本日は気分を変えてこの話題にしましょう。まえに『気になる日本語① 「世界観」』という記事をアップした。ついこないだのように思っていたが、確かめたところ何と5年前の2016-08-12。まことに月日の流れが早い。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/0f44950779a0f782ad23818123b76fa8
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この記事でも冒頭でオリンピックの話をふっている。なるほど。本来ならば2020年にやるはずだったのを1年遅らせたのだから、5年前の8月12日といえばまさにオリンピック真っ只中だったのだなあ。あの頃はもちろん、こんなことになるとは悪夢にも思ってなかったが。
それにしても、読み返してみたらこの記事、言ってる内容は正しいのだがどうも論の運びが回りくどい。今ならばもう少し簡潔に書けると思う。つまりは、「いま多用されている『世界観』という表現は、ほんらい『世界像』と称するべきだ。」と述べているのだが。
これを書いたときは、同様に「気になる日本語」を10項目くらいピックアップしていて、順次取り上げていくつもりだったが、折しも8月だったので、戦争の話に移ったためにそのままになってしまった。ぼくはブログを計画的にはやっていない。即興演奏に近いと思っているほどだ。気分しだいで二ヶ月くらいすっぽかしたりするし。
その10項目のメモはまだ残っているが、この5年のあいだに、それらぜんぶが霞むくらいに猛威を振るっているのが「~しかない。」や「~でしかない。」だろう。
ラジオを聴いてると、「リスナーからのメールやお便り」でこの言い回しを耳にしない日はない。「たくさんの感動を届けてくれて、アスリートの皆さんには感謝しかありません。」といった類いだ。内容も紋切り型なら表現そのものも紋切り型……なのだが、しかしもともと内容と表現とは不可分のものだから、つまりこのメールだかお便りだかを送った方は、紋切り型の思考にどっぷりと浸ってしまってるってことだろう。
むろん、この一文だけを以てその方の全人格を推し量るのは僭越なので、とりあえず「オリンピックに関しては」紋切り型の思考にどっぷりと浸ってるんだろうな、という話ではあるが、ただ、こういった「お上が推進し、全国民に強い同調圧力をかけてくる事案」に対してぼくたちがことのほか「紋切り型」に陥りやすいのは確かで、そこにひときわ注意喚起を促したいのである。
5年前の記事でも、
「重箱の隅を突ついているのではなく、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられない。」
と述べているが、この問題意識は今も変わっていない。コトバは社会の写し絵だ。言葉について考えることは、社会について考えることでもある。
「~しかない。」「~でしかない。」という表現は、使い手の趣旨としては「強意」だろう。「感謝しかありません。」とは、「とても感謝しています。」の意だ。
また「とても感謝しています。」は、「感謝でいっぱいです。」と言い換えられる。これは昔からある表現で、ぼくも好きだ。「感謝」というのは明るくて肯定的な言葉だから、洒落た編み籠に花束が詰まってるようなイメージがある。気持ちが弾む。
「~しかない。」は否定形なので、どうも弾まない。ぼくは五輪に大反対だし、「アスリートの皆さん」にも感謝どころか悪印象しか持っていないが(あ。いまオレも使ったな)、どうせなら「感謝でいっぱいです。」となぜ言わないんだろう、という疑問は残る。
まあ、「感謝でいっぱいです。」だと、すでに使い古されて陳腐化してると感じるからだろうね。でもぼくなんかは、今ならばかえって「感謝でいっぱいです。」のほうが新鮮に響くけどね。
この手の言い回しが流行るのは、出だしのころ、ちょっと目新しくて気が利いてる……ように映るから若い世代が濫用し、そのうちに、なんだかそちらのほうが当たり前みたいになって置換されてしまう……というパターンを踏んでのことが多いと思うが、「~でいっぱいです。」が「~しかない。」に置き換えられた理由というのは、社会心理学の面からみても、いまひとつよくわからない。
「強意」といえば、「~すぎる。」というのもあって、これも「気になる日本語」の筆頭株だが、こちらも大物だから別に記事を立てたほうがよさそうだ。ただ、「~すぎる。」は「素敵すぎる。」「爽やかすぎる。」といったように名詞や形容動詞に付くと共に、「嬉しすぎる。」のように形容詞にも付く。いっぽう、「~しかない。」「~でしかない。」は名詞か形容動詞にしか付かず、形容詞に付くことはない。その相違だけは書き留めておこう。
