布施弁天(東海寺)と永遠のライバル(?)関係にある成田山新勝寺と将門伝説との関係についてふれてみたい。同じ真言宗でありながら、弁天様(807年開山)は先般記したように、将門が必勝祈願したところ、逆に成田山(940年開山)は、将門の調伏のために護摩祈祷した寺。つまり、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が天慶3年(940年)に将門の調伏のために一心に護摩祈祷を行い、満願の日に将門が滅亡したので、天皇は、国司に命じてお堂を建立させ、「新勝寺」の寺号を与え、東国鎮護の霊場としての成田山が開山させた訳なのです。
だから、繁栄の仕方も正反対。江戸時代は、成田山をして、早く布施弁天みたく繁栄して見たいものよと嘆かせたが、明治以降は、汽車・電車等の交通手段の発達により、立場は逆転し、布施弁天はとうてい成田山に及ぶべきもない状態となっている。明治以降は逆賊将門が定着されたのだから、やむをえないと言えばやむをえないのだろう。参考例として、正月3ケ日の成田山への参拝者は、年間を通しての布施弁天の参拝者よりも多い。
栄枯盛衰といえばそれまでだが、いつか、またライバルと言われる時代が訪れることを、唯,唯、願うのみ。
だから、繁栄の仕方も正反対。江戸時代は、成田山をして、早く布施弁天みたく繁栄して見たいものよと嘆かせたが、明治以降は、汽車・電車等の交通手段の発達により、立場は逆転し、布施弁天はとうてい成田山に及ぶべきもない状態となっている。明治以降は逆賊将門が定着されたのだから、やむをえないと言えばやむをえないのだろう。参考例として、正月3ケ日の成田山への参拝者は、年間を通しての布施弁天の参拝者よりも多い。
栄枯盛衰といえばそれまでだが、いつか、またライバルと言われる時代が訪れることを、唯,唯、願うのみ。
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