ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

期間限定記事・第164回芥川賞発表まぢか

2021-01-20 | 純文学って何?


 今回の芥川龍之介賞、候補作は以下のとおり。


宇佐見りん「推し、燃ゆ」(『文藝』2020年秋季号/河出書房新社)初
尾崎世界観「母影」(『新潮』2020年12月号/新潮社)初
木崎みつ子「コンジュジ」(『すばる』2020年11月号/集英社)初
砂川文次「小隊」(『文學界』2020年9月号/文藝春秋)2回目
乗代雄介「旅する練習」(『群像』2020年12月号/講談社)2回目


 毎回ぼくが参考にさせて貰っている「西日本新聞」の文化部記者による座談会は、今回なぜか大学の先生お二人による対談書評となっていた。おおよその雰囲気はわかったものの、すこし物足りなかったので(失礼)、さらにネットを探したところ、決定版ともいうべきサイトを発見。




QJWEB クイック・ジャパン・ウェブ
https://qjweb.jp/feature/46167/





 ライター・書評家の杉江松恋、翻訳家(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業のマライ・メントライン(ドイツ人/女性)両氏による書評。こちらも対談形式だが、紙幅に余裕があるのでボリュームたっぷり。この記事を読めば5本の候補作について大体のところがわかる。
 ほかのサイトもざっと拝見したのだが、宇佐見りん「推し、燃ゆ」の評判がすこぶる良い。最有力といっていいかと思う。
 例えばこちら

R ea l Sound
第164回芥川賞は誰が受賞する? 書評家・倉本さおりが予想
https://realsound.jp/book/2021/01/post-693465.html





 この記事の中で倉本さんは、
「2010年代の芥川賞は30代~40代の、もはや中堅と呼ばれていてもおかしくなさそうな顔ぶれが集まることが多かった印象ですが、ここ数年はばらつきがあり、“新人”のイメージが強い書き手の選出が目立ちます。例えば今回でいえば、宇佐見さん、木崎さん、砂川さんの3名が90年代生まれ。同日に発表された直木賞は、全員が初ノミネート作家です。これは単純に話題性で選んでいるということではなく、同時代の感覚を切り出せるような作家が求められている結果なんじゃないかと思います。」
 と述べておられる。
 このことは、上記の記事の中でマライさんが、
「特に若い世代の書き手の「才気爆発」ぶりが印象に残りました。翻って言えば、批評界を含む読者の側が、従前の読み方のままでいいのか?という問題を突きつけられているようにも感じます。自分自身、候補作に「すごい!」と感じても、そのポテンシャルを果たしてどこまで汲み取れたのか、不安なのが正直なところです。
(……中略……)いま文芸業界は、そもそも「狭義」の文芸的な枠組をはみ出す作品の価値を捉え切れて(あるいは、うまく紹介し切れて)いない気がします。これは各文化ジャンルのタコツボ化やその中での情報過多といった要因により、ある意味仕方ない、一朝一夕ではどうにもならない話ではあるけれど、(……中略……)業界横断的で強力な審美眼・分析力を持つタイプの別ジャンル有識者の見解の掘り起こしによって、そのへんはある程度対応できるのかもしれない。そして文芸(eminus注・ここははっきり「純文学」といったほうがいいかと思う)の価値や定義そのものの拡大や、市場(eminus注・もちろん、純文学全般の売り上げのことである)の盛り上げを図れるのかもしれない、という感触を得ました。逆に、業界特化的な有識者の単機能っぽい見解を持ってきちゃうと、マズいかもしれない。
これは今後の文化的プロモーション全体に当てはまる話のように思えます……その結果、我々は候補作の順位づけに、より一層苦悩することになるでしょうけど(笑)。」
 と述べておられることとも密接につながってくるだろう。




 今回ノミネートされている尾崎世界観(ロックバンド「クリープハイプ」)、さらに直木賞のほうの候補者・加藤シゲアキ(アイドルグループ「NEWS」)といった異業種作家の方々についても(ちなみに直木賞では2017年に「SEKAI NO OWARI」の藤崎彩織も候補になっている)、けしてたんなる商業主義ってことではなく、倉本さんやマライさんが指摘する文脈において捉えるべきだろう。「純文学」もまた、サブカルはもとより、SNSなどの影響を受けて、否応なしに変質しつつあるわけだ(それでもなお「純」を名乗り続けられるか否かは議論の分かれるところかと思うが)。








 



再掲載 追悼・古井由吉

2020-09-29 | 純文学って何?
 「note」に移して削除しちゃった古井由吉さんの記事に、どういうわけか今になってアクセスが多いようで……。「記事がありません。」って表示が出て、無駄足になるんで申し訳がない。自分で書いたものなんだから別に差支えはないし、こちらにも再掲載しましょう。そのままコピペも芸がないので、少し書き足しておきます。

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dig フカボリスト。


e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。



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 こんにちは。e-minorです。

 digです。

 いや古井由吉さんがお亡くなりになってたんだね。ぜんぜん知らなくて、いま軽くショック受けてるんだけど。

 今年の2月18日だってな。

 ちょうどコロナ禍が広がってた頃だ。こちらのアタマもそっちのことでいっぱいだった……。なにしろ新聞とってないし、テレビも見ないからなあ……。そういう生活になって随分になるけど、今回初めて支障をおぼえたよ。

 なんで今になって知ったんだ?

 面白いツイートを見つけたんで、その人の投稿を遡ってたら、古井さんへの追悼の辞があった。それでネットを調べて、「ええっ。」てなもんだよ。ほんの2、3日前の話さ。digは知ってたの?

 おれもリアルタイムでは知らなかった。夏になる手前くらいだったかな。

 7月にdigと喋ったとき、大江健三郎さんの話になって、ぼくはこんなこと言ったよね。
「モダンうんぬんをいうなら、大江さんと同世代でもうひとり、古井由吉という巨匠がいる。お二人による対談集も出ているが、この方のばあい、デビュー作からすでに「私」が蜃気楼のごとく妖しく揺らめいていた。それはホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」(1902=明治35)に源をもつと思うけど、「私(近代的自我)」の揺らぎがすでに生理的な前提としてあるわけだね。今や古井文学は日本語の極限に挑むかのような境地に達しているが、大江さんと古井さん、このお二人によって現代日本文学の水準が達成されてきたとはいえると思う。このお二方が厳然として聳えておられるから、ほかの作家たちは自分なりの器に応じて好きなことをやってられるってところはあるよ。」
 あのときはもう知ってたわけ?

 知ってたし、そっちもそれを踏まえて喋ってるもんだと思ってた。

 そうかあ……それにしても、いちおうネットのニュースには毎日いちどは目を通してるんだけどなあ。現代日本文学最高峰の作家の逝去が、トップニュースのヘッドラインにも入らんとは……

 この国における文学の現状を如実にあらわしてるわな。

 そんなだからぼくも、ついアニメの話に傾いちゃうわけだ……いや日本のアニメは世界に誇れる文化だけどね、その一方、ことばでつくる芸術に対する取扱いがぞんざいすぎるよ。

 憤懣はわかったから、もうちょい建設的なほうに行こうか。

 言いたいことが多すぎると、何から喋っていいかわからず、かえって下らぬ話をしてしまうもんだよ……
 そうだなあ。
 まず、古井さんの文章の魅惑を伝える一助として、手元にある著作から、とりあえず2つ引用してみようか。これは夢の情景を叙したものだが……。
「……たとえば、静まりかえった虚空に柔らかな光が遍くひろがる。水が見える。山が染まる。日が浮んで、照り輝かずに、過剰な輝きをむしろ吸い集めて、光り静まる。水中から花が咲き、蝶が群れ飛ぶ。空を横切る鳥の頭がふと赤光を集め、山肌の色が変る……」
エッセイ「湖山の夢」より
 もうひとつ。
「空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明かりが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。互いに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽くしたあげくに、どの話も禍々しさが足らず、もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を睨み据える。結局はだらけた声を掛けあって散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。」
短編「眉雨」より

 ……稠密だな。

 息苦しいほどにね。理知的でありつつ耽美的というか、知的であることが美的であることに直結してるんだな。これは良質の哲学者の文章にも似ている。しかしこういう文章が纏綿とつづくわけだから、古井文学を読むには、正直それなりの体力がいる。しかし、ひとたび憑りつかれると、金輪際抜けられないね。定期的に読み返さずにはいられぬし、新刊が出たと聞いたらそわそわする。

 本もけっこう持ってたろ、文庫で。

 福武文庫ってのが昔あってね。福武書店はベネッセと社名を変えて路線転換しちまったが、80年代には文芸部門に力を入れてたんだ。「海燕」という文芸誌も出してたし、単行本でユニークな海外文学を紹介してもいた。それは文庫もしかりで、福武文庫っつったら当時はなかなかのラインナップだったよ。代表作の『槿(あさがお)』『眉雨』『夜の香り』あたりが出ていた。ぜんぶ発売当日に買った。

 『槿』なんて、いま講談社文芸文庫でけっこうな価格つけてるよな。

 そこなんだよ。古井さんの著作で入手困難になったものは、おおむねあそこが拾ってるんだけど、講談社文芸文庫はとにかく高い。2000円以上付けてたりするでしょ。そりゃ絶版になるよりはだんぜん良いけど、やはり文庫の小説ってものは高くとも1000円までで買えないと、若い世代が手を出せないじゃん。いや若い世代のみならず、ぼくみたいな貧乏人も困る(苦笑)。

 それは採算の取れるだけの市場を形成してないってことで、結局はさっきの話に戻るわな。

 「純文学の衰退」っていう、当ブログ創設いらいのメインテーマに帰するんだけどね。出版史的な証言として、もう少し続けると、集英社文庫も古井作品をわりと出してたんだよね。『山躁賦』『水』『行隠れ』が出ているな。短編集『水』はぼくなんか20代の頃にどれだけ読み返したかわからない。『行隠れ』も大好きだ。「若い人に古井由吉をどれか一冊」といったらたいてい「杳子」が上がるんだけど(『杳子・妻隠』として新潮文庫に収録)、ぼくは『行隠れ』のほうを薦める。

 上に画像貼ったやつだな。こちらは単行本の表紙だが。そうか。初の長編だったのか。

 純文学であり幻想小説でありミステリでありサスペンスであり……いろいろな意味でスリリングな一作だよ。主人公の青年の、姉への思慕が根底にある。シスコン気味のぼくにとっては、その点でも蠱惑的だったな。ただし入手が難しい。「杳子」だったら文庫でも電子書籍でも読めるんだけど、こっちは絶版だからね。河出書房新社の「古井由吉自撰作品 1」に入っちゃいるが、4000円近い。まあ図書館かな。ただ、ネクラ(死語?)っていったらこれほどネクラな世界もないんで、ライトノベルで育ったひとが生半可な気持ちで読んだら、おなかにもたれると思うけど。

 ライトノベルをポテトチップスだとしたら……

 脂身こってりのビフテキがいきなり前菜に出てくるフルコースっていうか。

 新潮文庫も『杳子・妻隠』のほかにいくつか出してただろ。

 『辻』だけは入手可能だが、ほかは残念ながら絶版だね。

 ……いや、いまスマホで確認してるけど、『櫛の火』『聖・栖(すみか)』『白髪の唄』『楽天記』と、ぜんぶ電子で読めるぞ。

 あっ、そうなのか。新潮社は頑張ってるな。それだけ需要もあるんだね。安心した。あと、文芸文庫じゃなく、ふつうの講談社文庫で出てた『野川』も電子書籍になってるね。600円ちょっとか。これならまあ……

 でも代表作とされる『山躁賦』と『仮往生伝試文』は文芸文庫でしか読めないんだな。

 そっちがなあ……。あ、でも『山躁賦』は電子になってるか。ただ『仮往生伝試文』は紙媒体のみで、価格が……

 税込み2200円。

 文庫の値段じゃないよなあ。

 まあ、どれか一作を読んで興味がわいたら、河出の「古井由吉自撰作品」を図書館で借りて順に読んでいくのが上策じゃないかね。

 でもやっぱり優れた作家はひとりでも多くの人に文庫で手元に置いててもらいたいんだよね。ぼくとしてはね。

 気持はわかるが、本の値段の話ばっかしてるのもどんなもんかね。なんかこのたびネットで「古井由吉」で検索かけて、いい記事を見つけたって言ってなかったか?

