」


「色は良けれど深山の紅葉 あきという字が気にかかる」


「重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪」




 よござんしょ? いや、芭蕉も蕪村もそりゃ凄いけど、ほとんどが「読み人知らず」の扱いになってるこの手の文芸作品に何故かしら興味がわいてる今日この頃でございます。











中東の文学 ② ガッサーン・カナファーニーほか。

2020-01-10 | 雑読日記(古典からSFまで)





 話は中世から一挙に現代へ飛ぶ。ほんと、中東の文学については資料が乏しすぎるんで、どうしても粗くなっちゃうのである。


 2015(平成27)年に『サラバ!』で第152回直木賞を取った西加奈子さんは、親御さんの仕事の関係で誕生から2歳までをイランのテヘラン、小学1年から5年までをエジプトのカイロで過ごした。
 その西さんが、河出文庫から2017年に出たガッサーン・カナファーニーの短編集『ハイファに戻って/太陽の男たち』の解説を書いている。冒頭はこうだ。




 中東について知りたい、と思った。数年前だ。少しの間だけど自分が暮らしていた地域でもあるし、昨今のニュースを見て胸を痛めるたびに、まず彼らの感情を知らないことには何も理解出来ないと思った。
 そういうとき手に取りたくなるのは小説だ。
 もちろん優れたルポルタージュも海外のニュースも、私に「知る」手立てを教えてくれた、おそらくとても正確に。そしてそれは前述のように私の胸をこれ以上ないほど痛ませた。
 でも、何かを「知りたい」と思うとき、その「知る」が情報や知識だけではなく、芯のようなものに触れる感覚を求めているものであるとしたらなおさら、私は小説を読みたい。




 そう。小説ってのはまさしくそういうもので、或るひとつの文化圏について、そしてまた、その文化圏のなかで生きるひとりの人間について、「情報や知識だけではなく、芯のようなものに触れる感覚を求めて」知りたい! と切に感じたとき、そこで暮らす優れた作家の手になる小説を読むのは最良の手立てだと思う。




 文庫になったのはたった3年前だけど、著者のガッサーン・カナファーニー氏はとっくの昔にこの世の人ではない。1972(昭和47)年に亡くなっている。享年36歳。どのようにして亡くなったのかはあえてここには書かないが、「パレスチナ人」といえばおおよその見当はつくのではないか。興味がおありの向きは検索してみてください。ウィキにも項目が立ってます。




 ぼくがこのカナファーニーを知ったのはバブル華やかなりし頃、1980年代半ばのことである。創樹社という出版社から出ていた『現代アラブ文学選』の中に、代表作「ハイファに戻って」が収録されていた。級友のI君から借りたんだけど、そのとき彼には代わりにこっちから3冊貸した。わりと貴重な本だった。ぼくとしては「交換した」つもりでいたのだが、その後まもなくI君はやいのやいのとせっついて、『現代アラブ文学選』をぼくから取り返していった。ところがI君、こっちから貸した3冊のほうは一向に返そうとしない。何度催促してもむにゃむにゃと言うばかりであった。いかんなあ。そういうとこだぞI君。このブログ読んでたら返しなさい。
 とはいえI君、貸してくれる際、「どれも凄ぇが、とくにこのカナファニちゅうのがごっついからのう、とりあえずお前、このカナファニだけは読んどけや。」と推していたから、その慧眼は誉むべきである(じっさいにはこんな喋り方ではなかったが)。
 『現代アラブ文学選』の初版は1974年で、ぼくが借りたのはその版だが、1988年に重版がかかり、そのとき自分で買い直した。重版がかかったのは、収録作家のひとりエジプトのナギーブ・マフフーズ(1911 明治44 ~ 2006 平成18)がノーベル賞を取ったからである。エジプト初のみならず、アラブ圏初の快挙であった。しかしもしカナファーニー存命なりせば、彼もまた候補に挙がったことは間違いない。
 野間宏の責任編集になる『現代アラブ文学選』は、中東うんぬんを別にしても、一冊の文芸アンソロジーとして今読んでも面白い。資料として、目次を書き写しておきましょう。






