ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

わたしをあの綺麗な月まで連れてってくれたら死んでもいいわ。

2019-12-09 | 雑読日記(古典からSFまで)
 今日は漱石忌。近代日本を代表するこの文豪は、1916年(大正5年)12月9日、49歳で逝去した。その死は名実ともに明治文学の終焉を告げたのだけれど、作品は不滅の生命を湛えて、今もなお読み継がれている。


 この漱石が、東大で英語教師をしていたころ、
 ある学生が「I love you.」という小説の一節を「我、汝を愛す。」と訳したのを受けて、
「日本人ならそういう言い方はせんだろう。月がとても綺麗ですね、とでも訳しておくところだ。」
 と述べた。


 ……という通説がけっこうな規模で行きわたっているが、じつははっきりした典拠が見当たらず、後世の創作だろうと言われている。漱石じしんの随筆の中に見られないのは間違いないし、数多い弟子たちの遺した著作のうちにもそういった記述はない。


 そもそも、初めのうちは、「月が青いですね。」であったのが、のちに「綺麗ですね」「きれいですね」に転化したとか。そこからも、文献として明確な出典がないことがわかる。


 この件についてはネットの上にもたくさんの考証があふれているのだが、ぼくなりに整理したところ、


 この逸話は昭和50年代にとつぜん現れた。そのときは「……青いですね。」であった。
 1955(昭和30)年に「月がとっても青いから、遠回りして帰ろ」という歌詞をもつ歌が流行った。
 1975(昭和50)年から翌年にかけて、NHKで『新 坊ちゃん』というドラマが放映され、その中にこの逸話が(脚本家の創作として)使われていた可能性がある。


 とのことだ。あるいはこれが信憑性が高いか……とも思ったのだけれど、「そのドラマをみた。間違いなくそのエピソードがあった。」という証言は、ざっと探した限りでは見つからない。

(さらにいうと、柴俊夫が坊ちゃん、西田敏行が山嵐を演じたそのドラマ、ぼくは確かにリアルタイムで見た覚えがあり、山嵐が社会の理不尽に憤って「オッペケペ節」を熱唱するシーンがいまだに脳裏に焼き付いているが、なにぶん幼い頃のことであり、その他は一切覚えていない。)


 書かれたものとして確認できるのは、1976年から連載が始まり、1979年に出版された豊田有恒のエッセイ、および1978年に行われた対談の中でのつかこうへいの発言とのこと。片やSF作家、片や劇作家ということで、「教壇から怒鳴りつけた。」などと、派手な脚色が加えられたりして、より人口に膾炙しやすくなっていた。
 ともあれ、活字になった文章としては、今のところこれ以上遡ることは難しく、いずれかがネタ元になったと思われる。それがすっかり定着して、また新たにドラマやなにかで再利用され、ツイッターなどで拡散されて、今日に至っている。どうもそういうことらしい。


 だとしたら、豊田さんにせよ、つかさんにせよ、妙な影響を及ぼしちゃったもんだな……。


 この逸話が人気を集めるのはよくわかる。漱石という人の人柄と才気をよく表している(気がする)し、また、日本人(日本語)と欧米人(英語)との気質の相違を端的に言い当ててもいる。都市伝説と一蹴するには惜しいエピソードではあるが、確かな出所が見つからぬかぎり、誤伝は誤伝だ。


 なお、漱石のことは脇に置いて、そもそも「月が綺麗だねェ……」という言い回しをもって愛情表現に当てる、といった感性が日本語の伝統において那辺に由来するのか……歌舞伎かなにかに先例があるのか……という考証もまた成り立つだろうし、それはそれで面白そうではある。でも時間がないからそこまではやらない。




☆☆☆☆




 いっぽう、こんな通説もよく聞く。


「二葉亭四迷は、I love you.を 死んでもいいわ。と訳した。」


 漱石の時は「月が青いね。」だった「I love you.」が、こちらでは「死んでもいいわ。」になっちゃうわけで、実話だったらさぞ面白かったんだけど、残念ながらやはり誤伝だ。
 しかし、漱石の事例よりは、はっきりしたことが判明している。
 というのは、風聞ではなく、翻訳のなかの文章だから。


 ロシア文学者にして実作者。代表作は『浮雲』。その訳業と卓越した文学観によって漱石と共に近代日本文学の創始者のひとりとなった二葉亭だけど、その翻訳の一つにツルゲーネフの『片恋』があった。
 ツルゲーネフの邦訳といえば『はつ恋』が有名で、二葉亭の訳では『あひゞき』『めぐりあひ』が知られているが、ここは『片恋』である。原題はヒロインの名前『アーシャ』。


 その第16章から。


 ……私は何も彼も忘れて了って、握ってゐた手を引寄せると、手は素直に引寄せられる、それに随れて身躰も寄添ふ、シヨールは肩を滑落ちて、首はそつと私の胸元へ、炎えるばかりに熱くなつた唇の先へ來る……
「死んでも可いわ…」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。
私はあはやアーシヤを抱うとしたが…ふとガギンの事を憶出すと……


 当時としてはなかなかの濡れ場……といっていいかと思うが、このくだり、英語版では以下のようになっているそうな。


 ……I forgot everything, I drew her to me, her hand yielded unresistingly, her whole body followed her hand, the shawl fell from her shoulders, and her head lay softly on my breast, lay under my burning lips.……
“Yours”…… she murmured, hardly above a breath.
My arms were slipping round her waist. But suddenly the thought of Gagin flashed like lightning before me.……




 それで、この、「“Yours”」が「死んでも可いわ…」になっている。
 ちなみに原文のロシア語では、「Ваша……」で、やはり「あなたの……」の意とのこと。


 だから、「二葉亭四迷は“I love you.”を 死んでもいいわ、と訳した。」という説は誤りということになる。そういうことにはなるのだが、しかし真相を掠めてはいる。「ニアミス」という感じだろうか。しかし思えば、「“Yours”」を「死んでもいいわ」と訳すのだって相当に大胆であり、じゅうぶんに語り継がれるに値するだろう。


 ちなみに後年、ロシア文学者の米川正夫氏は、この作品を改訳したおり、やはりタイトル『アーシャ』を『片恋』と訳して偉大な先達に敬意を表した。ただしこの「Ваша……」については、「(私は)あなたのものよ……」と原語に近い訳文にかえた。
 ただ、どうなんだろう。ぼくは読んでないからわからないけど、ここだけ見れば「あなたの意のままに」とか「仰るとおりに致しますわ」くらいの意味でも通るんじゃないか……という気がした。「あなたのものよ。」だって、「死んでもいいわ。」ほどじゃないけど、なかなかに思いきった訳だ。


 それにつけても二葉亭四迷、本名・長谷川辰之助。漱石や鷗外と並ぶ創始者が、こんな戯作者めいたペンネームを付けたところに近代日本文学の、ひいては近代日本文化の、ひいては近代日本そのものの悲劇と喜劇が綯い交ぜになっている。
 1909年(明治42年)5月、45歳で逝去。
 関川夏央×谷口ジローの名作マンガ『坊ちゃんの時代』の第二部・「秋の舞姫」は、その葬儀のもようから幕を開ける。