 そうそう。それを紹介しなくっちゃ。うん。Real Soundってサイトのなかの記事なんだけど、今年の3月10日付で、竹永知弘さんって方の一文なんだ。
https://realsound.jp/book/2020/03/post-519446.html
「古井由吉は日本文学に何を遺したのか 82年の生涯を新鋭日本現代文学研究者が説く」
 ぼくはこの竹永さんって方のお名前は初見だったんだけど、すばらしいねこれ。とても的確な紹介になってる。
 一部を(といってもメインの部分になっちゃうんだけど)抜粋させていただこう。では。





 50年に渡る古井由吉の営みを網羅的に説明することはむずかしい。ここでは作風の面から私流に4つに区分して、説明を試みようと思う。


①初期(1968年~1971年、代表作『円陣を組む女たち』『男たちの円居』)。
 デビュー作は、登山中の記憶喪失をめぐる短編「木曜日に」。小説家になる以前、古井はドイツ文学研究者としてロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホ、ニーチェなどの翻訳をおこなっており、その影響が濃いとされる一時期。「群衆の熱狂」や「共同体と個人」といったテーマを抽象的な物語内容と濃密な描写で追求する作品が多い。


②前期(1971~1980年、代表作『杳子・妻隠』『水』『櫛の火』『聖』3部作など)
 一定の物語性をもった作品が多く、入門するのにうってつけの時期だと思う(わたし自身がそうだった)。作家史的には、連作短編『水』や長編『櫛の火』のように古典的な物語風土に題材を借りた作品が多く、ドイツ文学由来の作風から抜け出そうという意思が見てとれる。連作や長編など、形式面の実験を積極的におこなった時期でもある。が、順風満帆であったわけではなく、のちのインタビューでは、この頃に「フィクションということに行き詰まった」と漏らしている。


③中期(1980年~1989年、代表作『山躁賦』『槿』『仮往生伝試文』など)
 そこで古井は自らの原点に立ち返り、ムージル的な「エッセイズム」の探求を開始する。このジャンル解体的な、かつ現在進行形の散文を古井は「試文」と呼んで概念化した。その結晶が連歌や説話、日記などを縦横無尽に引用しながら言葉がつむがれていく『山躁賦』と『仮往生伝試文』という記念碑的傑作である。変わりゆく文学状況のなかで、もっとも試行=実験を激化させた一時期だと言える。一方で「小説らしい小説」への「最後のご奉公」として書いたという『槿』も初期から続く「恋愛小説」の系譜の到達点として見逃せない。


④後期(1989年~2020年、代表作『楽天記』『白髪の唄』『野川』『辻』など)
 古井自身と重なる「私」が、老いや災害、記憶などについて思弁をめぐらす連作群。それぞれがすぐれた短編として成立していると同時に、たとえば単行本といった単位が消滅し、古井が書くすべてのものがひとつながりであるような境地に至っている。その中心にいるのは体を病み、老いた「私」。同じことを何度も繰り返し、執拗に書き続ける「私」の筆致は「私小説」というジャンルを抱えた日本文学全体の宿痾を明るみにしようとしている。


 以上、古井の試行錯誤のおおまかな見取り図である。「文学」の存立基盤をたえず問い直す、自壊さながらの実験の連続により「内向」という態度を貫いた小説家による作品の数々にふれるとき、わたしたちもまた「小説とはなにか?」を考えずにはいられない。自身の文学観をゆさぶってみたいと思うひとは、ぜひ手にとってみてほしい。




 引用ここまで。いやほんとに見事な紹介だ。ぼくとして付言すべきことはほとんどないな。この竹永さんは1991年生まれとのことで、つまりまだ20代ってことになるけど、こんな若い方が出てこられるのなら、この国の文化もまだ大丈夫かなって思う。

 後生畏るべしだよ。若い人で優秀なのは増えてるよ。おれたちの頃と比べて、多くの情報にアクセスしやすくなってることも大きいと思うが。

 ほんとにね。あ。いちおう念を押しとくと、『行隠れ』はもちろん②前期(1971~1980年)の作品だよ。

 今回はバナナフィッシュを中断して、急遽こういう話になったわけだが……

 でもさ、やはり文学ってものはみんなどこかで繋がっていて、上のほうで言った大江・古井両巨匠による対談集って『文学の淵を渡る』(新潮文庫)のことなんだけど、これを昨日改めて読み返してたら、ふしぎなくらい「バナナフィッシュ」に通底するところが見つかったんだよね。少しぼくのことばに変換するけど、「罪の暗い穴の底から抜け出して生還する」というイメージとか、あと、「生の営みのなかに自ずから死が混じりあっている」といったイメージとかね。「げに恐ろしきはブンガクなり。」って思ったね。

 晩期の古井文学はまことに生死が渾然となってる感じだった。たしかにあれが文学の神髄だと思う。哲学もそうだが、結局のところ文学ってのは「己の死」を僅かずつ先取りしていく営為じゃないか。そうすることで、かえって「生」の力を取り戻す。そうやってよろよろ歩いていくしかない。おれはそう思ってる。

 いい警句が出たね。それを〆のせりふにしようか。

 好きにすればいいさ。

 それでは、この談義を以って、当ブログとしての追悼の辞に代えさせていただきます。



第163回芥川賞受賞作決定。

2020-08-07 | 純文学って何?




 チャイナ・コロナの影響で調子がくるって、ほぼ一ヶ月遅れの話題になっちゃったけど、2020年上半期の芥川賞が決まりましたね。高山羽根子さんの「首里の馬」(『新潮』3月号掲載)』と遠野遥さんの「破局」(『文藝』夏季号掲載)』のW受賞。ちなみに直木賞は馳星周さんの『少年と犬』(文藝春秋)。馳さんがまだ直木賞取ってなかったのは意外だったけど、近年の直木賞は「中堅のエンタメ作家がしっかりしたリアリズムで重めの作品を書いた」ときに与えられるようですな。
 ともあれ、これで2010年以降の受賞作はこうなりました。






第163回(2020年上半期)- 高山羽根子「首里の馬」/遠野遥「破局」
第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」
第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」
第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」/町屋良平「1R1分34秒」
第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」
第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」/若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」
第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」
第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」
第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」
第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」/本谷有希子「異類婚姻譚」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/又吉直樹「火花」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」/田中慎弥「共喰い」
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし
第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」/西村賢太「苦役列車」
第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」






 石井さんの「百年泥」、若竹さんの「おらおらでひとりいぐも」、さらに高橋さんの「送り火」も今年になって文庫化されましたね(電子版もあり)。ぼくもなるべく早く読むようにしよう。
 今回も、西日本新聞の文化欄が座談形式で寸評をやってたんで、アドレスを貼っておきましょう。




◎芥川賞、記者が選んだ作品は? 候補作読み比べ座談会
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/626283/





第163回芥川賞候補作品のあらすじ


 ▽石原燃「赤い砂を蹴る」
 母の死を機に、千夏は母の友人の芽衣子とブラジルを旅する。芽衣子も夫と義母を亡くし喪失感を抱える。赤い砂が広がる芽衣子の母国で、2人は「家族」とは何かと思いを巡らせる。


 ▽岡本学「アウア・エイジ(Our Age)」
 学生時代に映画館でアルバイトをしていた40代の私は、再訪した館で当時心を寄せていた同僚ミスミが持っていた写真を見つけ、塔だけが写された奇妙な写真と彼女の謎を探っていく。


 ▽高山羽根子「首里の馬」
 沖縄の郷土資料館で資料整理を手伝う未名子は、外国人にオンラインでクイズを出す不思議な仕事もしている。ある朝、庭に迷い込んだ宮古馬と出合い、その世界は変容していく。


 ▽遠野遥「破局」
 元ラガーマンで三田の大学の法学部に通う陽介は、公務員試験の勉強の傍ら筋トレに励む。社会正義を求めつつ彼女とのセックスに溺れる彼の人生の歯車は、ある「過ち」により狂う。


 ▽三木三奈「アキちゃん」
 小学5年時、わたしとアキちゃんはクラスで親友と見られていたが、わたしは二面性のあるアキちゃんが大嫌いだった。日々憎しみを募らせる中、アキちゃんもある苦悩を抱えていた。






 高山さんは三度目で、遠野さんは初の候補だったとか。この下馬評では「総合力では高山さん。」「発想も構成もレベルが違う。」「コロナ感染拡大前に書かれた小説なのに、ポスト・コロナを感じさせる。」と、みんなして高山さんをイチ推し。記者さんさすがって感じですけども。
 ただ、いっぽうの遠野さんの作品については、ここでの評価は高くない。だけど「女性に心を配りつつセックスには絶倫系で、良識と社会正義を併せ持ちながら変態的性愛、暴力的純愛までをも内に秘めている。新時代のマッチョ像にニヤリとさせられた。」とあるので、本選では、そのあたりの新しさを買われて受賞に至ったのだろうか。
 ここでは遠野さんより岡本さんのほうが高評価な印象。寸評とあらすじを読むかぎりでは、ハルキ・タッチを自家薬籠中の物として、そこに自分なりの味を加えた……という感じだけど、選考委員たちはどう評価したのかな。文藝春秋読んでないんでわかりませんけど。
 これも初候補の石原燃さんは、中上健次とも親しかった作家・津島佑子さんの娘。すなわち太宰治の孫。太宰と芥川賞との因縁は有名で、又吉さんの受賞のさいに太田光がネタにしてたほど。津島さんも実力派で、大きな文学賞をいくつも取っているうえに、3度にわたって候補になったのに、芥川賞だけは取れなかった。三代にわたって芥川賞に絡むというのは他に例がないけれど、さて、次回以降はどうなるか。
 こうやって五作並べて「とりあえず一つ選べ。」と言われたら、やはり「首里の馬」をまず読みたいなって感じはしますね。








深掘り談義 すこしだけ、大江さん。

2020-07-21 | 純文学って何?




 dig フカボリスト。「毒舌上等!」がモットー


 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。digより気が弱い




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 どうもdigです。


 e-minorです。


 なんだこの「たまらなく、アーベイン」みたいなサブタイトルは。


 あー、田中康夫さんのエッセイ集な。あれもバブルを体現するような一冊だったけど……


 レコード・ガイドだ。最近になって復刊されたぜ。菊地成孔の推薦文付きで。


 へえ、そうなのか。当時は「アーベイン」の意味がわかんなくてねえ。


 それで今日は何なんだ。「バナナフィッシュ」の続きはやんなくていいのか。


 その前にちょっとね。前回の記事をアップしたあとで、大事なことを言い落したのに気付いた。


 それが大江健三郎のことってわけかい。


 うん。akiさんからいただいたコメントのなかの、「文学の大目的とは、アイデンティティの探究」って話ね、あれがたいへん示唆的だったんだけど、ぼくはその「アイデンティティ」を「自我」さらには「私」と読み替えて、「中上健次いこう、村上龍・村上春樹あたりから、文学はそれまでの『近代的自我』を手放すようになってきた。」というようにお答えしたわけだ。


 いや違うだろ。龍だのハルキだのって名前は出てなかったぞ。


 まあそうだな。そこもついでに補足しとくわ。とにかく、70年代末から、80年半ばのそれこそバブル期にかけて、「文学」は漱石・鴎外以来の課題であった「私=近代的自我」から離脱していくようになった。今日におけるアニメやライトノベルの……つまりは「物語」の隆盛にしても、たんにエンタメ業界内部のジャンル的な成熟ってだけではないんだ。より高次もしくは中枢にあると思われていた「(純)文学」の側でそのような激動が起こったために、「物語」がいわば暴走しはじめたわけだよ。


 ようするにそれはポストモダンってことだろ。前回聞いててそう思ったよ。めんどくさいんで言わなかったけど。


 いやそういうことは思ったときに口添えしてくれよ。


 けど高度成長期が過ぎて生活が豊かになってモダン(近代)が終焉したからポストモダンがはじまったなんて、ほとんど同義反復だからな。いちいち口に出すまでもなかろうぜ。


 うん。それでしばらくのあいだ「なんとなく、クリスタル」「たまらなく、アーベイン」とわがニッポンは浮かれてたわけだけど、それからバブルが弾けて失われた10年があって平成大不況があって、こういう状況が来てみると、『日本の同時代小説』(岩波新書)の斎藤美奈子さんなんかが、「いまいちどブンガクは『個』を確立して『社会』と向き合うべし。」みたいなことをおっしゃるわけだ。


 みんなが貧しくなったから「近代(モダン)」の課題が復活してきたってのも、これまた同義反復だよ。それ自体は退屈な話だ。だがこのご時世、若くて文才のある連中はよっぽどのことがなければ純文学になんか向かわんだろう。「近代(モダン)への回帰」とはいっても、それはかつての「近代(モダン)」とは違う。情報化された高度資本主義ってものができあがってるんだから、カネに結び付くほうへ流れていくのが当然だ。


 ライトノベルを書いて、それがメディアミックスされて売れれば、そりゃ純文学よりカネにはなるよね。


 かくして当該ジャンルはますます爛熟していくだろう。しかし、そんな現状を指して「ラノベやアニメのほうが純文学の先を行ってる。」と言ってのけるのは荒っぽすぎたぜ。これも前回聞いてて思った。めんどくさいんで言わなかったけど。


 それはジャンルの総体として「先へ行ってる。」と言ったんだよな。ラノベ作家ひとりひとりの力量が純文学作家のそれを上回ってるってことじゃないよもちろん(笑)。たとえば宮崎駿とか高畑勲とか富野由悠季とか押井守とか細田守とか新海誠といったビッグネームはいるにせよ、そもそもサブカルチャーにどこまで「作家性」が求めうるか。もちろん個々のラノベ作家にコアなファンが付いている、ということはあるかも知れぬが、それがもしアニメ化された作中キャラへの「萌え」に起因するものだとしたら、その熱狂は当の作者だけの手柄かどうか疑わしい。ましてやアニメなんてのは監督ひとりの手でできるものではないし。


 だいたいの流れはわかった。いってみりゃ書き手と読み手との関わり方の話だな。「私」というテーマに即していうならば、一人称語りの「私」ないし「僕」に対して読み手を強く感情移入させる、というのは今もなお純文学に残された数少ない強みの一つだわな。それも、作中の「僕」と書き手(作者)自身とがダブッてくりゃあいよいよもって効果は増す。


 うん。村上春樹があそこまで支持をあつめる理由の一つは、韜晦を重ねて高度に虚構化されたものとはいえ、基本的に「僕」という一人称で書くせいだし、又吉直樹の『火花』にしても、「…………徳永と相方は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。」なんて冒頭だったら興ざめだろう。これ、だれが語っとんねん、という感じになる。徳永と又吉さんとはずいぶん違うけど、読んでるほうは、やはり「僕」の背後に芸人・又吉のあの戸惑ったような笑顔を思い浮かべつつ作中に引き込まれていくわけだから。


 わかったから、そろそろ大江の話をしろよ。


 うん。まさに大江健三郎こそ、日本の現代小説における「僕」の淵源というべきひとだ。東大在学中のデビュー以来ずっと、基本的には「僕」の作家だった。1957(昭和32)年に『東京大学新聞』に掲載されたそのデビュー作いこう、2013(平成25)年発表の「最後の小説」たる『『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』まで、1994(平成6)年のノーベル賞をはさんで50年近くにわたって営々と続けられたその文業のなかで、あのひとは「僕」を途方もなく豊かなものに育て上げた。


 そのことは前にもブログに書いてたよな。なんかぐちゃぐちゃ読みづらい文章なんで、さっと流し読んだだけだが、大江のことはこれまでたびたび書いてるだろ?