序 現代アラブ文学の胎動 : 『現代アラブ文学選』に寄せて / 野間宏


小説
呪文 / ムハンマッド・ディーブ著 ; 木島始, 荒木のり訳
さそり / アブドゥッ・ラフマーン・アッ・シャルカーウィー著 ; 谷正則訳
彼女の新年 / ミハイール・ヌアイマ著 ; 池田修訳
靴直し / ユースフ・アッ・シバーイー著 ; 木島始, 荒木のり訳
狂気の独白 / ナジーブ・マフフーズ著 ; 塙治夫訳
すばらしい旅 / ユースフ・アッ・シバーイー著 ; 木島始, 荒木のり訳
クッファじいさん / イブラーヒーム・アブドゥル・カーディル・アル・マーズィニー著 ; 池田修訳
ハイファに戻って / ガッサーン・カナファーニー著 ; 奴田原睦明訳


戯曲
狂いの川 / タウフィーク・アル・ハキーム著 ; 堀内勝訳



われらの問題と月の探検 / アブドゥール・カリーム・アン・ナーイム著 ; 高良留美子訳
静かな恐れの歌 / マフムード・アル・ブライカーン著 ; 木島始訳
ぼくの国の人民 / サラーフ・アブド・アッ・サブール著 ; 中本清子, 中本信幸訳
タタール人どもが攻めてきた / サラーフ・アブド・アッ・サブール著 ; 中本清子, 中本信幸訳
パレスチナの恋人 / マフムード・ダルウィーシュ著 ; 池田修訳
黒猫たち / アブドゥル・ワッハーブ・アル・バヤーティー著 ; 関根謙司訳
ぼくは君たちに言った / アドニス著 ; 高良留美子訳
ある老いたイメージの章 / アドニス著 ; 高良留美子訳
聴いてくれ、ぼくはきみを呼ぶ / マーリク・ハッダード著 ; 中本清子, 中本信幸訳


評論
アラブ小説の新世代 / ガーリー・シュクリー著 ; 菊池章一訳
アラブ文学遺産のヨーロッパ文学に及ぼした衝撃 / アフマッド・ハイカル著 ; 木島始, 荒木のり訳
現代のアラブ詩人-自由への三つの状況 / アドニス著 ; 菊池章一, 関根謙司訳
民衆のための文学 / サラーマ・ムーサー著 ; 池田修訳
占領下パレスチナにおける抵抗文学 / ガッサーン・カナファーニー著 ; 奴田原睦明, 高良留美子訳


紹介・解説
アラブ現代詩の歩み / 池田修
アラブ現代散文文学の諸潮流 / 関根謙司
現代アラブ文学の紹介をめぐって / 竹内泰宏




 同じころ、河出書房新社から「現代アラブ小説全集」なるシリーズ企画も出た。ついでにこちらもコピペしておこう。






アフリカの夏
ディブ 著 篠田 浩一郎/中島 弘二 訳
百年余の植民地主義がもたらした無気力と停滞。アラブ的時間のなかで徐々に熟してくる変化――アルジェリア革命をその内部から表現し、北アフリカの生活と風土を斬新な手法で描く!巻末論文=野間宏




阿片と鞭
ムールード マムリ (著), 菊池 章一 (翻訳)
7年にわたるアルジェリア独立戦争をFLN兵士たちの運命をとおして描く。極限状況におかれたアルジェリア人の苦悩にひしがれた生活、闘いと魂の深奥が劇的構成で示される!巻末論文=金石範




オリエントからの小鳥
ハキーム 著 堀内 勝 訳
パリ滞在中のアラブ青年とフランス娘の恋――理論偏重の西欧からイスラム的心性への回帰をうったえ、ラディカルに西欧文明を批判するハキームの代表作。巻末論文=いいだもも




北へ遷りゆく時/ゼーンの結婚
サーレフ 著 黒田 寿郎/高井 清仁 訳
北に象徴される西欧への憧憬と、南に象徴されるアフリカ的野性の葛藤。白人女性を渉猟する主人公サイードの漂泊、その形而上的な死から再生へ。故郷喪失の精神が葛藤を超えて回帰する!巻末論文=小田実




不幸の樹
ターハー・フセイン (著), 池田 修 (翻訳)
家の中に〈不幸の樹〉を植えることになると、息子の結婚に反対して逝った母――ハーレド一家三代の歴史をたどりながら、19世紀末から20世紀初頭にかけてのエジプト社会の変遷を描く。巻末論文=高史明




海に帰る鳥
バラカート 著 高井 清仁/関根 謙司 訳
1967年の6日戦争に直面したアラブ人。「さまよえるオランダ人」のような祖国パレスチナ。性と死、性と政治、戦慄と流浪――主人公ラムズィーの苦悩をとおして6日戦争を詩的に表現する!