☆☆☆☆






 ところで、「私を月まで連れてって」という曲がある。「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。スタンダード中のスタンダード・ナンバーだ。宇多田ヒカルの素敵なカヴァーもあるし、竹宮惠子に同タイトルのSFコメディー漫画もあった。
 1995年から翌96年にかけて放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のエンディングテーマとしても知られる。
 全26話すべて「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」がエンディングテーマだったんだけど、アレンジがぜんぶ異なる、という趣向が凝らされていた。大人っぽいのから可愛らしいのまで、アップテンポからスローバラードまで、インストゥルメンタルから声優さんによる日本語歌唱まで、26とおりの「私を月まで連れてって」が流れたわけだ。
 ぼくはずっと、音楽担当の鷺巣詩郎によるアレンジだとばかり思っていたが、調べたところ、そうではなかったらしい。
 いずれにしても、『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズの謎めいた魅力の一端を、この週替わりのエンディングテーマが担っていたのは確かだと思う。




 歌詞はこうだ。


☆☆☆☆


Fly me to the moon
Let me play among the stars
Let me see what spring is like
On a Jupiter and Mars




私を月まで連れてって
星々の海で遊ばせて
見せて欲しいの 春がどんなものなのか
木星と火星に訪れる春が




In other words: hold my hand
In other words: darling(baby),kiss me




わかるでしょ? 手を握って
わかるわね? ね キスして




Fill my heart with song
And let me sing for ever more
You are all I long for
All I worship and adore




わたしの心を歌で満たして
歌わせて いつまでもずっと
貴方は私が待ち望んでいたすべて
憧れと思慕のすべて




In other words: please, be true
In other words: I love you




わかるでしょ? 本気になって
わかるでしょ 好きなの あなたが




☆☆☆☆




 繰り返される「In other words」は、「言い換えれば」だ。「つまり」とか「要するに」でもいいかと思う。
 「わかるでしょ?」と訳してみたんだけど、どうだろう。睦言としては、こんなところだと思うんだけど。
 「I love you.」を「In other words」でいえば、(残念ながら誤伝だけれど)「月が青いね……。」にも「死んでもいいわ。」にもなる。さらには「私を月まで連れてって」にもなる。ほかにも無限の意味になりうるだろう。言葉というのは底知れない。















芭蕉と門人たち 03 「座」といふもの。

2019-08-18 | 雑読日記(古典からSFまで)



 芭蕉といえば「孤高の俳聖」「隠者」「漂泊の旅人」……といったイメージが無きにしも非ずだが、いっぽうでは、あまたの門人を抱える「宗匠」の顔もあったわけである。
 ご本人も、「発句だけなら門人の中にも私にひけをとらない者はいるよ。でも、連句の座を捌(さば)く業前ならば、やはり私に一日の長があるだろうね。」という意味の言を残している。
 京都アニメーションの事件につき、当ブログではもっぱら「孤立」という切り口で考察してきたが、そのあとでおもむろに、芭蕉と門人についての記事を2本アップしたのはそれ故だ。芭蕉のつくった「座」の空間は、「孤立」の対極にあるものだなあ……と、ふと思ったのだった。
 連句のことはご存じだろうか。
 江戸期の町人文化ながら、優雅な知的遊戯としては、王朝の和歌・漢詩の遊びにも劣らないと思う。決まりはなかなか煩雑で、かくいうぼく自身じつは完璧に理解しているわけではないが、体裁だけいえば、気の合う仲間が何人か(3~5人くらいが多いようだ)集まって、五七五、七七、そのあとまた五七五、七七、と付けていき、36句まで巻いたところで、「一巻の終わり」と相成る。
 きわめて高度な「連想ゲーム」といってもいいか。参加者それぞれに相当な知性や教養や感性が求められるし、前の句を詠んだひと、後の句を詠むひと、さらには一座のほかの衆にも、気遣い・気配りが欠かせない。つまり、月並みな句ばかり付けていてはつまらぬが、かといって、個性を出そうと突飛な句を付けては全体の空気を壊してしまう。その兼ね合いがむつかしい。いかに同好の士とはいえ、細やかな社交の場でもあるわけだ。
 だからこそ、座を取り仕切る宗匠の才腕ってものがとても大事になってくる。インプロビゼーション(即興)をやるジャズバンドのリーダー、もしくは、もっと卑近な例ならば、テレビのバラエティーショーのMCに当たるといえるか。
 赤穂浪士の大高源吾たちが其角(芭蕉の高弟)の俳諧仲間だったことからもわかるように、文人として会する際には、原則として身分の隔たりがない。武士も町人も、みな同列なのである。
 だから江戸の都をはじめ、「連句」の寄り合いは各地でいろいろな人たちによって行われていたと思うが、そのなかで頂点に位置するものは、もちろん芭蕉を宗匠とする会であり、その成果は「冬の日」「猿蓑」といった書に収められている。
 岩波文庫の『芭蕉七部集』などを見ていると、まあ、難しくてとうてい味読はできないけれども、そこにものすごく緻密かつ濃厚な世界が織りなされている……ことだけはわかる。
 それは「文化の粋」としかいいようのないもので、こういう点にかんしては、現代は江戸期に遥か及ばない。むしろ衰退している。
 芭蕉一門の「座」の醸し出す濃密さは、ひととひととの交わりの濃さ……でもある。
 いったいに、昔は「ひとと交わること」こそが最大の娯楽だったわけで、だから「祭り」の大切さとか熱さも今日の日ではなかった。将棋なども、個人と個人が密室に籠って一対一で指すより、縁台将棋じゃないけれど、大勢の注視のなかで指すことが多かった。皆で楽しんでたわけである。
 前々々回の記事「ハイテク社会と孤立」のなかで、akiさんは、


 さらに孤立の重要な要素として、「娯楽の進歩」があるでしょう。ネットにつなげれば、さほどお金をかけずとも様々な映像コンテンツを楽しむことができ、ゲーム・スポーツ・アイドル産業・お笑いなど、多種多様な趣味に応じたコンテンツが山のように存在します。さらに、SNSなどで個人が情報発信する手段も発達し、人間にとって本質的な「癒し」である「人とのつながり」を代替することもできる。その結果、一人暮らしであってもあまり寂しさを感じずに済むようになった。
 これらの変化は、「家事を楽にこなしたい」「居ながらにして世界中の文化に触れたい」等々の欲求に応えて、科学技術が飛躍的に進歩した結果もたらされたものです。そしてその結果として、他人の助けを借りずとも、他人と無理に関わらなくても生きていける社会が現出し、「ならば面倒な人間関係に煩わされずに生きていきたい」と考える人が増加した。実際、「孤立」とまではいかなくても、大なり小なりそう考える人は多いと思います。