 うん。「純文学」における「私」という大事なテーマをakiさんから提示されたのに、それくらい心酔してる大江さんのことを書き漏らしたんで、こうやってdigをまた呼んだんだ。


 こっちはいい迷惑だぜ。で、それは失念してたのか? あえて口にしなかっただけか?


 まるっきり失念してた。あとで自分でびっくりした。


 それはあれだろ、前半で軍事がどうのって話をやったからだろ。ああいう話題ほど大江文学から隔絶したものはないからな。


 そうか。アタマの切り替えができなかったのか。digは大江さんが苦手なんだよな。


 だからそこだよ。軍事の話をしたらアタマからすっ飛んじまうような作家だから苦手なんだ。それはおれがこの国の「戦後民主主義」を苦々しく思ってるのと同じことなのだ。


 だけどそれは、裏返せば、すごく認めてるってことでもあるよね。いうならば、ニッポンの戦後精神そのものだと見なしてるわけでしょ。


 戦後精神というか、中国がここまで台頭してくる前の、古き良き時代のニッポンの象徴だな。しかし一方、そんな括りでは収まりきらぬ偉大な作家だとわかってもいる。しかしその偉大さはこの国の戦後民主主義のなかでこそ涵養されたものなのだ。このあたりの絡み合いがうまい具合に解析できなくて苛々する。個々のテキストを単体でピックアップして深掘りしていけば、もっと具体的なことが言えるがね。


 「私」ないし「僕」の話に戻ると、デビュー当時の大江さんの「僕」は東大生とはいえアルバイターであり苦学生であり、しかも「死」に対する蠱惑めいた恐怖に囚われ続けるちょっとアブない青年だったわけだね。時代背景は1960(昭和35)年の安保闘争前夜から、まさに「政治の季節」へと突入していく頃だが、「僕」はどこにも帰属先を見出すことができず、いかにも寄る辺ない。


 そのあたり、「バナナフィッシュ」のシーモアと通底するな。


 うん。たしかに似てるね。年長の旧友でもありのちに義兄ともなる伊丹十三(伊丹氏の妹が大江さんの伴侶)をモデルにしたクセの強い青年とバディ(相棒)を組むことはあっても、初期大江文学の「僕」はいかにも社会の中で孤立……とうじの用語でいえば疎外……されている印象がつよい。そんな青年が作家としての地位を固めるなかで結婚し、障害をもつ息子が生まれて「父」としての責任を引き受けることで少しずつ成熟=成長していく。


 家長になってくわけだな。それも自覚的に。


 いっぽうで世界および日本の正系につながる大きな文学への親炙も怠りなく、最先端の思想や理論も自家薬籠中のものとして、その作品は世界文学へとまっすぐに連なる普遍性を獲得していく。


 そのぶん作品が知識人くさくなってきて、一般の読者がだんだん離れていくんだけどな。


 その壮大な軌跡は2018(平成30)年に刊行のはじまった『大江健三郎全小説』全15巻によってつぶさに辿ることができるわけだけど、それはそのまま大江的「僕」の歴史でもあるんだ。家族との営みを中心に据えて、もろもろのしがらみや雑事を含めた実生活と、巧緻につくりこまれた虚構とを綯い交ぜにして、ときには自作そのものへの批評も取り込みながら、大江さんがほぼ半世紀をかけて育てあげた「僕」の奥行きと厚みと複雑さは、世界全体を見わたしても、20世紀のあらゆる作家の中で最高のものだ。そのことはぼくのすべての知見を賭けて断言できる。ノーベル文学賞選考委員の目は確かだった。これは前にも書いたと思うけど、あらためてこの機会に言っときたかったわけだ。


 それを言うのにいちいちおれを召喚せんといかんのか。さっさとeminusに復帰してもらえ。


 まあまあ……(笑)。


 でもそれは、最初の話に戻っていえば、大江健三郎は「ニッポンの近代(モダン)の最後の作家」ってことだからな?


 たぶんそういうことなんだろうね。モダンうんぬんをいうなら、大江さんと同世代でもうひとり、古井由吉という巨匠がいる。お二人による対談集も出ているが、この方のばあい、デビュー作からすでに「私」が蜃気楼のごとく妖しく揺らめいていた。それはホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」(1902=明治35)に源をもつと思うけど、「私(近代的自我)」の揺らぎがすでに生理的な前提としてあるわけだね。今や古井文学は日本語の極限に挑むかのような境地に達しているが、大江さんと古井さん、このお二人によって現代日本文学の水準が達成されてきたとはいえると思う。このお二方が厳然として聳えておられるから、ほかの作家たちは自分なりの器に応じて好きなことをやってられるってところはあるよ。


 おまえもさっさと小説書けよ。理屈ばっか言ってないでさ。eminusに言っとけ。


 そうするよ。


 にしても、やめるっつっといて「深掘り談義」が妙に続くな。ひょっとしてこれ、面白くなってきてんじゃないか?


 だな。ふつうに書くより興が乗って話が弾むね。


 でもおれはいつまでも付き合ってやらないからな? 早いとこ「バナナフィッシュ」やっつけようぜ。


 うん。なるべく早く再開しよう。





謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日 第1幕

2020-07-04 | 純文学って何?






 dig フカボリスト。口がわるい。




 e-minor ……当ブログ管理人eminusの別人格。




☆☆☆☆☆☆☆




 初めまして。digだよ。


 e-minorです。


 もとがeminusだからe-minusでe-minorってか。見えすいた洒落だ。


 シャレなんてそれくらいがいいんだよ。


 そもそもだけど、なんでeminusに代わってe-minorが出てきたわけ?


 eminusがここんとこずっと、「何を見てもあの国のことを思い出す」といった心情でね。いよいよ香港もあんなことになったし、滅入ってるんだな。といって、ブログでその話をやるのも億劫だと。このままだといつまで経っても更新できない。それで別人格のぼくを召喚して、君を相手に、世界情勢とは無関係な閑談をさせてみよう、という企画らしい。だから君がメインで、ぼくが聴き手だ。


 でもおれが語ると長いよー? 本家のeminusより長くなるよ。


 内実が伴ってれば長くてもいいさ。


 題材は、サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』だったな。「バナナフィッシュ日和」とか「バナナフィッシュにもってこいの日」なんて邦題もあるが。


 うん。作品の書かれた背景とか、サリンジャー論とか、彼の全作品のなかにおける「バナナフィッシュ」の位置づけなんてのはさて置いて、純粋にひとつのテキストとして、「バナナフィッシュ」をとことん深掘りしたい。そこで自称フカボリストのdigを読んだんだ。


 了解。じゃあさっそく冒頭な。読んでくれる?


 ホテルにはニューヨークの広告マンが97人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが占領したような恰好、507号室の婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに2時半までも待たされた。


 あー、すでにしてここから仕掛け満載だわな。


 数字が目立つよね。ぼくのほうから補足しておくと、本作は1948(昭和23)年のアメリカが舞台。だから国内であっても長距離電話は交換手に繋いでもらわなきゃできない。隔世の感があるけども。


 うん。それで数字のことだけど、「広告マンが97人」ってなんだよ、とまず思う。「たくさん」でいいんじゃないんかいと。誇張法にせよ、「100人ばかし」とかさ。


 それはいわゆるティーンエイジ・スカースでしょ。「ガキの語り口」ってやつ。サリンジャーの得意技だ。それこそ「ライ麦畑」が全編そうだし、ここでも、「百人もの広告マンが……」って書くより、「97人」と神経質に区切ったほうが笑えるよね。


 ああ。だが、それだけじゃないんだな。


 そうこなくちゃね。


 「97人」はいわば見せ球っていうか、釣り球でな。これに気を取られちゃだめなんだ。ポイントは「507号室」のほう。


 ふーん。主人公のシーモアと、新妻のミュリエルが泊ってる部屋の番号だけど。


 これ、「507号室」じゃないんだ。「5〇7」なんだ、じつは。


 ん? 6が飛んでる?


 というか、隠蔽されてる。その次読んでくれる?


 でも彼女はそのあいだをたっぷり活用した。ポケットサイズの女性誌の「セックスは楽しみ? それとも地獄?」と題した記事を読み、櫛とブラシを洗い、ベージュのスカートの染みを取り、サックスで買ったブラウスのボタンの位置を付け替え、ほくろに生えてきた2本のムダ毛を抜いた。オペレーターがつないだ時には、窓際の作り付けの椅子に座って、左手の爪にマニュキュアをほぼ塗り終えたところだった。


 うん。それでだな、いきなり際どい話になっちまうけども……


 ああ。セックス、サックスが韻を踏んでるわけね。サリンジャーほどの名手にして、これが偶然ってことはないね。サックス(Saks)はニューヨーク五番街にある高級デパートで、今でも営業してるけど、わざわざこの店名を選んだわけか。なるほど。それでさっきの「5〇7」なんだ。


 そういうこと。シックスが巧妙に隠されている。というか、じつはこの短編、冒頭からラストまで「6」って数字に支配されてるって言ってもいいくらいなんだわ。


 さっそくフカボリストの面目躍如だね。そこは後ほどじっくりやろう。ミュリエルの暇の潰し方だけど、俗悪な雑誌の俗悪な記事を眺めて、美容品の手入れをして、服をいじって、自分のからだをとりつくろう。実生活なら、「まあそんなもんでしょ?」だけど、これは小説だからね。創作物なんだから、彼女のこの描写にも意味があるわけだ。


 それこそ俗っぽいっていうか、外見ばかりに気が行って、自分や他人の内面にはまるで目を向けないタイプって含意だな。


 そうして窓際のソファに座って左手の爪にマニュキュアをほぼ塗り終えたときに、やっと交換手からの呼び出しがくる。


 でもすぐには出ないんだよな。


 うん。「彼女はしかし、電話のベルが鳴ったからといって、やりかけたことを慌てて止めるような女じゃない。年頃になってからというもの、家の電話は鳴りづめだったといわんばかりに悠然としたものだ。」 こういうの、いかにもアメリカ文学っぽい言い回しだよねえ。春樹さんが日本文学に輸入したわけだけど。


 アメリカ文学っていうか、アメリカっぽい言い回しだわな。子供のころ、親父さんの隣で「日曜洋画劇場」とか見てると、たいてい登場人物の誰かれがこんな喋り方するもんで子供ながらひとりで興がってたわ。


 そのまま小指の爪にアクセントをつけて、おもむろにエナメル瓶のふたをしめ、それから左手を宙にぶらぶら振って風に当て、乾いてるほうの右手でソファの上から灰皿を取り上げ、それを持ってナイトテーブルのほうへ歩いていき、整えられたツインベッドの片側に腰を下ろして、そうしてやっと受話器を取る。


 「はよ出んかい!」って言いたくなるけどな。


 電話の向こうが交換手で、まず切られる気遣いがないから落ち着いてるんだろうけど、鷹揚ってより、どうもずぼらなふうがある。そういうふうに書いてある。


 ソファのうえで煙草吸ってるからなあ。その灰皿ってのがすでに吸い殻でいっぱいだし、しかも「白い絹の化粧着のほか、なにも身に着けてない。指輪もバスルームに置いたまま」ってんだから。


 自堕落ってほどじゃないにせよ、かなり緩んではいる感じだね。


 細かいとこを深掘りすると、マニキュアのくだりで、「爪半月の輪郭をくっきりと仕上げ」が面白いな。爪半月って、爪の根元の白い部分だけど、これ、原文だと“moon”なんだよ。“line of the moon”なんだ。


 「月」なのね。


 ここでの「月」はとりたてて重要じゃないんだけども、たんに「爪にマニュキュア塗りました」じゃなく、ここで「月」という単語を挟み込んでくるのがじんわり効いてくるんだな。というのも、この先「太陽」にまつわるくだりがあるんでね。


 ふーむ。深いねえ……。とりあえず次いくよ。「グラース様でいらっしゃいますね」と交換手の声が聞こえて、「お申し込みのニューヨークへお繋ぎいたします」。ミュリエルは「どうも」と応じ、そこで母親との会話がはじまる。


 その前に、もうひとつ言っときたいんだが。


 うん。


 この作品ではキャラの名前が重要なんだよ。その呼ばれ方も含めてな。


 ふむふむ。


 ミュリエルのばあい、地の文においては一度もその名で呼ばれない。「a(the) girl」もしくは「she」なんだ。これは後で出てくる主人公のシーモアも同じで、終始一貫、「a(the) young man」ないし「he」なんだよ。


 「ミュリエルがどうした。」「シーモアはこうした。」みたいな書き方を周到に避けてるってことね、作者が。


 うん。だからじつはこの時点ではわれわれ読者は彼女の名前を知らないんだよな。電話がつながり、母親が「ミュリエル、あなたなの?」と呼びかけたとき、初めてそれと知るわけさ。


 なるほど。


 いっぽう、主役ふたりに負けず劣らず重要なキャラである少女シビルは、第2幕の登場シーンでいきなり「シビル・カーペンターは言った。」とフルネームで作者(語り手)から呼ばれている。まるでふつうの小説のように。でもって、このシビルってのがおっそろく意味深な名なのな。これは彼女が出てきたときにしようか。


 そうだね。


 ミュリエル(Muriel)と打ち込んで検索をかけても、めぼしい情報はヒットしない。でも、一字違いのMarielなら、なかなか面白いものが見つかる。


 どれどれ、あー、「Mariel。メアリー(Marry)やマリー(Marie)の愛称から。あるいはゲール語の「輝く海」から来たミュリエル(Muriel)の変化形。」とあるな。「輝く海」であり、しかもマリア様なのか。これは大したもんじゃない? そんなに俗物って感じではないね。


 だろ? 巷間、「ミュリエルの俗物性にシーモアがうんざりして……」みたいな意見をよく見かけるけど、たしかに彼女はひどく低俗な面もあるにせよ、戦場に行ったシーモアの帰還をずっと待ってたんだぜ? それほど蓮っ葉とか、ケーハクな女の子であるはずはないんだ。じつは彼女が不倫してたんじゃないかって説もあるけど、作者のこのネーミングからして、おれはそうは思わない。


 もしそうなら、ずいぶん皮肉な名前を付けたってことになるが、本作におけるサリンジャーは、もっと真摯にキャラを命名してるってことだね。


 とにかくぜんぶの名前に意味があるんだ。会話の端々に出るエキストラみたいな連中にもな。ミュリエルが例外なはずがない。で、そのなかで、電話をかけてきた彼女の母親にだけ名前がない。


 うん。それはぼくも気づいてた。まあ娘が母親を名前で呼んだりしないから、そこはしょうがないかとも思ったが。


 そういうテクニカルなこと以上に、この母親には名前は不要、と作者が見なしたんだよ。


 巷では、この母親についてはとかく評判わるいようだけど……(笑)


 そうだな。でもその話の前にもう一つだけ言っとこう。電話が鳴って、ミュリエルが吸い殻でいっぱいの灰皿もって受話器のとこに行ったときの描写な。彼女、「よく整えられたツイン・ベッドの片方」に腰を下ろすんだぜ? ここ、おかしいと思わんかった?


