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流山で新撰組組長、近藤勇は新政府軍にとらえられましたが、難を逃れ再起を期する副長土方歳三は内藤隼人と変名し、幕府陸軍奉行の大鳥圭介らと会津を目指し、1868年4月13日から15日にかけて布施の東海寺(弁天様)近辺の旅籠十数件に総勢1、000人以上で宿泊したという。会津に行くには利根川を渡らなければならないので、幕府の定船所があった布施の七里が渡しに来たのです。当時は成田山さんを凌ぐほど栄えていたから、十数件の宿があっても不思議はないですね。今は、1件もないですが。でも、昔の面影を残すのは、橋本屋さんくらいですかね。古老の話によると、この宿の柱には幕府軍の兵士の刀傷が残っていたそうな。
ひょっとすると、土方歳三もこの逗留中、布施弁天に必勝祈願にいったかもしれませんね。橋本屋さんのほかに名前が分かっている宿としては、釜平さん、藤田屋さん等がありました。布施弁天近くの寺山地区は、弁天様の門前町的な役割を果たしていたみたい。だから、寺山地区の人は、今でも宿(しゅく)の人と呼ばれることがあるそうです。1700年代に一番繁栄したときは、江戸から1泊で行ける所として、男衆にはに人気があったそうな?なぜなら、神社、仏閣参りなら、移動が大目にみられたから、それにかこつけてーーー。松戸の宿も栄えたのもこれが一つに数えられるようです。
ひょっとすると、土方歳三もこの逗留中、布施弁天に必勝祈願にいったかもしれませんね。橋本屋さんのほかに名前が分かっている宿としては、釜平さん、藤田屋さん等がありました。布施弁天近くの寺山地区は、弁天様の門前町的な役割を果たしていたみたい。だから、寺山地区の人は、今でも宿(しゅく)の人と呼ばれることがあるそうです。1700年代に一番繁栄したときは、江戸から1泊で行ける所として、男衆にはに人気があったそうな?なぜなら、神社、仏閣参りなら、移動が大目にみられたから、それにかこつけてーーー。松戸の宿も栄えたのもこれが一つに数えられるようです。
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