 と述べておられるが、これはまったくそのとおりで、ハイテク化が進めば進むほど、ひととひととの距離は隔たり、他人のことが「うざい」「きもい」「めんどい」といった塩梅になる。こんな言い回しは、ぼくなどが20代の頃にはなかったのだ。
 テレビやビデオくらいまでならまだよかった。スマホの普及によるネットの拡大が、あまりにも巨大な影響を社会にもたらした。
 おおげさにいえば、明治維新~敗戦~高度成長~バブル崩壊~IT革命……ときて、平成の後期あたりから、ニッポンはついに、「江戸期」から完全に切断されたといえるのかもしれない。それまでは、まだしも少しは「前近代」の余慶がのこっていた気がするのだ。
 芭蕉一門の残した連句を眺め、芭蕉と門人たちのことを考えるにつけ、ぼくには今の時代の異様さってものが際立って見えてくる。






芭蕉と門人たち 02 枯野抄

2019-08-01 | 雑読日記(古典からSFまで)





 芥川が芭蕉に私淑しており、優れたエッセイを残したことは前回述べた。小説では「枯野抄」が有名だ。
 臨終の床に就いた師・芭蕉を囲んで最期を看取る門人たちの、それぞれに屈折を湛えた心情を辛辣に穿ってみせた短編。例によって巧すぎるほど巧く、昔はただただ嘆賞したが、この齢になって読み返すと、あまりの見事さにかえって興ざめた気分にもなる。でも名作には違いないので、もし未読であればこの機会にぜひ。


 青空文庫版テキスト
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/72_14932.html





 この作品の劈頭に、


丈艸(じょうそう)、去来(きょらい)を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟(どんしゅう)に書かせたり、おのおの咏じたまへ

  旅に病むで夢は枯野をかけめぐる

――花屋日記――


 なる一文が引用されている。「花屋日記」は、文暁という僧が1811年に刊行した二巻の書で、「芭蕉翁反古文」ともいう。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送の模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めた……ものなんだけど、じつはぜんぶ創作であったと後の研究で判明した。芥川はどうも知らなかったらしい。芥川じしん、『れげんだ・おうれあ』という虚構の種本によって世を翻弄したことを思うとなんだか可笑しいが、とはいえ、集まった門人の顔ぶれなどは正確である。


 参考資料
一つの作が出来上るまで 青空文庫版
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3754_27334.html





 当のエッセイのなかで芥川は、


 「枯野抄」といふ小説は、芭蕉翁の臨終に会つた弟子達、其角、去来、丈艸などの心持を描いたものである。それを書く時は「花屋日記」といふ芭蕉の臨終を書いた本や、支考だとか其角だとかいふ連中の書いた臨終記のやうなものを参考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前から死ぬところまでを書いてみる考であつた。勿論、それを書くについては、先生の死に会ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた。その心持を私は芭蕉の弟子に借りて書かうとした。(……後略……)




 と述べている。「先生の死に会ふ弟子の心持」がわかるというのは、もちろん、この3年ほどまえ漱石の死に接したからだ。




 「枯野抄」では、あたかも読者が劇の舞台を観客席から眺めるかのように、人物とセットが配置されている。まず「医者の木節(ぼくせつ。青空文庫版には「もくせつ」とルビがふってあるが「ぼくせつ」が正しい)」の名が挙がるが、これは「医者」ゆえにその場に呼ばれたのだろう。芭蕉の門下のなかでけして知られた人とは言えず、ほかでその名をみることはほとんどない。
 俗に「蕉門十哲」という。孔子の名だたる弟子を列挙した「孔門十哲」にあやかったものだ。ただ、この手のリストアップの常として、必ずしも一定はしていない。江戸期より既に、選ぶひとによって多少の異同があったのだが、それでも其角を筆頭に、嵐雪、去来、丈草までは外せない。これに次ぐのが杉風、凡兆、さらに支考、荷兮か。また惟然、野坡などをその癖の強さゆえ好む人もいる。「おくのほそ道」で同行した曾良を加える人ももちろんいる。
 これらの門人たちがみな芭蕉の最後に立ち会ったわけではない。来られなかった者、来なかった者も少なからずいる。そこにもまた秘められたドラマがあったと想像すれば興趣は尽きぬところだが、芥川いこう、蕉門に材をとった小説・芝居・映画・ドラマの類は意外なくらい見当たらない。
 堀切実・編注の『蕉門名家句選』(岩波文庫)の下巻に附された解説によれば、直接間接に芭蕉の教えを受けた門人の数は全国に二千余名、うち名の通った俳人だけでもほぼ一割の200名にのぼるそうだ。この日、大坂南久太郎町御堂ノ前・花屋仁右衛門貸座敷にて師の末期を見届けたのは(つまり「枯野抄」のなかで描かれるのは)、其角、去来、丈草、支考、維然、そして木節、乙州、正秀、之道の九名である。
 まえがきで、「旅に病むで……」の句を書き取ったとある呑舟はなぜか居合わせていない(この人はむしろ之道の弟子で、つまり芭蕉にとっては孫弟子にあたる)。本作の中の芭蕉はすでに意識がなく、句を詠んだのはその前である。だから「旅に病むで……」は辞世の句ではなく、あくまで「最後に詠んだ句」なのだ(厳密にいえば、そのあと「清滝や波に塵なき夏の月」に手を入れて、「清滝や波にちり込青松葉」に改稿しており、これが生涯の最終句ということになろう)。
 これら九名は、確執を生じているってほどでもないが、やはり和気藹々ってわけでもない。お互い腹に一物ある。そんな彼らが、もはや垂死となった病床の師を前にしながら各々の自意識に絡め捕られてうじうじ、ぐずぐずと内面で葛藤を演じるところが一編の眼目なのだが、芥川本人は、




(……前略……)芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗やみの中にひろがるやうな、不思議に朗かな心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃の宝土に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出来ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒に䠖跙逡巡して、己を欺くの愚を敢へてしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑みを浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――




 と描写される内藤丈草(作中では丈艸と表記)に自らを仮託したといわれている。あらためて漱石とのことに思いを致すと、なかなかに業の深い話ではある。







芭蕉と門人たち 01 西施と蛇女

2019-07-30 | 雑読日記(古典からSFまで)



 芥川龍之介は俳句を嗜んだ。
 「自嘲」と題した「水涕(みづばな)や鼻の先だけ暮れ残る」、感覚の鋭さを示す「蝶(てふ)の舌ゼンマイに似る暑さかな」「青蛙おのれもペンキぬりたてか」などが有名だけれど、ぼく個人は、


 蛇女みごもる雨や合歓の花


 が忘れがたい。「蛇女」のインパクトがあまりに強烈だ。これはイギリスの詩人キーツの歌った蛇女(レイミア)だろう……とぼくは目星を付けてるのだが、ちゃんと考証したわけじゃないので定かではない。いずれにせよ、怪奇趣味あるいは妖美趣味の色が濃い。ただ、最近になって改めて見返すと、むしろ「合歓の花」のいわく言い難い佇まいを際立たせるために蛇女をもってきた……ようにも思えた。つまり合歓の花が主役で蛇女のほうが従なのだ。俳句に親しんでいる人なら「何をいまさら」と仰るだろうか。