 ほかはけっこう散らかってる感じだけど、ベッドだけ妙に整ってるってこと?


 うん。こんなところから、ふたりのあいだには新婚夫婦らしい営みはなかった、という説がでてきて、さらにはシーモアの(おそらくは戦場で受けたショックによる)不能説なんてのも出てくる。これは今でも議論の分かれるとこみたいだな。おれ自身は、そんなことないと思ってるがね。


 なるほどね。ヘミングウェイなんかも思い出されるところだが……


 ヘミングウェイはきっかり20歳年上だから、かんたんに比較はできないけどな。


 そろそろお袋さんの話に戻ろうか。「ミュリエル、あなたなの?」から頼むよ。


 うん。おまえさんも言ったが、巷ではこの母親はとかく評判がわるい。たしかに名前すら与えてもらってないし、作品内ではミュリエル以上の徹底した俗物として描かれるんだけど、結果からみると、この人べつに的外れなこと言ってないのよ。


 ぜんぜん杞憂じゃなかったよね。最後にはこの人が恐れてたとおりになった。


 この母親は世間の(良識の)代表であるとともに、おれたち読者の代表っていうか、ほとんど読者そのものなんだよ。シーモアの内面を何一つ理解できず、そもそも理解しようともせず、表面に現れた言動だけで判断し、恐れ、忌避する。「バナナフィッシュ」を読んだひとのうち、どれだけの数がそのレベルに留まってることか。


 それはでも、仕方ないとこあるでしょ。


 そう。それはけっして間違ったことでもないんだ。そうでなきゃ毎日を送ることなどできないし、それに、結果としてその判断は正しいんだからね。じっさい、戦場で精神的に傷ついたことを差し引いても、シーモアは率直にいってヤバいやつだもの。


 ほんとに隣に来られたら困る(笑)。


 でも幸い、彼はテキストのなかのキャラだからね。おれたちは、しかるべき距離を保ちつつ、それでいて誰よりも身近なところで、彼の内面に迫っていくことを許されてるわけだが……


 うん。でもそろそろ先に進もうか。このままだと、いつまで経っても海辺に行けない。そのシーモアが登場しないよ。


 そうでもない。


 ん?


 だからね、作品はこのあとほぼ11ページにわたって母娘のやりとりだけで綴られるんだけど、シーモアが登場しないわけじゃない。というか、この通話はほとんどがシーモアにかんする話なんだ。そういう意味では、シーモアはここから読者のまえに姿をみせるといっていい。


 なるほどね。小説ならではの手法といってもいいのかな。


 ともあれ、ミュリエルと母親との電話でのやりとりは、逐一たどっていくんじゃなくて、要点だけピックアップしていくか。


 ああ、いいね。


 ポイントは、この会話の中で、この姑さんの目からみたシーモアの不審な挙動がリストアップされてくことだ。だからそれ中心にまとめていこう。まず、回線が繋がった直後はこのひと、ミュリエルの話をろくに聞かずにまくしたててて、かなり切迫してるのな。


 大声でね。


 それでこっちは――こっちってのは、おれたち読者のことだけど――「なんか知らんがヤバいことが起こってるらしい」とわかる。次いで、フロリダまで車を運転したのがシーモアだと聞いて、「あの人に運転させたんだって?」と吃驚する。その後のミュリエルとのやり取りによると、どうもシーモアという青年は、ドライブ中に樹木に車をぶつけて事故った前歴があるらしい。それもどうやらただの不注意じゃなく、わざわざ樹木に近づいていってぶつかったみたいなんだな。


 運転中に木を見ると、接近せずにはいられない性癖みたいのがあるらしいんだよ。


 うん。なぜシーモアは、そんな性癖をもってるのか。これをまず謎①とする。あと、ミュリエルのことを、なんだか変ちくりんな名前で呼ぶらしい。これ、新潮文庫の野崎孝訳だと「へんちくりん」だけど、原文じゃawfulだからね。


 「ひどい」なんだな。「まだ彼はあなたのことをあのひどいあだ名で呼んでるの?」って気にかけてるんだ姑さんは。


 その「ひどいあだ名」ってのは不明なんだけど、「こっちにきて、また新しいのを発明したわ」とミュリエルはいう。それが「miss spiritual tramp of 1948」。


 野崎訳だと「1948年のミス精神的ルンペン」だけど、trampって……。


 チャップリンの『放浪紳士チャーリー』の原題が『THE GENTLEMAN TRAMP』。だから「ルンペン」「放浪者」でもいいんだけど、ここでは「売春婦」だわな。「1948年度のミス・スピリチュアル売春婦」。ミュリエルは「おかしいでしょ?」なんてくすくす笑うんだけども、そりゃ姑さんのほうは「ひどい」「悲しい」を連発するってもんだぜ。


 奥さんをそんなあだ名で呼んでるシーモアも、そんなふうに呼ばれて可笑しがってるミュリエルもいまひとつぼくにはよくわからん……っていうか、そもそもこの二人がなんで一緒になったのかもじつはよくわからんのだけども。


 同じ疑問を抱いた読者が多かったんで、サリンジャーはその後、続編というべき「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」と「シーモア―序章―」を書くんだけど、その2作を読んでも、じつはいまひとつよくわからんのだよな(笑)。とりあえずおれたちは、目の前の「バナナフィッシュ」を深掘りしていくしかないな。


 がんばっていこう。


 さて、そこでミュリエルが話題を変えて、「彼がドイツから送ってくれた本あるでしょ? あれどうしたの?」っていう。「こっちに来る車の中で彼に訊かれたんだけど、どうしても思い出せないの。」つまり、ぜひ君も読みたまえ、といってシーモアが戦地から送ってきた本を、そのままどこかにやっちゃったというね。


 でもそれ、しょうがないんだよ。なにせドイツ語の詩集だから。ぼくだって困るよ、そんなの送ってこられても。


 その本を書いたのは、シーモアによると「今世紀唯一の大詩人」らしい。これが謎の②なんだけど、e-minorは誰だと思った?


 最初に読んだ高校生のときは読み飛ばしてたね。それで、ちょっといろいろ知恵がついてから読み返した時は、ツェランかな?と思ったんだけど、それはないか。この小説の背景は1948年だけど、ツェランが世界的に詩名を響かせるのは、もっとずっと後だもんな。ブレヒトってこともないだろうし……。


 そんな若いわけないさ。これはリルケだ。それ以外にない。


 あ……。でもリルケはオーストリアだろ?


 それは関係ない。「ドイツ語で書かれた本」なんだから。


 そっか。じゃあリルケでいいのか。


 それで、これは謎①とセットなんだよ。リルケは「樹木」のイメージをすごく重視しているからな。「あらゆる存在をつらぬいて一つの空間がゆきわたる、世界内面空間だ。鳥たちは静かにわれわれの内部を飛び過ぎてゆく。わたしが育とうと思えば外へと目を向ける。するとわたしの内部に樹木が育つ。」とか、あるでしょ?


 えっ、ああ……。うん。


 e-minorってドイツ文学科じゃなかった?


 うん、まあ、そうなんだけどね。はは。いやまあね、細かいことはともかくとして、ニュアンスはわかった。たしかにリルケは、剥き出しの魂が露出してるような詩や散文を書いたからね。シーモアが共鳴するのはよくわかる。なんていうか、存在の本質っていうか、根幹にかかわるようなものを感知してるってことだよね、シーモアは。樹木に対して。


 だな。だから否応なしに惹きつけられてしまうんだ。


 だけど、そりゃ凡人にはやっぱ迷惑でしかないな。そんなの理解できるわけないし、ましてや車をぶっつけられちゃねえ。


 うん、だから母娘は、「修理に400ドルかかった」とか、そんなことばかり言ってる。ところで、ミュリエルが実家に置き忘れてきたその詩集を、「あんなの置いとく場所ないもの」ってことで、「フレディの部屋にありますよ」と母親はいうわけだけど、この「フレディ」ってのはフレデリックの短縮形。フレデリックはドイツ語で言うと……


 ああ、フリードリヒだ。


 そう。いうならば、ドイツを代表する名前といっていい。なにしろフリードリヒ大王に……


 ニーチェもそうだな。


 フレディってのがミュリエルの弟だか何だか知らないけど、ドイツ語の詩集なんで、フリードリヒの部屋に置いてあるわけだな。これは別にたいしたことじゃないけど、サリンジャーがいかに命名に気を遣っているかの一例になるな。


 細かいねえ。


 細かいところを深掘りしてくときりがないんで、もう少し絞るか。「シーモアが妻の実家の姑さんたちのまえで何をやらかしたのか?/なぜそんなことをやったのか?」に絞ろう。それと、第2幕の海辺のシーンの伏線になっている事柄を拾っていく。


 うん。


 「窓に何かやらかした。」件。これを謎③とする。あと、「おばあちゃんが亡くなる時にはああしてこうしてって、いろいろ計画を立ててらしたのに、それに対してひどいことを言った」件。それと、これはもう少しあとで語られるんだけど、どうやらシーモア青年、そのおばあちゃんの椅子に対しても、なんかひどいことしたらしい。これらを併せて謎④とする。そして、「バミューダ土産のきれいな絵」……ここのpictureは「写真」だと思うんだけど、それに対しても何かをやった……ま、破ったんだろうな。これが謎の⑤。


 「木にクルマごとぶつかっていった」ってのがふつうに見れば破滅衝動にすぎないように、これらのケースも、表層だけみれば看過しがたい不作法であり、暴力衝動であり、破壊衝動ってことになるけど……


 そこを深掘りしなけりゃおれが出てきた甲斐がない。ただ、言うまでもないが、これからやるのは意味論的体系としてのテクストの深掘りだからな。現実社会でのじっさいの精神分析とか、精神療法とか、そういうこととは一線を画すべきものなんで、そこんとこよろしく。


 それはみんなわかってると思うけどね。


 いちおう念押ししたうえで、深掘りに移ろう。大前提となるのは、シーモアという青年が極めて鋭い感受性を持って、まあさっきのe-minorのコトバを借りるなら「剥き出しの魂」で以てこの現実社会と向き合ってるってことだ。もともと頭がよくて、繊細な青年だったんだろうさ。それが故国を離れて海を渡ってヨーロッパの戦場に行って、そりゃ危ない目にも会ったろうし、戦友たちが死ぬのも見たろうし、彼自身が人を撃ったかもしれない。そういう体験を経てここにいるわけだ。たんに甘やかされた若者が自意識を肥大させて荒れてるのとは違う。


 そういう背景はいまの日本の若い子がぱっと読んでもなかなか伝わらないだろうけどね。でも、だからこそ普遍性をもってるともいえる。しぜんに共感できるんだな。


 そうなんだが、上っ面だけを掻い撫でしてちゃもったいないんでな。それでおまえさんもおれを呼んだわけだろ?