大地
シャルカーウィー 著 奴田原 睦明 訳
エジプトの農村社会に焦点を合わせ、悪政で名高いシドキー政権下に生きる農民の姿を、生活慣習や風俗とともに真正面から大胆に描きあげた問題小説。エジプト現代文学の代表作。巻末論文=竹内泰宏




太陽の男たち/ハイファに戻って
ガッサーン・カナファーニー 著 黒田 寿郎/奴田原 睦明 訳
パレスチナの終わることなき悲劇にむきあうための原点。20年ぶりに再会した親子の中にパレスチナ/イスラエルの苦悩を凝縮させた「ハイファに戻って」、密入国を試みる難民たちのおそるべき末路に時代の運命を象徴させた「太陽の男たち」など、世界文学史上に不滅の光を放つ名作群。




バイナル・カスライン 上下
ナギーブ・マフフーズ (著), 塙 治夫 (翻訳)
カイロ旧市街、バイナル・カスライン通りに住むアフマド一家の日々と激動する社会を緊密な構成で描くアラブ近代文学の最高傑作!




 つまり文庫版の『ハイファに戻って/太陽の男たち』は、このシリーズの中からほぼ30年ぶりに甦ったわけである。






 なお、大学書林というところから、『対訳 現代アラブ文学選』なるアンソロジーが1995年に出ている。生憎こちらは手に取ったこともないが、収録作品リストはこうなっている。




はしがき
あの匂い  スヌアッラー・イブラヒーム
ハミースが先に死ぬ  アリー・ゼーン・アーブディン
塩の町  アブドル・ラフマーン・ムニーフ
女王の来訪  マムドーフ・アドワーン
監獄の手紙  アブドル・ラティーフ・ラアビー
アッカーの難民キャンプへ行く  ラドワー・アーシュール
憲章  ガマール・アブドル・ナーセル


 「対訳」とのことなので、アラビア語を学ぶテキストも兼ねているのだろう。


 カナファーニーの文庫化は喜ばしいが、あれから30年あまりを経て、かの地の激動は収まらぬどころかより複雑となり、ぼくたちが中東を知る必要性もいっそう増してるはずなのに、アラブ現代文学の紹介はまったく進んでいない。グローバリズムグローバリズムといいながら、その内実がいかに偏ったものかが知れる。
 とりあえず、『ハイファに戻って/太陽の男たち』を読んでみませんか。定価880円+税。おなかの底にズシンと来ますよ。












中東の文学 ① ペルシャの詩人たち

2020-01-09 | 雑読日記(古典からSFまで)
ハーフィズ。画像はウィキペディアより拝借


 たいそうなサブタイをつけたが、中東の文学について何ほどのことを知っているわけでもない。いつものとおり思いつくままの漫談でござる。
 鈴木紘司氏の『イスラームの常識がわかる小辞典』(PHP新書 2004)にはこう書かれている。


「『千夜一夜物語(アラビアンナイト)は19世紀からヨーロッパでもてはやされ、日本でもアラビア文学の代表作と思われているが、アラビア文学の中での地位は極めて低いのが真相である。それはアラビア詩をはじめ、膨大な文献と資料をもつアラブ文学の世界には、奥深いイスラーム文学が目白押しに存在するからであり、その中でペルシャ・インド的な要素を含み、非イスラーム的な習慣がかいま見える昔話は評価されない。』


 『アラビアンナイト』を持て囃すのはヨーロッパ人の東洋趣味のあらわれで、イスラーム圏での評価は低い、という話はよそでも目にした覚えがあるが、民衆レベルではそんなことなくて、「愛読」というより飲食店などで語り部によって「愛誦」され、客たちが楽し気に耳を傾けている、という話も一方で聞いたことがある。ぼくは現地に行ったことがないからどのみち明言はできないが、あれだけ面白いんだから(それこそ「物語の宝庫」というべきものだ)、暮らしの中に息づいていても不思議じゃない。
 とはいえ、「アラビア詩をはじめ、膨大な文献と資料をもつアラブ文学の世界には、奥深いイスラーム文学が目白押しに存在する」のは事実だし、つけ加えれば、ぼくらがそういったものにほとんど馴染みがないのも事実である。