 芭蕉にも、
 象潟や雨に西施がねぶの花
 がある。「ねぶ」は「合歓」だが「眠る」の意を含んでいるのでこう表記せねばならないらしい。西施は古代中国の伝説的な美女。蛇女よりは穏やかだけど、それでも妖艶なイメージであろう。ただ、この句は「ねぶの花」よりむしろ「象潟」という土地そのものを西施に譬えたものだそうな。とはいえ、上記の句をつくるにあたり、芥川の念頭にこの句がなかったはずはない。
 芥川は芭蕉を終生敬愛していた。おもな評論とエッセイを集めた『ちくま文庫版 芥川龍之介全集 7』には、「俳句論」として、「発句私見」「凡兆について」「芭蕉雑記」「続芭蕉雑記」の4本が収められている。凡兆は芭蕉の高弟のひとりだ。




 江戸期の俳諧を代表するもうひとりの巨星・蕪村(1716 享保元年~1784 天明3)の句はイメージがくっきり浮んでわかりやすい。しかし芭蕉(1644 寛永21~1694 元禄7)はそうではない。ことばのやりくりが巧緻すぎるというか……。有名な「海くれて鴨の聲ほのかに白し」にしても、やはり「海くれてほのかに白し鴨の聲」じゃあ嵌りすぎてて駄目なんだろうし、そもそも「鴨の聲」を「ほのかに白い」と叙する感覚が江戸離れしている。フランス近代の象徴詩みたい、とまで言ったら専門家に怒られるんだろうけど……。




 これも有名な「水取りや氷の僧の沓(くつ)の音」の「氷の僧」にしても、当時はずいぶん思い切った言い回しだったはずで、げんに長らく「難題の一つ」とされていた。「(東大寺の)二月堂に籠りて」との前書があるので、「こもりの僧」の誤記ではないかという疑義を呈するひともいたほどで、それくらい奇抜にみえたわけだろう。まあ「氷」は「僧」よりも「音」に掛かるのだとは思う。「沓(くつ)」は練業の際に履く檜(ひのき)でできた木沓のことで、だから沓音が冴え冴えと鳴り響くのだ。とはいえ、「氷の僧」なる字面にはやっぱり一見はっとさせられる。

 ともあれ芭蕉は難しい。ぼくなんかには、先の凡兆さんもふくめ、芭蕉のお弟子さんたちの句のほうがまだわかりやすかったりする。とはいえむろん、すらすら読めるわけではないが。







「心」とは何かを考えるための5冊

2019-07-06 | 雑読日記(古典からSFまで)
 卒爾ながら、本日はこのお題にて。
「教養って何?」シリーズ。今回は、「心」とは何かを考えるための5冊。分冊になってるのもあるんで、実際にはもっと多いですが。



① 心の仕組み 上 下 スティーブン・ピンカー ちくま学芸文庫



② 人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か 上 中 下 スティーブン・ピンカー NHKブックス




 なんといってもピンカーさんは外せない。




③ MiND 心の哲学 ジョン・R・サール ちくま学芸文庫






 大御所サールの主著がようやく文庫に。



④ 心はどこにあるのか ダニエル・C・デネット ちくま学芸文庫



 サールと対立するこの人の本もちくま学芸文庫に入っている。ここはぜひとも併せて読んどきたいところ。


⑤ 脳はいいかげんにできている: その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ デイヴィッド・J・リンデン 河出文庫







 ケーハクな題名だけど中身は充実。



 サールさんは哲学者で、デネットさんも哲学寄り。ほかの人たちは科学畑。
 「科学の精緻化・深化によって、哲学をはじめとする人文系は消滅する」みたいなことをいってる橘玲さんのような人もいるけど、そんなシンプルな話じゃない。「科学」の言説だけではどうしても追い詰めきれない領域があって、『MiND』と『心の哲学』を読めばそのあたりが見えてくる。とはいえ今や、生粋の哲学者であっても量子力学や脳科学や進化生物学の知識がなければ話にならない、のは確かなようです。












教養って何? 番外編 いまの中国を知る。

2019-05-11 | 雑読日記(古典からSFまで)



 5月3日の憲法記念日に「九条の改憲について。」なる記事を書いたけれども、あれはもっぱら中東のこと(「イスラム国」とか)を念頭においた文章で、きちんといえば「集団的自衛権」にまつわる話だった。
 「集団的自衛権」の行使のためにはどうしても法の整備が必要なのだ、という理屈については、(ぼくが見つけた限りでは)このサイトにとても詳しく、わかりやすく書かれてある。
伊勢崎 賢治
いまさら聞けない「集団的自衛権って何ですか?」〜日本の常識は世界の非常識だった……

 こういう話を読んでると、安倍政権が改憲を唱えるのもけして「対米従属強化」のためだけはないんだなァと思わせられるが、とはいえそもそも「軍事」の話題は、それがぼくたちの暮らす日常からあまりにも隔絶しているゆえに難しいものである。
 ハリウッド映画の世界がとつぜん自分たちの暮らしと地続きになってしまうような違和感をおぼえる。
 それでも最低限の知識くらいはもっておきたいし、この先に起こるかもしれない事態を、あるていどはシミュレートしておきたいところだ。
 上にアドレスを貼った記事がアップされたのは3年前(2016年)だけど、ぼくは新聞もテレビも見ないからはっきりとはわからないにせよ、その頃と比べて「集団的自衛権」というワードを目にする機会は減ったはずである。
 「集団的自衛権」は、やはり中東の不穏さの度合いに付随して浮上してくるトピックなんだろう。この時節、情勢の変化は目まぐるしい。先日トランプ政権が中国製品の関税を25%に引き上げるぞと警告したが、いま目を向けるべきは中東じゃなく中国のほうだ。
 中国のことはむろん中東よりも日本にとって切実だ。ぼくがずっと考えてたのは「冷戦時代のソ連(当時)よりも脅威のレベルは大きいんだろうか?」ということなのだが、「大きい」という答えが、困ったことに、どうも正しいようである。
 だから中国について知っとくことは、もはや「教養」どころか「必須」かもしれない。
 いまの政治体制、および近現代史については、初版は2010年ながら、池上彰の『そうだったのか! 中国』(集英社文庫)がいちばんコンパクトだし、使える。
 そこに書かれた知識をざっとアタマに入れたうえで、ぜひ読んでおくべき一冊が出た。
 『米中もし戦わば 戦争の地政学』 文春文庫。
 原著は2015年。日本版の翻訳が出た(単行本)のは翌2016年。それが今年、2019年4月に文庫になった。かなり早い。
 著者のピーター・ナヴァロ氏はもともとは経済畑の研究者だが、現役の大統領補佐官である。つまり、このたびの関税の件にしても、この人の提言がトランプ大統領を動かしている可能性が高い。
 だからこれは、きわめてホットな、生々しいレポートなのだ。
 原著の出た2015年、トランプ氏はまだ大統領ではなく、ゆえにナヴァロ氏も補佐官ではなかった。このレポートによって注目され、トランプ陣営に招聘されて、選挙期間中からブレーンとなったのである。
 ひどく大雑把にいうならば、これも「中国脅威論」のひとつってことにはなるんだろう。しかし、凡百の「脅威論」を読むよりも、この一冊を読むほうがはるかにいい。
 情報量が桁違いで、論旨の流れがクリアなのだ。
 同時にこれは、「軍事学」「地政学」にかんする最良の入門書でもある。文庫化を機に、取り急ぎご紹介する次第である。