 もちろん。


 むろん「戦争に行って鬱になった」とか「強迫神経症」とか、そんな言い方もありうるだろうがね。そんな浅薄な症名で片づけてもらっちゃ困るぜってところはあるね。祖国アメリカに戻ってからのシーモアは、生来の感じやすさをよりいっそう研ぎ澄まし、深化させて、常に「死」というものに向き合った情態でいる。いつも精神がぎりぎりまで張りつめている。とりあえず、そういうふうに言っておこうか。


 うん。


 いずれにせよ、そこを踏まえておかないと、なぜラストでいきなりあんなことになっちまうのかわからない。たんにこの短編の表層で描かれたエピソードだけでは、あれを説明するのは無理だ。


 だからこそフカボリストの出番だよ。そろそろ謎解きのほうよろしく頼むよ。


 うん。だからここに出てきたぜんぶの謎は、「常に死と向き合っている」シーモアの情態ってものから演繹しなけりゃ解けないんだよ。逆にいうと、そこから演繹してやれば、けっこうたやすく解けてくる。


 「おばあちゃんの臨終プランに対してどうこう」なんてのは、そう考えてけば何となくわかるかな。


 うん。ミュリエルの実家は、小市民的で平凡で、いかにもふつうの家庭なんだろう。そこに招かれたシーモアには、それが耐えがたき俗物性、許しがたき欺瞞に思えたんだろうさ。おばあちゃんは、「結婚したら早く孫の顔を見せておくれ。孫たちに看取られて臨終の日を迎えられたらどんなにか幸せだろうねえ。」くらいのことを言ったんじゃないかな? それでおそらくシーモアは、むろんおばあちゃんが席を立っている時にだとは思うが、「そんな話は馬鹿げてますよ。」ってんで、おばあちゃんがいつも腰かけている愛用の椅子を蹴っ飛ばしたんじゃないか。椅子ってものは安逸のシンボルだからな。


 とんでもないなあ。じゃあ窓は?


 そりゃ、ぶっ壊したんだろうさ。「もっときちんと外の世界と向き合え」ってね。


 「バミューダ土産のきれいな写真」を破った(?)ってのは?


 「こんな過去のきれいな思い出に浸ってちゃだめだ。今を直視し、今を生きろ」。


 なるほど。いちおうぜんぶ解けるねえ。しかしどうにも激しいね。やっぱりまともに交際できる相手じゃない(笑)。


 「剥き出しの魂が露出してる」ってのはそういうことだろ。


 そうなんだけど、やっぱりなあ……。こういったことの諸々を「お父様が精神分析医に相談なさったのよ。」と姑さんはミュリエルに告げる。この精神分析の先生の名にも意味があるんだろうけど……


 あるよ。


 長くなるからそこは割愛ね(笑)。伝聞で事情を聞いただけなのに、先生はこう述べたという。「陸軍が彼を退院させたのが完全な犯罪行為。シーモアはすっかり自制を失う可能性が大きい。」これって……


 当たってたよな。


 当たってたんだよ。伝聞で事情を聞いただけで、これだけ正確な診断が下せたってことは、やはり周りの目に映るシーモアの像がそれだけ異様だったってことだね。でもミュリエルはそんな母の言葉に取り合わず、「ここのホテルにも精神分析の先生はいるわ。」という。この先生も名前が出てるけど、これも割愛(笑)。でミュリエルは、すぐにでも戻って来いという母に向かって、「ここ数年で初めて休暇を取って、はるばる旅行してここまで来たのに、そんな急には帰れない。日焼けしちゃって、動けないし」みたいなことを答えるんだね。日焼けしちゃって動けない、というのはぼくにはよくわからんのだけど(笑)。


 体があちこち痛くってめんどくさいってことだろ。それで母親は「あの日焼け止めクリーム使わなかったの?」なんて言う。ただ、日焼けってのはミュリエルの健康さというか、もっというなら俗物ぶりを示唆する記号ではある。それはあとで出てくるシーモアが、さかんに「pale(青白い)」と形容されることの対比になっている。そこは注目しておきたい。


 ここからミュリエルがこの投宿中のホテルで知り合った精神分析の先生夫妻の噂になって、それこそ俗っぽいっていうか、下世話な話題になってくんだけど……


 そこもこの母娘の俗物性をあらわすものとしてよく参照されるくだりだな。


 ミュリエルのお袋さん、「日焼け」ってワードに反応して、「鞄に入れてあげた日焼け止めクリーム使わなかったの?」なんていう。でもって、ここから話がいかにも下世話なぐあいになってくんだ。ファッションに、ヘルスケアに、ゴシップ……これであとグルメのネタでも入れたらまんまワイドショーか女性週刊誌だよね。


 そんな雑談のさなかに、ミュリエルが「このホテルにも精神分析の先生はいる」って言って、たまたま投宿中の精神分析医の夫妻と知り合いになった話をする。大事な話とどうでもいい閑話がごっちゃになっちゃってるんだな。


 その先生ってのは娯楽室みたいなとこでビンゴゲームやってる時に向こうから話しかけてきたんだけど、そのときシーモアは「大洋の間(オーシャン・ルーム)」でピアノを弾いてた……ホテルに着いてからこっち、シーモアはずっとピアノ弾いてるらしいんだ。それで先生は、シーモアは体の具合でも悪いのかとミュリエルに尋ねる。専門家とはいえ、初対面のひとが遠くから観察しただけで「なんか変じゃね?」と思うなんてのは、どうなんだろうね。


 ああ。とうぜんそこを電話口の母親もつっこむわけだが、ミュリエルは「さあ。顔色があんまり悪かったりする(pale)からじゃない?」なんて応じる。他にも挙動不審な点はあるんだろうが、「pale(青白い)」がシーモアの特異さをあらわす記号だというおれたちの見地からして、ミュリエルのこの推測は正しいと思うな。


 このへんの母娘の会話は創作としてもほんとに巧くて、いつ読み返しても笑うなあ……。その分析医の奥さんの着てたドレスがどうのって話から、ミュリエル自身の服の話になって、ぐだぐだぐだぐだ、ほんとうにリアリティーがあるよ。


 結局のところミュリエルは、もっぱら奥さんのほうと雑談しただけで、分析医の先生にはろくにシーモアのことを相談していない。そこがミソだな。


 うん。とにかくミュリエルは「大丈夫よ」の一点張りなんだ。「90ぺん訊かれても帰る気はない。」なんて言う。さらに母親が、「帰ってくるのが嫌だったら、旅費くらいいくらでも出すから、ひとりで船旅でも楽しんだら?」と勧めても、「けっこうよ。」と一蹴する。無頓着っていうか、危機意識が乏しいというか、あるいは、こうみえてシーモアをすごく信頼してるのか、前にもいったが、どうもぼくにはミュリエルって子がよくわからないんだよ。


 そりゃ、はっきりいえばミュリエルは愚かなんだと思うよ。その愚かしさゆえにシーモアを受け入れてるし、シーモアもそのことは有難く感じているはずなんだ。けれども、それはシーモアが真に求めるものではない。そこが悲劇の源なんだよ。


 悲しい話だな。


 あたりまえだよ。どんな話だと思ってたんだ?


 いや、あらためて言葉にしてみると、いっそう悲しさが迫ってくるってことだ。そう思うと、このやりとりがいっそう胸にこたえるな。ここは原文からひとつぼくが訳してみるか。
「あなたが戦争の間どんなふうにあの人を待ってたかと思うと……だって、よくあることでしょう? 待ちきれなくなった若い奥さんが……」
「母さん、もう切らなきゃ。シーモアがそろそろ戻ってくるわ」


 うん。そうなんだ。戦争の間ずっと待ってたんだよ。だからミュリエルを見くびらないでほしいとは思うね。たしかに愚かで俗っぽいけど、それだけじゃないよ。


 「マリア様」だっけ。それと、「輝ける海」?


 そう。そういう名前をサリンジャーから賜った女の子なんだからな。


 上で訳した会話を受けて、母親が「あの人いまどこにいるの?」と訊く。ミュリエルが「浜よ。」と答えて、さあいよいよ、ここから第2幕へと繋がってくわけだが……


 ここのポイントは、ビーチでひねもす寝そべってるシーモアが、頑としてバスローブを脱がないとミュリエルが述べたのを受けて、母親が「なぜ?」と訊く。ミュリエルは「肌があんまり白いせいじゃない?」と答える。ここだな。


 またしても「pale(青白い)」が出てくるわけだ。


 ああ。そこで母親答えていわく、「まあ、だからこそ陽に当たらなきゃいけないのに!」。これ、野崎孝訳ではこのとおりだけど、原文は“He needs the sun.”なんだ。


 「彼には太陽が必要なのに!」か。ああ、ここで出るんだな、「太陽」が。


 太陽とは人間が生きる上でもっとも必要なもののひとつ。それがシーモアには欠けている。これは第2幕の浜辺で幼い少女シビル・カーペンターがシーモアに告げるひとつの台詞と対になっている。だからぜひ心に留めておいてほしい。


 うんうん。


 続けて「そのバスローブ脱がせてやれないの?」と訊く母親に、「だって、大勢のバカどもにタトゥーを見られるのが嫌って言うんだもの。」とミュリエルが答え、「えっ、タトゥーなんてないでしょあの子? それとも軍にいたとき入れたの?」と母親。「いいえ、違うのよ。」とミュリエル。


 この「タトゥー」もよく俎上に載せられるやつだけど。


 それこそ俗っぽい解釈ならば、たんなる自意識過剰のあらわれってことになるけどね。あと、じっさいに戦地で何らかの傷を受けたなんて説もあるけど、そうじゃない。あくまでも精神的なもので、シーモアがもう、昔のような無垢なからだではなくなってしまったという意味だ。シーモア自身が強くそう自覚してるってことだ。


 そう考えれば自意識過剰の一種のようではあるが。


 いや、戦場体験ってものがあるからな。やはりその言葉では収まりきらない。


 で、それまでソファに座って脚を組んだり、ほどいたりして喋ってたミュリエル、ここできっぱり立ち上がり、「ねえ母さん、明日また電話するわ……たぶん」


 そこから第1幕の収束だ……ちょっと訳してみてくれよ。


「ミュリエル、待って。わたしのいうことよく聞いて」
「ええ母さん」娘は右脚に体重をかけながらいった。
「すぐに電話してね。あの人が少しでも妙なことをしたり、言ったりしたら。……意味はわかるわね。……ねえ、聞こえてる?」
「母さん、わたしシーモアのこと怖いなんて思ってないのよ」
「ミュリエルお願い、約束して」
「わかったわ母さん、約束する」娘はいった。「父さんに愛してるって言っといてね」そして受話器を置いた。


 うん、いいんじゃないか。ミュリエルの登場シーンはこれでほぼおしまい。このあともう、シーモアと会話を交わすことはない。それでわざわざ訳してもらったわけだが。


 そう考えるといよいよしんみりするけどね。


 でもって、これで第1幕もおしまい。


 けっこう長くなったな。


 こんなもんだろう。


 でも第2幕はもっと大変でしょ。


 そりゃ、表層においてリアリズムで描かれているエピソードの奥底で、凄まじいことが起こってるからな。それも西欧文学……っていうか、西欧なるものの根幹にかかわる最重要のテクストを下敷きにしてな。


 それってつまりは聖書だよね。


 そう。それこそがこの謎解きの主眼だな。


 ではまた次回に。


☆☆☆☆☆☆☆

 この続きは別のブログサービス「note」のほうに掲載しています。
 全13回。いちおう有料(ぜんぶまとめて100円)となってはおりますが、どの記事も冒頭部分は無料で読めます。試し読みのうえ、ぜひご購入をご検討のほど。




















集英社 「戦争×文学」全20巻・別巻1 リスト

2020-01-17 | 純文学って何?




 こういう企画があるってことはぼんやりと知っていたものの、あらためてラインナップを見たら凄い顔ぶれが揃ってたんで、資料としてリストアップしておきましょう。集英社のホームページに載ってるんだけど、巻数ではなく刊行順に並んでいて見づらかったので並べ直しました。
 集英社は立派な出版社ですね。「あんな会社、ジャンプ出してりゃ食ってけるンだろ。」みたいな暴言を吐いてた元記者の「経営コンサルタント」がいたけども、物知らずにも程があるなあ。社会を「ビジネス」だけで見てたら肝心なことが視えないって証拠だね。世間がそんな輩ばかりになって、「文学」が廃れていくと、それに比例して世の中がどんどん悪くなり、結局は国そのものが衰えていくわけさ。
 まあいいや。それでは、ボリュームたっぷりの全20巻プラス1、どうぞ。これぞ文学、って布陣だけど、それだけに、タイトルを見ていくだけでけっこう重い。食事を済ませたあとで見たほうがいいかもしれない。




「戦後の戦争」を題材に! 新しい文学を収録


【現代編】
01 (2012-06)


『朝鮮戦争』


敗戦からわずか五年、隣国で勃発した戦争に日本人作家は何を見、在日作家は、民族の悲劇をいかに描いたか。


解説=川村 湊・成田龍一


金石範   『鴉の死』
張赫宙   『眼』
北 杜夫  『浮漂』
日野啓三  『無人地帯』
中野重治  『司書の死』
松本清張  『黒地の絵』
金達寿   『孫令監』
下村千秋  『痛恨街道』
田中小実昌 『上陸』
佐多稲子  『車輪の音』
小林 勝  『架橋』
野呂邦暢  『壁の絵』
佐木隆三  『奇蹟の市』
◎詩歌 近藤芳美(短歌) 吉田 漱(短歌) 谷川 雁『丸太の天国』 江島 寛『突堤のうた』 鈴木しづ子(俳句)


【現代編】
02 (2012-04)


『ベトナム戦争』


ペンとカメラを携え、戦場に駆けつけた作家やカメラマン。銃弾が飛びかうなか、彼らが伝えた戦争の現実。


解説=奥泉 光


開高 健  『岸辺の祭り』『姿なき狙撃者! ジャングル戦』
日野啓三  『向う側』
南木佳士  『重い陽光』
辺見 庸  『迷い旅』
吉岡 忍  『綿の木の嘘』
岡村昭彦  『南ヴェトナム前線へ』
石川文洋  『南ベトナム海兵大隊』
沢田教一  『17度線の激戦地を行く』
松本清張  『ハノイからの報告』
一ノ瀬泰造 『カンボジア報告』
又吉栄喜  『ジョージが射殺した猪』
中上健次  『日本語について』
堀田善衞  『名を削る青年』
村上 龍  『地獄の黙示録』
小田 実  『戦争』


【現代編】
03 (2012-10)


『冷戦の時代』


米ソの対立、核戦争の恐怖。大国の論理に翻弄される人間模様。そして「平和日本」に誕生した自衛隊とは?