形容動詞といえば、2020年の5月に大阪府の吉村洋文知事が、緊急事態宣言の延長について、
「出口が見えなければ不安でしかない。出口戦略として、国が客観的な基準を示すべきだ。」
と記者会見の席で述べたのが印象に残っている。
ついでにいうと、大阪は全国に先駆けてかなり早くから「医療崩壊」に近い状況に陥っており、その主因の一つは、維新の会が政権の座に就いていらい「行政の無駄を省け」との号令のもとに公立病院・病床・医療従事者といった「医療的リソース」を削減したせいだといわれている。
だから吉村知事の発言は「どの口がいうか。」という感じなのだが、しかしこの人は(たぶん若くてハンサムだから)幅広い人気を博している。府民も市民もとことん甘い。この点においてもニホンの縮図となっている。事の本質を見ず、表層だけで好悪を決めるポピュリズム。
それはさておき、コトバの話に戻ると、ここでの問題は「不安でしかない。」である。「不安で(胸が/心が/頭が)いっぱいです。」という言い回しは昔からあるので、その裏返しとして、ここは「不安しかない。」でもよかったはずだ。
ところで、たいそうややっこしいのだが、「不安でしかない。」の「で」は、「不安でいっぱいです。」の「で」とは違うのである。「不安でいっぱいです。」の「で」は、手段・方法・道具・材料などをあらわす「格助詞」だ。
「バケツは水で一杯だ。」の「で」である。
いっぽう、「不安でしかない。」の「で」は、「不安だ」という形容動詞の「だ」が、「~しかない」に接続されて変化形をとったものである。前提として、「不安だ」という品詞は、名詞「不安」に終助詞の「だ」がくっ付いたものではなく、「不安だ」という形容動詞と見なすという文法上の取り決めがある。
「不安しかない。」と「不安でしかない。」は、たんに間に「で」が入ったわけではなく、「不安」(名詞)「不安だ」(形容動詞)と、品詞自体が別物になってるってことだ。
吉村知事のアレは、人気のある公人が公の場で発したものだから、わりと影響力があったようだ。以前ならば「不安しかない。」と言っていたであろう人が、「不安でしかない。」と言うようになった事例が増えたような気がする。あくまでも体感ではあるが。
ただ、「不安」とか「不安だ」はネガティブで暗い言葉だから、「~しかない。」との相性は悪くない。その点はまあ、いいんだけども、名詞だけでなく形容動詞も使えるぞってことになると、これがいよいよ拡張されて、「あそこでタクシーを拾えたのはラッキーでしかない。」といった具合になってくる。これはどうにも聞き苦しい。「ラッキーとしか言いようがない。」が正規の言い方だろう。
つまり「ラッキーでしかない。」は、見た目は同じでも、「不安でしかない。」とはまた違う出自の表現からの転用なのだ。そのことは、「ラッキーでいっぱいです。」という言い方がこのばあい成立しないことからも明らかだ。
このように、本来ならばいろいろと多彩な出自をもつ表現が、ぜんぶ一緒くたになってしまうと、日本語の表現がさらに貧しくなってくる。残念ながら、いまどきの流行りの言い回しは、日本語を豊かにするよりも、貧しくするほうに働くことが多いようだ。
むろん、この一文だけを以てその方の全人格を推し量るのは僭越なので、とりあえず「オリンピックに関しては」紋切り型の思考にどっぷりと浸ってるんだろうな、という話ではあるが、ただ、こういった「お上が推進し、全国民に強い同調圧力をかけてくる事案」に対してぼくたちがことのほか「紋切り型」に陥りやすいのは確かで、そこにひときわ注意喚起を促したいのである。
5年前の記事でも、
「重箱の隅を突ついているのではなく、コトバの乱れ、ひいては言語感覚の乱れは思考の鈍化に直結し、それがまた、全体としては文化の衰退に繋がっていくので、自分としては書かずにいられない。」
と述べているが、この問題意識は今も変わっていない。コトバは社会の写し絵だ。言葉について考えることは、社会について考えることでもある。
「~しかない。」「~でしかない。」という表現は、使い手の趣旨としては「強意」だろう。「感謝しかありません。」とは、「とても感謝しています。」の意だ。
また「とても感謝しています。」は、「感謝でいっぱいです。」と言い換えられる。これは昔からある表現で、ぼくも好きだ。「感謝」というのは明るくて肯定的な言葉だから、洒落た編み籠に花束が詰まってるようなイメージがある。気持ちが弾む。