雑読日記001 まずは『成城だより』の話から。

2019-03-01 | 雑読日記(古典からSFまで)
 前回からの流れで「軍事」の話に持っていく予定だったんだけど、所用があって3、4日ブログのことを放念してたら、何をどう書くつもりだったのか紛れてしまい、「えーっと……」などと思ってるうちに気づけば1週間がたってしまった。こうなるとますます更新しづらくなり、あげく放置ってことにもなりかねぬ。自分のブログでも「敷居が高くなる。」ってことはあるのだ。10年あまりやってりゃそういうことは何回もあって、こんな折は、とりあえず何でもよいから書くことである(「放置ブログになったらなったで別にまあ……」という気分もないわけではないが)。
 ことのついでに「雑読日記。」なる新カテゴリーを追加しちまった。まとまった「論考」のかたちではなく、読書メモふうに読んだ本の感想や短評を記していこうぜ、というもの。本来ブログってのはそういうものであるのかもしれず、前々からやろうとは思ってたのだが、このたび踏み切ったのは大岡昇平『成城だより』の影響である。
 大岡さんといえば『レイテ戦記』(中公文庫)『武蔵野夫人』(新潮文庫)などで知られる巨匠で、かつて大江健三郎が「昭和の日本文学を代表する作家をひとり選ぶとしたら?」と問われたさい、その名を挙げた人ほどの方だ。
 理由は、
①小林秀雄、富永太郎、中原中也ら、近代日本文学の最良の系譜に連なる先輩や同輩たちのなかで自己形成してきたこと。
②スタンダールの研究家だった。すなわち、近代小説の基幹をきちんと学んでいたこと。
③サラリーマンとして会社に勤めていた。すなわち社会人としての経験をもっていたこと。
 そして、それらにもまして大きなものとして、
④太平洋戦争のとき、自ら一兵卒として従軍したこと。
 といった事どもだった。
 もう30年も前なんで、大江さんがそのとき言われたとおりじゃないかもしれぬが、いま自分で考えてみても、この評価は正鵠を射ていると思う。
 この大岡昇平(1909 明治42~1988 昭和63)は、また博学でも知られ、晩年に至っても好奇心旺盛で、ドゥルーズあたりも読んでおられたようだし、映画もよく観てらしたし(ルイーズ・ブルックスの熱烈なファンだった)、ニューミュージックも(歌謡曲ではなくて)お好きだったようである。
 だから上段に構えた論考よりむしろエッセイや座談が面白かったりもするわけで、その一端は埴谷雄高との対談『二つの同時代史』(岩波現代文庫)でも存分に伺えるのだけれど、そういった「本業以外の仕事」のうちで、とりわけ面白いと世評高いのが『成城だより』なのである。
 成城からの便りなんつったら、なにやら紀行文のようだが、ありようは日記である。東京は世田谷のあの成城だ。ご本人がここに住んでいらした。むろん高級住宅地だ。
 仰ぎ見るような大作家に対してイヤミをいうわけではないが(いややっぱりイヤミかな……)、大岡さんは終始「反体制」の立場を貫いておられたけれど、「戦後日本」の豊かな果実はたっぷりと享受しておられたわけである。そういう方はもちろん他にもたくさんおられ、というか、ニッポンが目に見えて「右旋回」する90年代末くらいまではそれがふつうの「文化人」のスタイルですらあって、その件はけっこう冗談ぬきで考察に値するテーマだと思うが、本筋ではないのでまたの機会に。
 ともあれ、『成城だより』だ。
 1981、1983、1986年の3年間……だからまさしくバブル前夜からバブル勃興の真っただ中にかけて、ってことになるわけだが、1年分ずつ「文學界」に連載された。連載当時から「むちゃオモロイ」とブンガク業界じゃあ話題だったようで、ぼくは当時、ギョーカイとはなんら関係なかったけども(いや今でも関係ないが)、それでもなんだか色んなところでタイトルを耳にした気がする。
 「文學界」は文藝春秋社のやってる純文芸誌なんで、単行本はそれぞれⅠ、Ⅱ、Ⅲの3分冊で文藝春秋から出た。そちらが品切れになってから、上下2冊となって講談社文芸文庫に入った。その電子版をいま読んでるわけである。
 いやまあオモロイ。たしかにオモロイ。聞いてた以上にオモロイ。
 大岡さんは、上記のとおり富永太郎(1901 明治34~ 1925 大正14)と親交があり、この富永は、近代日本を代表する詩人のひとりなのだが生没年をご覧になればお分かりのごとく夭折のひとだ。この若さで身罷っていながら「近代日本を代表する詩人のひとり」になりえたというのは、富永が天才だってこともあるし、およそ「近代日本」なるものが、その内面においてそれだけ「若かった」ということでもあろう。
 でもって、大岡さんはその富永の全集の編纂をライフワーク(の一つ)にしておられ、またもうひとり、これも「近代日本を代表する詩人のひとり」で、深い親交のあった中原中也(1907 明治40~ 1937 昭和12。こちらも夭折だ)のことも執拗に調べ続けておられて、その両者への50年ごしの「こだわり」が、この浩瀚な日記を統べる一本の太い縦糸になっている。
 青年の頃の友人たちを終生にわたって思い続けるなんて、それだけでアツい。むろん彼らが並外れた才能の持ち主だったからなんだけど、それだけではない。
 といって、いまの若い人はそんな「文学マニア」っぽい話に興味はないか。いや、その手の話ばかりが延々と書き綴られてるわけじゃなく、中島みゆきの名も出れば、「地獄の黙示録」についてのちょっとした考察もみえる。
 いっぽう、『なんとなく、クリスタル。』や、村上龍、村上春樹といった名前はまったくみえない。これは本当に関心がなかったのか、いちおう目を通しはしたが何らかの配慮の上で記述を避けたか、たぶん前者だろうとは思うのだが、じっさいのところは不明である。
 つまり、当時すこしずつ、しかし如実に始まっていた「文壇」の流動化についての意識は希薄で、だからとうぜん「サブカルチャー」全般への気配りってものも伺えず、いわば散発的な興味に留まっている。そこはやっぱり明治生まれの作家だなあと思わせられるが、ま、当たり前っちゃあ当たり前の話だ。
 いっぽう、いわゆる正当な純文学や文芸評論、学術書、歴史の本、さらにミステリーなどは貪婪に読みまくっておられるし、「物語論」についての考察も深くて(大岡さんは漱石研究でも有名で、オフィーリア・コンプレックスを公言してもおられた)、身辺雑記のなかに織り込まれた読書ノートをたどってるだけで、べらぼうに刺激されるし、勉強にもなるのであった。
 近現代の日本を代表する「日記文学」のひとつであることは疑いないし、戦後日本の最良の知性(のひとり)が残したバブル期の知的記録としても貴重なものに違いない。これに「影響を受けた」なんて言ったら僭越のそしりは免れぬのだが、まあ「触発された」というか、いや結局はおんなじか……ともかく、こんな感じで自分なりになんか書けたらいいなー、てな気分で、「雑読日記。」なるカテゴリーを新設したりなんかしちゃったわけである。