解説=奥泉 光


五木寛之  『蒼ざめた馬を見よ』
長谷川四郎 『反共主義』
辻 邦生  『叢林の果て』
筒井康隆  『台所にいたスパイ』
開高 健  『エスキモー』
武田泰淳  『「ゴジラ」の来る夜』
三島由紀夫 『F104』
野呂邦暢  『草のつるぎ』
浅田次郎  『若鷲の歌』
宮本 輝  『紫頭巾』
堀田善衞  『広場の孤独』
◎詩歌 黒田喜夫『ハンガリヤの笑い』 塚本邦雄(短歌) 飯島耕一『アメリカ交響楽』


【現代編】
04 (2011-08)


『9・11 変容する戦争』


9・11以降、イラク、アフガンと今も戦争はつづく。冷戦後、変わりつつある戦争の姿をとらえた新しい文学。


解説=高橋敏夫


リービ英雄 『千々にくだけて』
日野啓三  『新たなマンハッタン風景を』
小林紀晴  『トムヤムクン』
宮内勝典  『ポスト9・11』
池澤夏樹  『イラクの小さな橋を渡って』
米原万里  『バグダッドの靴磨き』
岡田利規  『三月の5日間』
小田 実  『武器よ、さらば』
楠見朋彦  『零歳の詩人』
平野啓一郎 『義足』
重松 清  『ナイフ』
辺見 庸  『ゆで卵』
島田雅彦  『燃えつきたユリシーズ』
笙野頼子  『姫と戦争と「庭の雀」』
シリン・ネザマフィ  『サラム』
◎詩歌 谷川俊太郎『おしっこ』 三枝昂之(短歌) 藤井貞和『アメリカ政府は核兵器を使用する』  中村 純『静かな朝に目覚めて』 岡野弘彦(短歌) ◎川柳


【現代編】
05 (2011-09)


『イマジネーションの戦争』


空想された時空や寓話のなかの戦争。戦争の本当の姿をとらえるために、作家たちが描く「もうひとつの戦争」。


解説=奥泉 光


芥川龍之介 『桃太郎』
安部公房  『鉄砲屋』
筒井康隆  『通いの軍隊』
伊藤計劃  『The Indifference Engine』
モブ・ノリオ『既知との遭遇』
宮沢賢治  『烏の北斗七星』
小松左京  『春の軍隊』
秋山瑞人  『おれはミサイル』
三崎亜記  『鼓笛隊の襲来』
青来有一  『スズメバチの戦闘機』
星野智幸  『煉獄ロック』
星 新一  『白い服の男』
山本 弘  『リトルガールふたたび』
田中慎弥  『犬と鴉』
稲垣足穂  『薄い街』
内田百閒  『旅順入城式』
高橋新吉  『うちわ』
赤川次郎  『悪夢の果て』
小島信夫  『城壁』






【近代編】
06 (2011-10)


日清日露の戦争から敗戦まで! 戦争文学の中核
『日清日露の戦争』


近代国家の成立とともに大陸へと侵攻をはじめた「帝国日本」。ここから長い「戦争の時代」の幕が開く。


解説=川村 湊


萩原朔太郎 『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』
山城正忠  『九年母』
泉 鏡花  『凱旋祭』
岩井志麻子 『依って件の如し』
田山花袋  『一兵卒』
宇野千代  『日露の戦聞書』
新田次郎  『長崎のハナノフ』
森 鴎外  『鼠坂』
新美南吉  『張紅倫』
稲垣足穂  『人工戦争』
津原泰水  『土の枕』
矢野一也  『誰殺了』
木村 毅  『兎と妓生と』
松岡静雄  『南国の思出』
長与善郎  『誰でも知っている』
黒島伝治  『橇』
久世光彦  『尼港の桃』
陳舜臣   『その人にあらず』
獅子文六  『出る幕』
もりたなるお『物相飯とトンカツ』
石川 淳  『マルスの歌』
◎詩歌 与謝野晶子『君死にたまふこと勿れ』 中里介山『乱調激韵』 阪井久良岐(川柳) 井上剣花坊(川柳)


【近代編】
07(2011-12)


『日中戦争』


一九三七年七月、盧溝橋からはじまった日中戦争。次第に泥沼化する戦争のなかに生きる兵士と住民たちの悲劇。


解説=浅田次郎


胡桃沢耕史 『東干』
日比野士朗 『呉淞クリーク』
武田麟太郎 『手記』
石川達三  『五人の補充将校』
火野葦平  『煙草と兵隊』
田中英光  『鈴の音』
伊藤桂一  『黄土の記憶』
小林秀雄  『戦争について』
和辻哲郎  『文化的創造に携わる者の立場』
田村泰次郎 『蝗』
駒田信二  『脱出』
檀 一雄  『照る陽の庭』
田中小実昌 『岩塩の袋』
藤枝静男  『犬の血』
五味川純平 『不帰の暦』
棟田 博  『軍犬一等兵』
富士正晴  『崔長英』
阿川弘之  『蝙蝠』


【近代編】
08 (2011-06)



『アジア太平洋戦争』


開戦の高揚から一年を経ずして、戦いは、転戦、玉砕、特攻へと急転。凄惨な戦場があばく「聖戦」の末路。


解説= 浅田次郎


太宰 治  『待つ』
上林 暁  『歴史の日』
高村光太郎 『十二月八日の記』
豊田 穣  『真珠湾・その生と死』
野間 宏  『バターン白昼の戦』
下畑 卓  『軍曹の手紙』
北原武夫  『嘔気』
庄野英二  『船幽霊』
火野葦平  『異民族』
中山義秀  『テニヤンの末日』
三浦朱門  『礁湖』
梅崎春生  『ルネタの市民兵』
江崎誠致  『渓流』
大城立裕  『亀甲墓』
吉田 満  『戦艦大和ノ最期』(初出形)
島尾敏雄  『出発は遂に訪れず』
川端康成  『生命の樹』
三島由紀夫 『英霊の声』
吉村 昭  『手首の記憶』
蓮見圭一  『夜光虫』


【近代編】
09 (2012-07)



『さまざまな8・15』


日本人は敗戦の日をどう迎えたか。困難を極めた抑留・引揚げ。捕虜そして復員。混乱のなかの「新生日本」。


解説=成田龍一


中野重治  『四人の志願兵』
河野多恵子 『遠い夏』
島尾敏雄  『その夏の今は』『(復員)国破れて』
島尾ミホ  『御跡慕いて』
長堂英吉  『我羅馬テント村』
太田良博  『黒ダイヤ』
牛島春子  『ある旅』
梶山季之  『性欲のある風景』
岡松和夫  『異邦人』
古処誠二  『ワンテムシンシン』
藤原てい  『三十八度線の夜』
庄司 肇  『熱のある手』
木山捷平  『耳学問』
新田次郎  『豆満江』
林芙美子  『雨』
太宰 治  『未帰還の友に』
井伏鱒二  『復員者の噂』
霜多正次  『波紋』
石原吉郎  『望郷と海』
加賀乙彦  『雪の宿』
◎詩歌 茨木のり子『わたしが一番きれいだったとき』 中村草田男(俳句) 中桐雅夫『戦争』 上林猷夫『戦争が終った時』 ◎川柳


【近代編】
10 (2012-08)



『オキュパイド ジャパン』


焼け跡のなかに闇市が生まれ、街には進駐軍のジープが走る。激変する「占領下日本」で逞しく生きる人々の姿。


解説=成田龍一


志賀直哉  『灰色の月』
石川 淳  『焼跡のイエス』
椎名麟三  『深夜の酒宴』
山田風太郎 『黒衣の聖母』
田宮虎彦  『異端の子』
吉行淳之介 『廃墟の眺め』
野坂昭如  『あゝ日本大疥癬』
田中小実昌 『ミミのこと』
中野重治  『おどる男』
安岡章太郎 『ガラスの靴』
西野辰吉  『C町でのノート』
内田百閒  『爆撃調査団』
豊川善一  『サーチライト』
大江健三郎 『人間の羊』
大原富枝  『こだまとの対話』
木下順二  『神と人とのあいだ』
遠藤周作  『松葉杖の男』
城山三郎  『爆音』
阿部 昭  『大いなる日』
李恢成   『証人のいない光景』
◎詩歌 齋藤茂吉(短歌) 吉本隆明『一九四九年冬』 ◎川柳


【テーマ編】
11 (2012-11)


戦争の非人間性をあばく! 銃後の生活と軍隊の諸相

 『軍隊と人間』


徴兵を忌避する若者、兵営内で吹き荒れる私刑、軍隊への死を賭した反抗。兵士たちの深い嘆きと隠された肉声。


解説=浅田次郎


細田民樹  『日露のおじさん』
梅崎春生  『崖』
渡辺 清  『海の城』
村上兵衛  『連隊旗手』
菊村 到  『しかばね衛兵』
古処誠二  『糊塗』
結城昌治  『従軍免脱』
野間 宏  『第三十六号』
吉田絃二郎 『清作の妻』
浜田矯太郎 『にせきちがい』
中村きい子 『間引子』
吉行淳之介 『藺草の匂い』
柴田錬三郎 『仮病記』
松本清張  『厭戦』
田村泰次郎 『地雷原』
洲之内 徹 『棗の木の下』


【テーマ編】
12 (2013-01)


『戦争の深淵』


住民虐殺、毒ガス、捕虜の生体実験。人間はいかなる状況のもとで獣と化すのか。戦争の非人間性の極みを直視。


解説=高橋敏夫


大岡昇平  『捉まるまで』
富士正晴  『童貞』
有馬頼義  『分身』
古山高麗雄 『白い田圃』
田村泰次郎 『裸女のいる隊列』
遠藤周作  『海と毒薬』
平林たい子 『盲中国兵』
田口ランディ 『死の池』
武田泰淳  『ひかりごけ』
浅田次郎  『雪鰻』
梁石日   『さかしま』
宮原昭夫  『炎の子守唄』
吉村 昭  『遠い幻影』
金石範   『乳房のない女』
◎詩歌 秋山 清『象のはなし』 栗林一石路(俳句) 鈴木六林男(俳句) 渡辺白泉(俳句) 長田 弘『吊るされたひとに』 井上光晴『屍体の実験』 岡井 隆(短歌) 馬場あき子(短歌) ◎川柳 鶴彬 他


【テーマ編】
13 (2011-11)



『死者たちの語り』


戦いで無念のうちに死んだ者たちが、生者たちに訴える癒されぬ魂の叫び。戦争が生み出した幻想文学の精髄。


解説=高橋敏夫


小川未明  『野ばら』
夏目漱石  『趣味の遺伝』
江戸川乱歩 『芋虫』
小島信夫  『小銃』
安部公房  『変形の記録』
三橋一夫  『夢』
真杉静枝  『深い靄』
吉屋信子  『生死』
江崎誠致  『帰郷』
船越義彰  『カボチャと山鳩』
井上ひさし 『父と暮せば』
石田耕治  『流れと叫び』
中井正文  『名前のない男』
色川武大  『蒼』
三枝和子  『夾竹桃同窓会』
小川国夫  『聖女の出発』
奥泉 光  『石の来歴』
浅田次郎  『遠別離』
目取真 俊 『水滴』
◎詩歌 鮎川信夫『死んだ男』 石原吉郎『葬式列車』 加藤楸邨(俳句) 秋元不死男(俳句)  草野心平『マンモスの牙』 木俣 修(短歌) 山中智恵子(短歌) ◎川柳


【テーマ編】
14 (2012-01)



『女性たちの戦争』


銃後に生きる女性や子どもたちは戦争とどう向き合ったのか。戦争を支えつつも、踏みにじられていく悲しい姿。


解説=川村 湊・成田龍一


大原富枝  『祝出征』
長谷川時雨 『時代の娘』
中本たか子 『帰った人』
上田芳江  『焔の女』
瀬戸内晴美(寂聴)『女子大生・曲愛玲』
吉野せい  『鉛の旅』
藤原てい  『襁褓』
田辺聖子  『文明開化』
河野多恵子 『鉄の魚』
大庭みな子 『むかし女がいた』
石牟礼道子 『木霊』
壺井 栄  『おばあさんの誕生日』
高橋揆一郎 『ぽぷらと軍神』
竹西寛子  『兵隊宿』
司 修   『銀杏』
一ノ瀬 綾 『黄の花』
冬 敏之  『その年の夏』
寺山修司  『誰でせう』『玉音放送』
三木 卓  『鶸』
小沢信男  『わたしの赤マント』
向田邦子  『字のない葉書』『ごはん』
阿部牧郎  『見よ落下傘』
鄭承博   『裸の捕虜』
◎詩歌 五島美代子(短歌) 中村汀女(俳句) 石垣りん『家族旅行』 吉原幸子『空襲』


【テーマ編】
15 (2012-03)



『戦時下の青春』


内地に残る若き兵士、動員される学徒、疎開する家族、空襲に逃げまどう人々。戦争末期の生活の諸相を描破。


解説=浅田次郎


中井英夫  『見知らぬ旗』
小林 勝  『軍用露語教程』
吉行淳之介 『焔の中』
三浦哲郎  『乳房』
江戸川乱歩 『防空壕』
井上光晴  『ガダルカナル戦詩集』
高橋和巳  『あの花この花』
上田 広  『指導物語』
永井荷風  『勲章』
川崎長太郎 『徴用行』
石川 淳  『明月珠』
太宰 治  『薄明』『たずねびと』
井伏鱒二  『疎開記』『疎開日記』
池波正太郎 『キリンと蟇』
坂口安吾  『アンゴウ』
結城信一  『鶴の書』
内田百閒  『その一夜』
古井由吉  『赤牛』
高井有一  『櫟の家』
前田純敬  『夏草』
野坂昭如  『火垂るの墓』
井上 靖  『三ノ宮炎上』


