布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

弁天雑学7――昔と今とでは建物の位置が違う?!

2006-12-13 | 歴史
右記の写真(柏市歴史アルバムより)は,昭和初期のころの布施弁天様の境内の様子ですが,どこの場所かわかりますか?
古文書によると享保9年(1724年)から行われていた八朔相撲は,写真のように弁天様の境内で行われていましたが,力士の後ろに写っている建物は、本堂ではありません。現在宝物殿があるところに,観音堂があったそうで,この観音堂をバックにした写真なのだそうです。この観音堂も,どうも当初はここではなく,本堂の裏方にあったようです。
そして,相撲をとったところは,現在三重の塔が立っているところと手洗い場となっているところが広場で,そこで行われていたようです。
特に変わったというのは,現在,亀の山と首の部分と胴の部分が市の道路で切り離されてしまっているが,昔はつながっていたようです。一体となっていたんですよ。本堂で売っている弁天様の古地図1(1枚1、000円)をみれば、今とずいぶん違っていることがわかります。そして,1761年に寄進していただいた「あけぼの山」や他の田・神社等の除地等もあり,実に広大な敷地を有し,現在の成田山に負けないほどの面積があったのです。まさに,関東三弁天の一つにふさわしかった,威容堂々の感があったのです。
また,成田山では,1000年以上,1日たりとも休まず,護摩をたいているそうですが,紅龍山東海寺でも本堂の中に護摩所はあったのです。宝永中(1704年~1710年)に領主本多氏の祈願所にも指定されていたので。事実,お堂に入って上をみるとわかりますが,天井は黒くすすけています。ところが,吹き抜けではないため,ぼや等が発生するので,いつのまにか,護摩はたかれなくなりました。そして,そのシンボルでもある不動明王も,昭和48年,三重塔の一階に安置されるまで,忘れられた存在だったのです。さらに,これを復活させるべく,1200年祭にあわせて,専用駐車場(最勝閣階段下の売店の反対側)のところに護摩堂を建てる計画があったそうですが,聞くところによると,それも億というお金を集めるメドがたたず,断念したそうです。まことに,残念,栄華再びの夢はますます遠のくばかりか。
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