教養って何? 02 生きた歴史をまなぶ

2017-10-26 | 雑読日記(古典からSFまで)
 大岡信さんの『折々のうた』(岩波新書)全19巻は、いわば言葉の宝石箱だ。「教養」を育むには、こういう本に親しむに如(し)くはない。しかし、このせわしない現代社会にあって、終日(ひねもす)ただうっとりと、古典美の優雅な世界に耽溺してはいられないのも自明である。そう思えば、一冊の豊かな本を心ゆくまで読み耽るのは、東京ディズニーリゾートで朝から晩まで愉しむよりも贅沢なことかもしれない。
 日々のたつきを得るため出勤する。電車に乗ればすし詰めだし、車で行けば朝っぱらから渋滞だ。もちろん、勤め先に着いた後には、さらに苛酷な時間が控えている。仕事も8時間では終わらない。サービス残業が前提だ。消費税は上がる。物価も上がる。しかしこちとらの給料は据え置き。暮らしはどんどん苦しくなる。政治家たちは底知れぬほど無能で、笑えないドタバタ喜劇に明けくれている。この国はいったいどうなるのか。
 時間がない。カネもない。精神的なゆとりも乏しい。こんな日々のなかでなお、わずかな隙間を縫うようにして、教養を磨くためにはどうすればいいか。これもまた、今回のシリーズの主題である。
 教養の礎(いしずえ)は言葉(母国語)だ。ことばは文芸作品においてもっとも鮮やかに働く。だから古典から近代から現代まで、優れた文学はなるべく読んでおきたい。ただ、詩歌や小説ばかり読んでても、それだけで教養が身につくわけではない。
 次にたいせつなのは、歴史を知ることではないか。
 歴史といえば、わが国の戦後教育は一貫して近代史をまともに生徒に教えず、サザンの桑田佳祐がそれを揶揄して(もしくは嘆いて)歌ってるくらいだ。すこしまえ、ETVで「さかのぼり日本史」という企画があったが、本来はあれが、歴史を学ぶ態度だろう。そう思うと、文科省の制定している受験用のお勉強ってものがいかに貧しいものかがわかる。いや、内容が貧しいわけじゃない。ボリュームはたっぷりあるんだけれど、それを調理して学生に供する手際が拙(まず)すぎるのだ。わざと歴史をつまらないものに見せようとしてる気さえする。
 もっとも、「さかのぼり日本史」だって、「その時のもっともホットなトピック」(たとえば竹島問題とか)を取り上げ、「そこから問題の因って来る史実へと遡行していく」ものなんだから、万が一、文科省がこの方式を採用したって、そもそも学生の側が「ホットなトピック」に初めからなんの関心もなければ、これはどうしようもない。
 「好奇心」がなかったら、「学問」への取っ掛かりも生まれないのだ。
 しかし、裏返していえば、「好奇心」さえ生じたら、それは「学問」への、もっというなら「教養」への扉をひらく鍵を手にしたも同じってことになる。
 なぜアメリカはトランプ氏のようなひとを大統領に選んだのか。なぜIS(イスラミック・ステイト)は生まれたのか。なぜ日本は平和憲法をもっているのか。なぜ北朝鮮はミサイルに執着するのか。なぜ中国は民主国家ではないのにあれほど強くなれたのか。なぜ日本の政治(家たち)はこれほどまでにダメなのか。そもそも、なぜ日本はほぼ80年前アメリカと戦争を始めたのか。
 すべて学問への、教養への鍵だ。しかし、われわれの忙しすぎる日常は、それらのギモンを落ち着いて解きほぐすだけの時間を、なかなか与えてくれないのである。
 一般書籍で歴史を学ぶといえば、すぐに思いつくのは中公文庫のシリーズだ。『世界の歴史』は、むかし全16巻だったのをぜんぶ新たに書き下ろして全30巻となった。『日本の歴史』のほうは、よほどしっかりしたものだったらしく、約40年前のものが表紙を変え、詳しい「あとがき」を書き加えただけでそのまま出ている。全26巻。
 これらを図書館で借りて(財布やスペースに余裕があるならもちろん買って)頭から順に、あるいは、関心のある巻を中心に据えて読んでいく、というのがもっともオーソドックスな勉強法だろう。そのさい、カラー図版がふんだんに入った高校の授業の副読本がべらぼうに役に立つ。というか、これなしで字だけ読んでても、そりゃあアタマに入らない。
 印刷技術が格段に進歩してるから、眺めてるだけでも楽しい。amazonですぐ手に入る。だいたい1000円くらいである。
 そういう「図録」「図説」みたいなやつは世界史と日本史それぞれ一冊ずつ手元に置いといて損ではないとは思うが、しかし中公文庫の30巻+26巻併せて56巻は、とてもじゃないが読んでる間がない、とおっしゃる方も多かろう。
 ぼくもそうだ。いや古いほうの版は十数年かけて少しずつ読んでいったし、ことに日本史の「近代」以降は繰り返し読んだが、新しい版のほうの世界史は、まだ一冊も手に取っていない。
 じつはそういう向きにお勧めの文献がある。文藝春秋が年に何度か出してる臨時増刊「文藝春秋special」だ。季刊号とはいえ雑誌扱いなので、半年も経てば電子書籍で安く手に入る。
 最新号がこの8月に出た2017年秋号で、「世界近現代史入門」700円。
 3月に出た春号「入門 新世界史」が、なんと99円。
 2015年夏号「大世界史講義」が300円。
 2015年春号「大人の近現代史入門」が300円。
 ほかに中国を取り上げたものや、昭和史を扱ったもの、世界三大宗教にスポットを当てたものなどがあるが、なにしろ文藝春秋だから、どれもたんなるお勉強ではなく、「さかのぼり日本史」みたいに、その時点でのもっともホットなトピックに絡めて執筆・編集されている。面白い。
 忙しい現代人が「教養」を身につけるためには、こういうものを活用するのも手だと思う。




教養って何?