【地域編】
16 (2012-02)


都市、島、植民地、新国家! それぞれの場所に刻まれた戦争の傷痕

 『満洲の光と影』


五族協和を謳い「建国」された満洲国。内地から押しよせた人々はいかにして夢を追い、その崩壊を体験したか。


解説=川村 湊


伊藤永之介 『万宝山』
徳永 直  『先遣隊』
牛島春子  『福寿草』
今村栄治  『同行者』
野川 隆  『狗宝』
竹内正一  『流離』
八木義徳  『劉広福』
水上 勉  『小孩』
三木 卓  『われらアジアの子』
長谷川四郎 『張徳義』
里見 弴  『みごとな醜聞』
清岡卓行  『サハロフ幻想』
村上春樹  『動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)』
坪田譲治  『包頭の少女』
森川 譲  『ホロゴン』
宮尾登美子 『満州往来について』
◎詩歌 逸見猶吉『歴史』


【地域編】
17 (2012-09)



『帝国日本と朝鮮・樺太』


皇民化を強いられ、戦争に巻きこまれていく朝鮮の人々、朝鮮を故郷とする日本の子ら。日本支配の深い傷を見る。


解説=川村 湊


中島 敦  『巡査の居る風景』
張赫宙   『岩本志願兵』
鄭人沢   『かえりみはせじ』
金史良   『草深し』
田中英光  『碧空見えぬ』
梶山季之  『族譜』
湯浅克衛  『カンナニ』
小林 勝  『フォード・一九二七年』
李淳木   『冬の橋』
森崎和江  『土塀』
後藤明生  『一通の長い母親の手紙』
冬木 憑  『和人』
譲原昌子  『朝鮮ヤキ』
吉田知子  『豊原』
渡辺 毅  『ぼくたちの〈日露〉戦争』
李恢成   『砧をうつ女』


【地域編】
18(2012-12)


『帝国日本と台湾・南方』


反乱を起こす「蕃社」の人々、志願兵となる台湾の若者たち。南方や南洋の島々に残された支配と戦争の傷痕。


解説=川村 湊


佐藤春夫  『奇談』
伊藤永之介 『総督府模範竹林』
真杉静枝  『南方の言葉』
周金波   『志願兵』
龍瑛宗   『若い海』
楊 逵   『増産の蔭に』
日影丈吉  『虹』
邱永漢   『密入国者の手記』
池宮城積宝 『蕃界巡査の死』
大鹿 卓  『野蛮人』
中村地平  『霧の蕃社』
坂口 れい子 『蕃婦ロポウの話』
高見 順  『諸民族』
森 三千代 『国違い』
海音寺潮五郎 『コーランポーの記』
阿部知二  『あらまんだ』
戸石泰一  『待ちつづける「兵補」』
窪田 精  『春島物語』
池澤夏樹  『ホセさんの尋ね人』
辻原 登  『枯葉の中の青い炎』
◎詩歌 金子光晴『馬拉加』『Memo』 春日井 建(短歌)  金子兜太(俳句)


【地域編】
19 (2011-06)


『ヒロシマ・ナガサキ』


原爆投下の言語を絶する惨状。さらには水爆、原発へと拡大する現在の核状況を直視した被爆国日本のメッセージ。


解説=成田龍一


原 民喜  『夏の花』
大田洋子  『屍の街』
林 京子  『祭りの場』
川上宗薫  『残存者』
中山士朗  『死の影』
井上ひさし 『少年口伝隊一九四五』
井上光晴  『夏の客』
美輪明宏  『戦』
後藤みな子 『炭塵のふる町』
金在南   『暗やみの夕顔』
青来有一  『鳥』
橋爪 健  『死の灰は天を覆う』
大江健三郎 『アトミック・エイジの守護神』
水上勉   『金槌の話』
小田 実  『「三千軍兵」の墓』
田口ランディ『似島めぐり』
◎詩歌 栗原貞子『生ましめんかな』 峠 三吉『八月六日』 山田かん『浦上へ』 正田篠枝(短歌) 竹山 広(短歌) 三橋敏雄(俳句) 松尾あつゆき(俳句) ◎川柳


【地域編】
20 (2012-05)


『オキナワ 終わらぬ戦争』


住民に多大な犠牲を強いた沖縄戦、戦後は基地の島として苦難を生きる。沖縄の「戦争」は今もつづいている。


解説=高橋敏夫


長堂英吉  『海鳴り』
知念正真  『人類館』
霜多正次  『虜囚の哭』
大城立裕  『カクテル・パーティー』
又吉栄喜  『ギンネム屋敷』
吉田スエ子 『嘉間良心中』
目取真 俊 『平和通りと名付けられた街を歩いて』
田宮虎彦  『夜』
岡部伊都子 『ふたたび「沖縄の道」』
灰谷健次郎 『手』
桐山 襲  『聖なる夜 聖なる穴』
◎詩歌 山之口 貘『沖縄よどこへ行く』 高良 勉『アカシア島』 ◎川柳




【資料編】
別巻(2013‐09)


[Ⅰ]〈戦争と文学〉の一五〇年


[Ⅱ]〈戦争と文学〉長編作品紹介


[Ⅲ]〈戦争と文学〉年表 1893~1989


日清・日露戦争の時代     宗像和重
第一次世界大戦の時代     中山弘明
日中戦争の時代     中谷いずみ
太平洋戦争前後の時代     紅野謙介
朝鮮戦争・ベトナム戦争の時代     坪井秀人
冷戦の終結と新たな戦争の時代     陣野俊史
エンターテインメント小説と戦争     杉江松恋
SF小説と戦争     大森望


とりあげられる作品
徳冨蘆花『不如帰』
武者小路実篤『或る青年の夢』
火野葦平『兵隊三部作』
菊池寛『満鉄外史』
野間宏『真空地帯』
五味川純平『人間の條件』
丸谷才一『笹まくら』
司馬遼太郎『坂の上の雲』
開高健『夏の闇』
宮部みゆき『蒲生邸事件』
森博嗣『スカイ・クロラ』
赤坂真理『東京プリズン』
 ほか


その他、コレクション戦争×文学 収録作品索引など






☆☆☆☆☆


 さらにここから精選された「セレクション 戦争と文学」シリーズが去年から集英社文庫で刊行されており、2020年1月17日、つまり本日、第7巻が発売される。阪神淡路大震災を偲ぶ日でもあるこの日を刊行日にしたのは偶然じゃないと思うなあ。表紙は手塚治虫先生。文庫といっても分厚くて、けっこう値段も張るけどね。


集英社文庫


セレクション戦争と文学 1  ヒロシマ・ナガサキ
原 民喜 他


広島と長崎に原爆が落ちた日、世界は一変した――。


言語を絶する被爆地の惨状を書きとどめた、原民喜の名作「夏の花」。広島と長崎での被爆体験をそれぞれ綴った、大田洋子「屍の街」と林京子「祭りの場」。


その他、井上ひさし「少年口伝隊一九四五」、大江健三郎「アトミック・エイジの守護神」、田口ランディ「似島めぐり」など、現代作家の視点も交え、原水爆の惨禍を描き出した作品を収録。


2019年7月19日発売





セレクション戦争と文学 2  アジア太平洋戦争
太宰 治 他


海も空も人間も、戦争に染まった――。
極限下で発せられる人間の偽りのない思い、戦争の実態とは。
名だたる作家たちが遺したアジア太平洋戦争の傑作群、その生きた言葉を現代の視点で読みなおす。


太宰治「待つ」、川端康成「生命の樹」、三島由紀夫「英霊の声」、島尾敏雄「出発は遂に訪れず」、野間宏「バターン白昼の戦」、吉村昭「手首の記憶」、吉田満「戦艦大和ノ最期」、大城立裕「亀甲墓」他。


2019年8月21日発売





セレクション戦争と文学 3  9・11 変容する戦争
リービ 英雄 他


2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロは、戦争の形態を一変させた。
9・11事件に象徴される新しい戦争の姿を、現代の作家たちが描き出す。


リービ英雄「千々にくだけて」、宮内勝典「ポスト9・11」、池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」、米原万里「バグダッドの靴磨き」、岡田利規の戯曲「三月の5日間」、平野啓一郎「義足」、重松清「ナイフ」、シリン・ネザマフィ「サラム」他


2019年9月20日発売





セレクション戦争と文学 4  女性たちの戦争
大原 富枝 他


どの家にも学校にも職場にも駅にも田畑にも戦争の空気が漂っていた時代。
女性、子供、捕虜の視点で描かれる、それぞれの戦争の日常。


大原富枝「祝出征」、田辺聖子「文明開化」、河野多恵子「鉄の魚」、瀬戸内寂聴「女子大生・曲愛玲」、竹西寛子「兵隊宿」、大庭みな子「むかし女がいた」、向田邦子「字のない葉書/ごはん」、石牟礼道子「木霊」、寺山修司「誰でせう/玉音放送」、三木卓「鶸」他。


2019年10月18日発売





セレクション戦争と文学 5  日中戦争
胡桃沢 耕史 他


満洲国建国以降も版図を拡大しようとする日本軍部。ついに昭和12年7月、盧溝橋で日中両軍が衝突、全面戦争へと展開する。
本巻では、日中戦争の進展に添うかたちで作品を配列し、日中戦争の足跡を名作で辿ることを目的とした。
満洲国成立後の西域対策をテーマとしたユニークな胡桃沢耕史の「東干」、戦争への文学者の態度を表明した小林秀雄のエッセイをはじめとして、伊藤桂一、田村泰次郎らの名作を配し、兵士と住民の生きた戦争の姿を伝える。
語り継がれずに消えてゆく記憶を保存するという使命を、戦争文学は担っている。


(収録の作家)胡桃沢耕史、和辻哲郎、小林秀雄、日比野士朗、石川達三、武田麟太郎、火野葦平、田中英光、伊藤桂一、藤枝静男、壇一雄、駒田信二、田村泰次郎、田中小実昌、富士正晴、棟田博、五味川純平、阿川弘之
(解説)浅田次郎
(付録インタビュー)伊藤桂一×浅田次郎対談


2019年11月20日発売





セレクション戦争と文学 6  イマジネーションの戦争
芥川 龍之介 他


人類にとって戦争とはなんなのかを考えるために、僕はSFを書きはじめたんです(小松左京・付録インタビュー)。虚構の戦争が照射する、人間のリアルとは――。


伊藤計劃「The Indifference Engine」、秋山瑞人「おれはミサイル」、田中慎弥「犬と鴉」、赤川次郎「悪夢の果て」、筒井康隆「通いの軍隊」、小松左京「春の軍隊」、安部公房「鉄砲屋」、小島信夫「城壁」、宮沢賢治「鳥の北斗七星」他。


2019年12月19日発売





セレクション戦争と文学 7  戦時下の青春


学徒動員、徴用工、B29の本土襲来。鬱屈した若者の青春が、戦火とともに燃え上がる。井上光晴、江戸川乱歩、野坂昭如ほか収録。


2020年1月17日発売


当ブログ内 関連記事

なぜ日本はアメリカと戦争をしたか。




第162回芥川賞受賞作決定。

2020-01-15 | 純文学って何?
 しかし私も立場上、もう少し芥川賞の動向に気を配らねばいけませんなあ……。こうアニメの話ばっかしてちゃねえ……。でも正直、つまんないんだよなあ。ここ10年で「これは。」と思ったのは小野正嗣さんの「九年前の祈り」だけだもの。まあ、まだ読んでないのもあるし、いいかげんなことを言ってるんですけどね。なんかこう、いまどきの純文学のハナシになると、ふて腐れたみたいになっちゃって、よくない傾向なんだけども。
 というわけで、2019(令和1)年下半期の芥川龍之介賞は、古川真人さんの「背高泡立草」に決まりました。


 これで2010年代の受賞作はこうなりますね。


第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」
第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」
第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」/町屋良平「1R1分34秒」
第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」
第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」/若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」
第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」
第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」
第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」
第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」/本谷有希子「異類婚姻譚」
第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」/又吉直樹「火花」
第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」
第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」
第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」
第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」
第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」
第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」
第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」/田中慎弥「共喰い」
第145回(2011年上半期) - 該当作品なし
第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」/西村賢太「苦役列車」
第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」




 うん、沼田さんの「影裏」からこっちはぜんぜん読んでねえわ。あははは。これでいっぱしのこと言っちゃダメだね。なるべく早く読むようにしよう。


 「芥川賞」で検索してたら、面白い記事を見つけました。西日本新聞の文化欄なんだけど。




◎芥川賞、記者が選んだ作品は? 候補作読み比べ座談会
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/575508/





 1ページめが座談形式での短評。2ページめが各候補作のあらすじ。こういう時事性の高いものは早めに削除されることが多いんで、わかりづらい箇所に少しだけ手を加えてコピペしておきましょう。




 第162回芥川賞候補作品のあらすじ


 木村友祐「幼な子の聖戦」(すばる11月号)
 東京暮らしをやめて故郷の東北で村議をする史郎は、県議に弱みを握られ、村長選に出た幼なじみの選挙妨害を命じられる。暗い充実感を覚えるが、権力と人間のエゴを前にゆらぐ。


 高尾長良「音に聞く」(文学界9月号)
 翻訳家の有智子と、その妹で作曲家を志す真名は、生き別れとなっていた音楽理論研究者の父が住むウィーンに行く。父に複雑な思いを抱く有智子はこの音楽の都で音と言葉についての思索を深め、父を知る。


 千葉雅也「デッドライン」(新潮9月号)
 主人公はフランス現代思想を学ぶゲイの大学院生。「自分は動物なのか女性なのか」と、性的少数者として哲学的に悩みながら、修士論文の締め切りに死線(デッドライン)を重ね合わせて苦闘する。


 乗代雄介「最高の任務」(群像12月号)
 大学の卒業式の日に景子は家族と小旅行に出かける。旅のなかで思い出すのは亡き叔母の面影。やがて叔母の優しい計らいの数々を知り、その思いにかなう姪になりたいと願う。


 ◎古川真人「背高泡立草」(すばる10月号)
 奈美は長崎の離島にある母の実家の空き家で草刈りをする。草刈りと並行して島と家の歴史が重層的に語られ、江戸時代の捕鯨や戦時中の満州移住などが短編連作の形で描かれる。






 今回のばあい、売れっ子哲学者の千葉雅也さんがわりと話題になってたのかな? 前回と前々回は社会学者の古市憲寿さんでしたっけ。これまで画家とかミュージシャンとかパンク歌手とか劇団関係者とか芸人とか、異業種のひとの参入は珍しくないし(むしろ業界のほうが積極的に迎え入れてる傾向アリ)、文学畑の学者だったら松浦寿輝さん(この方は詩人でもありますが)とか堀江敏幸さん(この方は早くからエッセイの名手として名を馳せてましたが)とかがいらっしゃったけど、文学プロパーじゃない学者さんってのは意外となかったんだよね。面白い流れだと思いますけども。
 いずれにせよ、いい小説だったら誰が書いたものでもいいんだけどね。署名がなくてもいいくらいでね。でもリアルタイムの純文学で、そういうのになかなか出会えないんで、「物語」に行っちゃうんだよなあ。





村上春樹がもっとも影響を受けた3冊。

2019-12-31 | 純文学って何?