「~しかない。」は否定形なので、どうも弾まない。ぼくは五輪に大反対だし、「アスリートの皆さん」にも感謝どころか悪印象しか持っていないが(あ。いまオレも使ったな)、どうせなら「感謝でいっぱいです。」となぜ言わないんだろう、という疑問は残る。
まあ、「感謝でいっぱいです。」だと、すでに使い古されて陳腐化してると感じるからだろうね。でもぼくなんかは、今ならばかえって「感謝でいっぱいです。」のほうが新鮮に響くけどね。
この手の言い回しが流行るのは、出だしのころ、ちょっと目新しくて気が利いてる……ように映るから若い世代が濫用し、そのうちに、なんだかそちらのほうが当たり前みたいになって置換されてしまう……というパターンを踏んでのことが多いと思うが、「~でいっぱいです。」が「~しかない。」に置き換えられた理由というのは、社会心理学の面からみても、いまひとつよくわからない。
「強意」といえば、「~すぎる。」というのもあって、これも「気になる日本語」の筆頭株だが、こちらも大物だから別に記事を立てたほうがよさそうだ。ただ、「~すぎる。」は「素敵すぎる。」「爽やかすぎる。」といったように名詞や形容動詞に付くと共に、「嬉しすぎる。」のように形容詞にも付く。いっぽう、「~しかない。」「~でしかない。」は名詞か形容動詞にしか付かず、形容詞に付くことはない。その相違だけは書き留めておこう。
形容動詞といえば、2020年の5月に大阪府の吉村洋文知事が、緊急事態宣言の延長について、
「出口が見えなければ不安でしかない。出口戦略として、国が客観的な基準を示すべきだ。」
と記者会見の席で述べたのが印象に残っている。
ついでにいうと、大阪は全国に先駆けてかなり早くから「医療崩壊」に近い状況に陥っており、その主因の一つは、維新の会が政権の座に就いていらい「行政の無駄を省け」との号令のもとに公立病院・病床・医療従事者といった「医療的リソース」を削減したせいだといわれている。
だから吉村知事の発言は「どの口がいうか。」という感じなのだが、しかしこの人は(たぶん若くてハンサムだから)幅広い人気を博している。府民も市民もとことん甘い。この点においてもニホンの縮図となっている。事の本質を見ず、表層だけで好悪を決めるポピュリズム。
それはさておき、コトバの話に戻ると、ここでの問題は「不安でしかない。」である。「不安で(胸が/心が/頭が)いっぱいです。」という言い回しは昔からあるので、その裏返しとして、ここは「不安しかない。」でもよかったはずだ。
ところで、たいそうややっこしいのだが、「不安でしかない。」の「で」は、「不安でいっぱいです。」の「で」とは違うのである。「不安でいっぱいです。」の「で」は、手段・方法・道具・材料などをあらわす「格助詞」だ。
「バケツは水で一杯だ。」の「で」である。
いっぽう、「不安でしかない。」の「で」は、「不安だ」という形容動詞の「だ」が、「~しかない」に接続されて変化形をとったものである。前提として、「不安だ」という品詞は、名詞「不安」に終助詞の「だ」がくっ付いたものではなく、「不安だ」という形容動詞と見なすという文法上の取り決めがある。
「不安しかない。」と「不安でしかない。」は、たんに間に「で」が入ったわけではなく、「不安」(名詞)「不安だ」(形容動詞)と、品詞自体が別物になってるってことだ。
吉村知事のアレは、人気のある公人が公の場で発したものだから、わりと影響力があったようだ。以前ならば「不安しかない。」と言っていたであろう人が、「不安でしかない。」と言うようになった事例が増えたような気がする。あくまでも体感ではあるが。
ただ、「不安」とか「不安だ」はネガティブで暗い言葉だから、「~しかない。」との相性は悪くない。その点はまあ、いいんだけども、名詞だけでなく形容動詞も使えるぞってことになると、これがいよいよ拡張されて、「あそこでタクシーを拾えたのはラッキーでしかない。」といった具合になってくる。これはどうにも聞き苦しい。「ラッキーとしか言いようがない。」が正規の言い方だろう。
つまり「ラッキーでしかない。」は、見た目は同じでも、「不安でしかない。」とはまた違う出自の表現からの転用なのだ。そのことは、「ラッキーでいっぱいです。」という言い方がこのばあい成立しないことからも明らかだ。
このように、本来ならばいろいろと多彩な出自をもつ表現が、ぜんぶ一緒くたになってしまうと、日本語の表現がさらに貧しくなってくる。残念ながら、いまどきの流行りの言い回しは、日本語を豊かにするよりも、貧しくするほうに働くことが多いようだ。