2017-10-22 | 雑読日記(古典からSFまで)
 前回の記事を書いて、「教養ってのは何だろう?」とあらためて思った。高校の授業で古文や漢籍の代わりにプログラミング言語を教えようかというこの時代、ぼくなんかの学生の頃と比べても、「教養」ということば(概念)そのものが変質してるのは間違いない。
 たぶん、もっとも初歩的な用例としては、「これくらいは知っとかないと恥ずかしい」ような事柄を指すんだろう。「社会人としての最低限の教養」みたいな使い方で、ほぼ「常識」ということばで置き換えられる。しかしこれではいかにも浅い。
 広辞苑第四版にはこうある。「たんなる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。」
 さすがに立派なものである。なるほど。「雑学」だの「豆ちしき」の集積ではないのだ。受験用のお勉強とも少し違う。それでクイズ王になれたり、ただちに東大に受かったりするものではない。
 もっと体系立っていて、より深く本質的なところで、それぞれの「世界観」や、さらにいうなら「人格」そのものにまで結びついている知見。それが本来の意味での「教養」だろう。
 だから例えば、「漱石は教養として読んどいたほうがいいよ」というばあい、「漱石くらいは読んでおかないと恥ずかしいよ」ではなく、ほんとうは、「君の世界観をより濃やかで奥深いものに練り上げるために、夏目漱石を読むことはきっと役に立つはずだよ」という含意が込められてなきゃだめなのだ。しかし、後のほうの意味で若い人たちにそんな助言ができる大人はどれくらいいるもんだろうか。それこそ「教養」の度合いが問われるところだ。
 いずれにしても、どうしたってプログラミング言語は「教養」とは呼べない。ただ、それじゃあやっぱり高校生には、そんな実用オンリーの技術ではなく、旧に復して、もっときちんと古文やら漢籍を教えよと主張するべきなんだろうか。なんだかそれも違う気がする。
 正直いって、ぼくみたいな本好きですら、10代のころに、教科書に載ってた古い文章が楽しくすらすらカラダに沁みこんできたわけではない。ましてやスマホ時代の今の学生たちにおいてをや。カラダに沁みこんでいかないようでは、「教養」にはならないんじゃないか。
 漱石もそうだが、文学にかぎらず、教養を身につけるうえで欠かせないのが「古典を読む」ことだ。近代政治学の始祖といわれる17世紀イギリスのホッブズ。日本では徳川幕府が盤石の封建体制を固めていった時期だが、先進国イギリスにおいては絶対王政が各層からの批判を受けて内乱によって倒され(ピューリタン革命)、そこで成立した共和制がすぐに行き詰まって王政復古~名誉革命を経て立憲君主制となる激動の時代であった(ただし名誉革命は1688=元禄1年、ホッブズは1679年に死去しているから、厳密にいえば名誉革命には立ち会っていないが)。
 自らもその激動に翻弄されながら生きたそのホッブズの主著「リヴァイアサン」(岩波文庫・全四冊)は、「万人は万人にとっての狼である。そんな《自然状態》の危うさは、各人が自己の権利を一人の主権者に譲り渡す社会契約によってのみ解消される。それが主権者としての国家である。ただし、国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」と要約できる。
 それから3世紀近くの年月がすぎ、凄惨きわまる第二次大戦を経てようやく国連が形を整えたけれど、これが今なお「世界警察」と呼ぶに足るほどのものでないのは周知の事実だ。厳密には、いまも「国家と国家との間は《自然状態》にとどまり、それを超える存在はない。」
 今日はたまたま衆院選の投票日だけど、北朝鮮や中国、さらにはとうぜんアメリカとの関係性を踏まえたうえで、平和憲法について改めて思いを巡らせるとき、ホッブズの遺した思索はなまなましく我々のまえに迫(せ)り上がってくる。今も新しく、なまなましく、未来においても新しく、なまなましい。真の古典とはそういうものだ。
 しかし、そのホッブズにしても、ぼくがそれなりにあれこれ経験を積んでこの齢になったからこそ凄さがわかるわけであり、高校の「倫理社会」の授業で習ったときは、ただの古いガイジンのおやっさんであった。
 だいたいにおいて、人間ってものは、10代の時分にはまだ脳ができあがっていない。これは比喩的なことではなく、生物学的・医学的にみて、じっさいに脳がまだ完全ではないのである。発達途上なのだ。藤井聡太くんなんかを見ていると、人(個体)によってはかなりのところまでいけるもんだなあと感服するが、それでも総じていうならば、未成熟なのは間違いない。
 まして、このネット社会である。ぼくが小学生のころ、万博を機に「未来学」というのがかるく流行ったけれど、どんなSF作家も、未来学者(?)も、このような社会をクリアに予見できはしなかった(小松左京さんなどは、いま読み返すと、作品のなかでワールド・ワイド・ウェブに近いイメージを断片的に提示しているが)。
 放っていても「情報」(有益なものから有害なものまでひっくるめて)が洪水のごとく向こうから勝手にどばどば押し寄せてくるこの時代、若い人たちにとって、ひいては社会人たるわれわれにとっての「教養」とは、はたしていかなるものであるのか。
 よくわからないなりに、自分なりに考えてみようと思い、新しくカテゴリを立ち上げた次第であります。