 自らが翻訳した中央公論新社版のフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(2006年)のあとがきで、村上さんはこう書いている。


「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」(333ページ)


 ノーベル賞を取りざたされるほどの作家がここまで手の内を明かすのは珍しくて、げんに大江健三郎さんにせよ、川端康成にせよ、こんなに明快に影響関係を語ってはいない。村上春樹の研究者は恵まれている。かもしれない。
 名翻訳家でもある春樹さんはこのあとチャンドラー『ロング・グッドバイ』も訳して、ハヤカワ文庫から出ている。さすがにロシア語まではアレなんで、『カラマーゾフの兄弟』には手を付けてはおられぬが(ハルキ訳の「カラマーゾフ」や『悪霊』を読んでみたい。という妙な欲望が正直ぼくにはあるのだけども)。
 もちろん、誰であろうと3冊の本だけで作品を書くことはできない。まして作家になることはできない。ざっと思い巡らせても、すぐにカート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンの名が浮かぶ。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』という初期の2作はこの2人の影響下で書かれた。ことにヴォネガットは大きい。
 さらにはフランツ・カフカという巨人もいる。偉くなってからはあまり公言されなくなったが、一時はエッセイの中でスティーブン・キングの名前もよく見かけた。あのユニークな不条理感とホラーテイストは、「カフカとキングの幸福(?)なマリアージュ」と呼んでみたい気もする。
 そんななかで、ことさら「ギャツビー」「グッドバイ」「カラマーゾフ」を挙げるんだから、これはたんなる好みや趣味の問題じゃないのだ。ハルキ文学の根源にかかわる話なのである。

 『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)というハルキ論をもつ内田樹さんはこう書く。


村上春樹の系譜と構造
http://blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html


(一部を抜粋して引用)


 『羊をめぐる冒険』を書いた時に、村上春樹はある「共通の基層」に触れた。それは世界文学の水脈のようなものだったのではないかと僕は思います。時代を超え、国境を越えて、滔々と流れている地下水流がある。それがさまざまな時代の、さまざまな作家たちを駆り立てて、物語を書かせてきた。それと同じ「水脈」を『羊をめぐる冒険』を書きつつある作家の鑿(のみ)は掘り当てた。

 『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹がレイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。


 『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」で、この二作品(「グッドバイ」と「ギャツビー」)の相似について村上春樹は言及しています。
「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、早川書房、2007年、547頁)

 村上はこの二人の作家の共通点として、アイルランド系であること、アルコールの問題を抱えていたこと、生計を立てるために映画ビジネスにかかわったこと、「どちらも自らの確かな文体を持った、優れた文章家だった。何はなくとも文章を書かずにはいられないというタイプの、生来の文筆家だった。いくぶん破滅的で、いくぶん感傷的な、そしてある場合には自己愛に向かいがちな傾向も持ち合わせており、どちらもやたらたくさん手紙を書き残した。そして何よりも、彼らはロマンスというものの力を信じていた。」(同書、547-548頁)といった気質的なものを列挙していますが、もちろんそれだけのはずがない。二つの物語には共通の構造があることも指摘しています。

 「そのような仮説を頭に置いて『ロング・グッドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャツビーとすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。(……)ギャツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。

 マーロウはテリー・レノックスの人格的な弱さを、その奥にある闇と、徳義的退廃をじゅうぶん承知の上で、それでも彼と友情を結ぶ。そして知らず知らずのうちに、彼の心はテリー・レノックスの心と深いところで結びついてしまう。」(同書、550-551頁)

 「主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みにからめとられていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。」(同書、553頁)

 この解釈に僕は付け加えることはありません。でも、村上春樹はこの「語り手」と「対象」の鏡像関係がそのまま『羊をめぐる冒険』の「僕」と「鼠」のそれであることについては言及していません。故意の言い落としなのか、それとも気づいていないのか。たぶん、気づいていないのだと思います。でも、どちらであれ、それは『羊をめぐる冒険』という作品が世界文学の鉱脈に連なるものであるという文学史的事実を揺がすことではありません。
むしろ重要なのは、なぜこの物語的原型がさまざまな作家たちに「同じ物語」を書かせるのかというより本質的な問いの方です。

 これについての僕の解釈は、これらはどれも「少年期との訣別」を扱っているというものです。

 男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、男たちは自分がもう「少年」ではないこと、自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に失われたことを知ります。それを切り捨てないと「大人の男」になれない。そういう決まりなのです。けれども、それは確かに自分の中にあった自分の生命の一部分です。それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」がもたらす苦痛を癒すための物語を用意しなければならない。それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、本質的にはおのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語なのです。



 引用ここまで。

 つまり、物語論的にも主題論的にも、ハルキ文学は『グレード・ギャツビー』≒『ロング・グッドバイ』の強い影響下にある、というか、「同じ水脈」を分かちもっている。と内田さんはいっている。ぼくもそう思う。
 『カラマーゾフの兄弟』が等閑視されているけれど、あれは「神」との絡みが大きいし、登場人物も多いし、「少年期との訣別」という括りにも収まらず、論旨にそぐわないから内田氏も外したんだろう。「カラマーゾフ」については、春樹さんも別の場所で幾度か言及しているが、ドストエフスキーと村上春樹とをきっちりと関連付けて論じたエッセイをぼくはまだ読んだことがなく、自分でしっかり考えたこともない(本音をいうと、どうみてもドスト氏のほうがハルキさんより深いよな……との思いが拭えず、なかなか真剣に考える気になれぬのだが)。
 これはあくまで1982(昭和57)年に出た『羊をめぐる冒険』をめぐる話であって、そのあともちろん村上文学はさらなる発展を遂げ、広がりと厚みを増してはいくんだけれど、「おのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語」という基幹のモチーフは変わっていないとぼく個人は思う。
 『海辺のカフカ』(2002年)『1Q84』(2009~2010年)においてはここに「父殺し」「《治癒者》としての母性(女性)」などのエディプス的なテーマが絡まり、世界文学の伝統へつながる普遍性がいっそう高まっていく(『騎士団長殺し』は未読です)のだけれど、それでもやっぱり、ハルキ文学の根底にあるのは「少年期との訣別」にまつわる透明で切ない哀しみであって、小説好きの中にも「ハルキだけはちょっとなあ……。」と仰る方が少なくないのはそのせいもあるんじゃないか。
 だからぼくとしては、「3冊」のうちで、20世紀アメリカを代表する2人の作家のものではなく、あの19世紀ロシアの大作家の作品による影響こそが、もっともっとハルキ文学に顕現してくれないものかと願う。春樹さんの訳した『カラマーゾフの兄弟』は読めずとも、「村上春樹の書いたカラマーゾフの兄弟」をこそ読んでみたいと願ってるのだ。


おまけ
 「WIRED」による最新インタビュー
2020.01.02 THU 18:00
村上春樹、井戸の底の世界を語る:The Underground Worlds of Haruki Murakami



トポス

2019-12-13 | 純文学って何?





 「ここで取り上げた話、どれにしても、きちんと《土地》があります。その土地の性格があり、そこでの人の暮らし、それが土台になって話が始まる。そういう、話の土台としての土地、《トポス》は、とても大事です。それがないままに話を広げると、結局のところそれは、ファンタジーにしかならない。世界文学では、或る土地と人との仲を書きながら、そのうえに《移動》という原理が重なってくる。この点はやはり、忘れることはできないと思います。今の時代、マスコミが発達して、世界はずいぶん狭くなったように思います。しかし実際には、あちらこちら、みんな違うことを考え、違う文化を持ち、違う言葉をしゃべり、違う悩み方をしています。それら世界全体を見るために、これらの本を読んで、言ってみれば、書物の中で旅をしてみてください。」(池澤夏樹)



 今からちょうど10年まえ、2009年の10月から11月にかけて、NHK教育テレビの「知る楽」枠で放映された「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」の最終回の〆の口上。
 「知る楽」はいわゆる生涯学習番組で、2005年から2010年までやっていた。1982年から1990年までの「NHK市民大学」、1992年4月6日から1999年までの「NHK人間大学」、1999年から2005年までの「NHK人間講座」が前身になっている。
 見てのとおり、改変のたびにタイトルが少しずつ軟化していき、内容もそれにつれて柔らかくなっていった。やがてNHK教育テレビ自体がETVから「Eテレ」になり、今や「講座」と銘打つほどの大人向け学習番組はやってないようだ。
 池澤さんは長らく芥川賞の選考を務めたベテランだが、世界文学通としても知られ(作家なんだから世界文学にも通じていて当然だと思うかも知れぬが、そういうわけでもないのである)、この小説不振、出版不況のなか、河出書房新社から個人編集の世界文学全集を出して、そこそこ売れている。


 この講座ではその中から、
 ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』
 ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
 ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』
 バオ・ニン『戦争の悲しみ』
 カルロス・フェンテス『老いぼれグリンゴ』
 ジョン・アプダイク『クーデタ』
 メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』。
 の7作が取り上げられた。
 7作いずれも、「きちんと《土地》がある。その土地の性格があり、そこでの人の暮らし、それが土台になって話が始まる。」わけである。


 この口上、ぼくは耳コピしてノートに書きとったんだけど、のちに番組テキストを加筆・修正して出された『現代世界の十大小説』(NHK出版新書)には見当たらない。それもあってこの記事を立てた。
 トポスとは、場所を意味するギリシャ語だ。
 ウィキ先輩は、「日本で小説を論じる文脈でこの語が使われる場合、歴史や神話が畳み込まれ、特別な意味を持ち、物語を発生させる場所という意味になる。例えば、大江健三郎の『四国の谷間の森』や中上健次の『紀州』『熊野』がそれである。」
 といっている。
 トポスというと常にこのお二方が引き合いに出される。外国の例ならば、ガルシア=マルケスの「マコンド」、フォークナーの「ヨクナパトーファ」が出る。いやこうやって4例を並列するのはじつはおかしくて、系譜でいえばフォークナーがすべての源流であって、あとの面々はみなお弟子さんみたいなものなのだが。
 「歴史や神話が畳み込まれ」がミソで、藤沢周平の「海坂(うなさか)藩」なんか、よく作品の舞台になるけどなかなかそうは呼ばれない。阿部和重の「神町」も、トポスと呼ばれないことはないけれど、大江さんの谷間の森や中上の熊野に比べるとやっぱり軽い。


 ファンタジーにもむろん、舞台としての「場所」はある。だが、その土地の風土や自然、あるいはそこで暮らす人々の生活が科学的な、あるいは身体的な意味で精確に造り込まれているかというと、それは怪しい。それでは「文学」にならないぞと、ここでの池澤さんは仰っている。ぼくもそう思う。


 池澤夏樹・責任編集の河出版・世界文学全集からは、『現代世界の十大小説』のほか、もう一冊、『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出文庫)という本も派生している。こちらは夕刊フジに連載されたもの。くだけた口調で、よみやすい現代世界文学ガイドになっている。
 おおむね一貫してるのは、ポスト・コロニアリズム、アンチ・アメリカニズムの精神だ(それだけではないが)。
 旧植民地から、あるいは、アメリカという強大な国家に冷遇される生活圏から発せられた言葉。そんな言葉によって紡がれた作品が多く取り上げられているのである。




 池澤さんは読書家であるのと同じくらい、熟練の旅行家でもある。
 冒頭に掲げた引用文では、トポスのほかに、「移動」も重んじられている。
 ファンタジーにもまた、旅はつきものだ。ただ、いかに奇想を凝らして風変わりな町やら村やらを描いても、そこで暮らす住民の息づかいがしっかりと捉えられていなければ、想像力のお遊戯に留まってしまいかねない。
 今ぼくたちが享受している「現実」を照射し返すだけの力を持ちえない。それだけの力を持ちえないものは、消閑の具としては楽しめても、「文学」とは呼べないのだ。