 そもそも、先の引用の中の「ペルシャ・インド的な要素を含み」に引っかかった人もいるのではないか。インドはともかく、ペルシャが混じってなんでダメなの?そういうのまとめてアラブじゃないの?とか思った方はいませんか。ペルシャとはざっくり言って今のイランのことだけれども、これは「中東」であり「イスラーム圏」ではあっても「アラブ」ではない。語族も違えば歴史も違う。そんな基礎的なことさえも、うっかりしてると、あやふやだったりする。


 イスラーム文化は豊穣にして奥深い。哲学・思想の面でも先鋭にして深遠な学者を輩出したし、優れた詩人も多く出た。ただ、歴史上高名な詩人となると、「アラブ」よりも「ペルシャ」のほうにどうしても目がいく。岩波文庫から選詩集が出ているアブー・ヌワース(762 天平宝字6~ 813 弘仁4)みたいなユニークな詩人もアラブ系にはいたけれど、なんといってもペルシャには、ハーフィズとオマル・ハイヤームという凄い人たちがいるからだ。


『ルバイヤート  RUBA'IYAT』
オマル・ハイヤーム 'Umar Khaiyam
小川亮作訳


青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html


 この小川亮作さんのまえがきにこうある。

 詩聖ゲーテはその有名な『西東詩集』の中で、人も知るごとく、ペルシア語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推称した。彼は言った――「ペルシア人は五世紀間の数多い詩人の中で、特筆に値する詩人としてわずかに七人の名しか挙げないと言われている。しかし彼らが斥ける残余の詩人の中にさえも、私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と。自負心の強いこの詩人にしてこの言をなした、もって傾倒のほどが知られよう。

 ぼくのほうから敷衍しておくと、ゲーテが心酔したのはハーフィズ(ハーフェズとも表記。1325/1326~1389/1390)のほうで、このハイヤーム(1048~1131)のことは(おそらく当時まだ未紹介だったため)知らなかったのである。
 それで、

 もしも彼にしてハーフェズの創作上の先師であったオマル・ハイヤームを知っていたならば、この東方に深く憧れた詩人の『西東詩集』には、さらに色濃いオマル的な懐疑の色調が加えられたかも知れない。

 
 と、小川さんは附言しておられる。

 この「まえがき」をちょっとスクロールすると出てくる、


もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?


自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?


 といった詩篇を見れば、小川さんのいう「オマル的な懐疑」の何たるかがよくわかるであろう。ちなみにワタシ、この内向的な感じけっこう好きですが。


 いっぽうハーフィズの詩の邦訳は、あるにはあるが、今のところ文庫サイズのお手頃価格では手に入らない。むろん青空文庫にもない。
 ものの本によると、
「宮廷詩人であると共に神秘主義者でもあったため、抒情詩を神秘主義的に表現している。」
 とのことで、
「そこでは酒、酒杯、拝火教徒、美女、恋人などは表面上の意味のほかに神の愛、神の唯一性、神の啓示、神そのものを意味し、たとえばもっとも有名な詩の開句、


 もしシーラーズの美女がわが心を受け入れるなら、その黒きほくろに代えて、われは与えん、サマルカンドもブハーラーも、酌人よ、残れる酒を与えよ、天国においてもルクナーバードの流れとムサッラーの花園は得られぬだろう。


 ……は、神と詩人との関係の表現とも解される。」そうだ。




 なお世界文学最高峰の文豪(のひとり)ゲーテが『西東詩集』のなかでハーフィズを讃えた詩句は以下のとおり。




よしや全世界が陥没しようとも
ハーフィズよ 君を 君をひとり
競いの友にしよう 双生児のぼくら
苦しみはひとつ 楽しみもひとつ
恋も酒も ぼくは 君のさまで
ぼくの誇り ぼくの命 この生き方が




 ここまで惚れこむってのは並大抵ではなく、たんに思想上の共鳴とか技巧のうまさへの感銘といったことでは説明がつかぬ気がする。やはり「神」のことが関わってくるんじゃないかと思うんだけど、かんじんのハーフィズさんを読んでないから、今のところぼくのほうからはこれ以上のことは何もいえない。