気になる日本語① 「世界観」

2016-08-12 | 雑読日記(古典からSFまで)
 べつに偏屈を気取るわけではなくて、正味の話、オリンピックに興味がもてない。
 まあ、この国のうえには一憶数千万もの人がいるのであるからして、ぼくみたいなタイプも、まるっきりの異端ってほどでもないと思う。
 もともとふだんはテレビを見ないのだけれど、ニュースだの天気予報だの、必要に応じてスイッチを入れる。NHKなど、一日の大半が五輪中継である。
 それに文句をつけるつもりはない。これはそういう趣旨の文章ではない。四年にいちどのことであり、次期に東京を控えていることもあり、盛り上がるのも当然だろう。
 というか、もともとテレビを見ないのだから、文句をつける筋合いもない。
 書きたかったのは、表題のとおり、コトバのことだ。
 開会のすぐ後だったか、たまたま付けたら、「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気感には特別なものがありますねー」というようなことを、アナウンサーが述べていて、これが気になった。競技の結果は気にならぬのに、こんなことが気になるのである。
 「空気感」という言い回しはいつごろから出てきたのだろうか。少なくとも、ぼくの子供の頃(昭和五〇年代)なら、間違いなく「空気」で済ませていたところだ。
 「現地に入ってみると、やはりオリンピックの空気には特別なものがありますねー」
 これでとくに問題はあるまい。「空気感」とは、たぶん広辞苑の最新版にも載ってないだろうから、つまりは造語ということになる。ただ、もちろんこの発言者の造語ではなくて、広く行きわたっている造語だろう。ぼくだって、ほかで耳に(目に)した覚えはある。
 ところで、この発言をしたのはアナウンサーではなく、スポーツ解説者であったかもしれない。もうひとつ、「オリンピックの空気感」ではなく、「リオの空気感」だったかもしれない。なにしろパッと付けて、すぐに消してしまったから、そのへんがアイマイである。
 これはけっこう大事なことで、国営放送のアナウンサーならば、日本語の使い方について相応の訓練を積んでいるし、マニュアルも与えられているはずだ。個人的な言語感覚だけで軽々しく喋ったりはできない。あくまでも一般人たるスポーツ解説者とはその点が違う。つまり、もしあれが実際にアナウンサーの発言であったなら、「空気感」という造語は、いうならば、「NHK公認」のものだってことになる。
 ただ、「空気」ではなくわざわざ「空気感」と称する気持もわからなくはない。「空気」というのは、「都会の空気は汚れている」といった具合に、「大気」の意味でも使うからだ。「リオの空気には特別なものがある」という言い方では、「リオの空気は東京ほどは汚れてなくて快適だ」という意味に取られるかもしれない(まあ、じっさいにそう取る人はほとんどいないとは思うが)。
 「空気感」は、われわれの周りに客観的/物理的に存在している「空気」ではなく、「雰囲気」なり「ムード」、そして、それを感じ取るわれわれの「感覚」そのものを指し示している。そのぶんだけ、行き届いた、念入りな言い方だとはいえる。
 ただ、「念入り」と「冗漫」とは紙一重である。また、「空気」に「感」を付ける造語法そのものにいささか無理があるようにも思える。このあたりはそれこそ個々の言語感覚に委ねられるところで、難しい。
 「空気感」で思い出したのは、「世界観」という用語だ。「空気感」とは違って、「世界観」という熟語は昔からあり、その点において造語ではない。ただ、昨今の使われ方を見ていると、あきらかに、従来よりも拡張/深化された意味を担っている。
 調べれば淵源を絞れるのだろうが、今回の記事は雑談であって論考ではないので、このまま筆を進める(正確にいえば「このままキーボードを叩く」だが、それだとどうも有難味がないね……)。
 ぼくの感じだと、今日の意味での「世界観」は、どうやらアニメ由来の用法だろう。「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」「エヴァンゲリオンの世界観」といった類いだ。
 ひとりの(複数による共同作業のばあいもある)アーティストがつくりあげた作品の総体を指して、「世界」と称する用法は古くからあって、むろん今でもよく使われる。個展の際に「モネの世界」「いわさきちひろの世界」「藤城清治 影絵の世界」といったタイトルを付けるのはしぜんなことである。
 あらためて繰り返せば、このばあいの「世界」とは、「特定のアーティストがつくりあげた作品の総体」である。
 しかし、数が多けりゃいいってもんではなくて、「世界」と呼ばれるからには、それ相応の大きさ、深さ、複雑さを伴っていなければならない。だから大抵、「誰それの世界」という「誰それ」の所には巨匠の名前が入る。むろん画家とは限らない。「黒澤明の世界」「手塚治虫の世界」「大江健三郎の世界」「ビートルズの世界」。どれも成立可能だろう。
 例外として、必ずしも「巨匠」というわけではないが、他とは明らかに一線を画した、ワン・アンド・オンリーの表現者に対しても、「世界」という用語は似つかわしいだろう。今ぼくがぱっと思いつくのは谷山浩子だ。あの不思議なシンガーソングライターの生み出す独特な作品の総体を呼ぶには、「谷山浩子の世界」という言い回しのほかに考えられない。
 いずれにしても、この場合の「世界」とは、「つくられたもの」、すなわち生成物である。箱庭をイメージするのがもっとも適切だろうか。音楽だの映画だのは「箱庭」ほど明瞭な実体を伴わないにせよ、それが「生成物」であることに変わりはない。
 いっぽう、「世界観」は「生成物」ではない。「観」なのだから「モノの見方」である。
 「誰それの世界観」とは、「誰それのつくりあげた作品の総体」ではなく、「誰それによる世界の見方」なのである。
 同じようでもまったく違う。「世界」というのはこのばあい、誰かの作った箱庭ではなく、われわれが生きて生活しているこの世界そのもののことになる。むしろ、「社会」といったほうが正しいかもしれない。
 そのような意味での「世界」や「社会」が、われわれの主観を離れて客観的/物理的に「存在」しているかどうかというのは極めて哲学的な問題だけれど、話がややこしくなるのでそのことは置く。「世界」や「社会」は客観的/物理的に「存在」する。そう仮定して、さて、その「世界」なり「社会」を、誰それはどのように観て(捉えて)いるのか。
 「世界観」とはそういう含意だ。
 今ちょっとネットで調べたら、こんな定義が見つかった。
「世界およびその中で生きている人間に対して、人間のありかたという点からみた統一的な解釈、意義づけ。知的なものにとどまらず、情意的な評価が加わり、人生観よりも含むものが大きい。」
 けっこういい線いってるんじゃないか。つまり、「世界認識」と言い換えてもいいんだろうね。「誰それがつくった作品群」ではなく「誰それによる世界の見方(認識)」、それが「世界観」なのである。
 いまどきの「世界観」という言い回しに、ぼくはつねづね違和感を覚えているのだけれど、その最たる理由がこれだ。
 「宮崎駿の世界観」は、「宮崎駿による≪世界の見方≫」なのだ。これはまだいいとして、「エヴァンゲリオンの世界観」は「エヴァンゲリオンによる世界の≪見方≫」である。何のこっちゃ。あの乗り物なのか生物なのかも定かならざる巨体が、どのように「世界」を見ているかなんて、わしゃ知らんぞ。
 これはまあ、「作者たる庵野秀明が、≪エヴァンゲリオン≫という作品を介して≪世界≫を観て(捉えて/描いて)いるその方法」というふうに翻訳可能ではあるけれど、こうなるともう、「世界観」という熟語は、はっきりと誤用されているといっていい。
 もし仮に、「空気」を「空気感」と念入りに呼び変えるようなつもりで、従来の「世界」という用語を念入りに呼び変えたいならば、そこは「世界像」と呼ぶのが正しいはずだ。
 「宮崎駿の(創りあげた)世界像」。「細田守の(創りあげた)世界像」。「エヴァンゲリオン(という作品が表しているところ)の世界像」。
 これでなにか問題があるだろうか。
 もしくは、もっと明確に「作品世界」といったらいい。これならばまったく紛れはない。
 もちろん、「宮崎駿の世界観」「細田守の世界観」、そしてまた、「庵野秀明の世界観」という言い方が成立しないというのではない。「細田守は、あるいは庵野秀明は、ぼくたちの生きるこの現代社会を、どのように観て/捉えて/描いているのか?」という意味で、「世界観」という言い方を使うのはまったく正しい。
 たぶん、「世界観」という用語が今のような形で流通するようになった端緒は、そのように使われていたはずだ。
 ただ、あちこちで濫用されているうちに、本来なら「世界像」なり「作品世界」というべき際まで、「世界観」で賄われるようになり、そのまま定着してしまっている。
 あげくのはてに、近頃では、「尾崎世界観」とかいう芸名を名乗るひとまで出てきたらしい。なにがなんだかわからない。別にまあ、いいんだろうけどね。
 ともあれ、「世界観」の濫用および、「世界像」との混同は、現代日本語の用例として、ぼくがたいへん気になっていることのひとつである。
 これはたんに重箱の隅を突ついてるのではなくて、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられないのであった。
 気になる日本語はほかにもたくさん目につくので、また機会があれば書いていきたい。