市内の松ヶ崎という所に、布施弁天東海寺の故牛田大僧正が平成17年まで住職を兼務をしていた真言宗豊山派の日通山覚王寺があるということを以前に書きましたが、そこに、故牛田大僧正が覚王寺の中興の人であるという記念碑があるのを最近まで知りませんでした。
さて、このお寺は、寛文3年(1663年)に開山したといわれ、本山は奈良長谷寺。覚王寺には、仏像の体内から見つかった銘文から、天仁元年(1108)又は仁安3年(1168)に作られたといわれ、昭和50年に千葉県指定文化財に指定された木造の大日如来坐像(像高さが56.8㌢)があります。だが、どうしても不思議なのは、この寺の開山と坐像との関係がどうなっているかということです。作者は、平安時代の六郎四郎ではないかといわれている。当時の京都の仏師は僧籍にあったため、俗名を名乗る六郎四郎は、京都で学んだ後、今の花野井あたりに住み、この地で制作したのではないかと推測する人もいて、自分は更に何がなんだかわからなくなってしまうのです。確かに、覚王寺は、火事で焼け、過去帳等などの書類は焼失し、正確な由緒等は分からなくなっているそうで、新住職の木村さんも言葉を失っていました。
しかも、柏市民俗資料12のP55に地元の人から聞き取った言い伝えとして、「覚王寺はもともと原堂と呼んでいたリョウの跡で、その原堂に祀ってあった本尊が阿弥陀さまで、その阿弥陀さまを覚王寺の本尊としたが、原堂のところに大日さまが別に祀られており、その大日さまを覚王寺が引取りしまわれていたものを、現在の住職がこれではいけないということで、大日さまを現在の本尊にしたという。」(原文のとおり)といわれている。この資料は、1983年に柏市教育委員会が発行しているものですが、この言い伝えは更に私の頭を混乱させるのに充分でした。
まあ、それは、それとしましょう。この寺には、近年作られた像がいくつかあります。本堂に向かって左側には、小さな乳飲み子を胸にやさしく微笑む観音像があり、本堂の裏側には3mくらいの釈迦の涅槃像もあります。更に参門前の階段の下には、大師像がありますが、なにか、あまりこうした近代的な青銅像が配置されると、寺としての風格を充分醸し出している本寺のイメージが、少しずつ崩れて来るように感じてしまうのは私だけでしょうか?また、本寺は四季の花々が美しく咲くことでも知られており、私も行ったときにも本堂前の梅の木は満開でしたし、これから咲く桜もとてもきれいです。
さて、このお寺は、寛文3年(1663年)に開山したといわれ、本山は奈良長谷寺。覚王寺には、仏像の体内から見つかった銘文から、天仁元年(1108)又は仁安3年(1168)に作られたといわれ、昭和50年に千葉県指定文化財に指定された木造の大日如来坐像(像高さが56.8㌢)があります。だが、どうしても不思議なのは、この寺の開山と坐像との関係がどうなっているかということです。作者は、平安時代の六郎四郎ではないかといわれている。当時の京都の仏師は僧籍にあったため、俗名を名乗る六郎四郎は、京都で学んだ後、今の花野井あたりに住み、この地で制作したのではないかと推測する人もいて、自分は更に何がなんだかわからなくなってしまうのです。確かに、覚王寺は、火事で焼け、過去帳等などの書類は焼失し、正確な由緒等は分からなくなっているそうで、新住職の木村さんも言葉を失っていました。
しかも、柏市民俗資料12のP55に地元の人から聞き取った言い伝えとして、「覚王寺はもともと原堂と呼んでいたリョウの跡で、その原堂に祀ってあった本尊が阿弥陀さまで、その阿弥陀さまを覚王寺の本尊としたが、原堂のところに大日さまが別に祀られており、その大日さまを覚王寺が引取りしまわれていたものを、現在の住職がこれではいけないということで、大日さまを現在の本尊にしたという。」(原文のとおり)といわれている。この資料は、1983年に柏市教育委員会が発行しているものですが、この言い伝えは更に私の頭を混乱させるのに充分でした。
まあ、それは、それとしましょう。この寺には、近年作られた像がいくつかあります。本堂に向かって左側には、小さな乳飲み子を胸にやさしく微笑む観音像があり、本堂の裏側には3mくらいの釈迦の涅槃像もあります。更に参門前の階段の下には、大師像がありますが、なにか、あまりこうした近代的な青銅像が配置されると、寺としての風格を充分醸し出している本寺のイメージが、少しずつ崩れて来るように感じてしまうのは私だけでしょうか?また、本寺は四季の花々が美しく咲くことでも知られており、私も行ったときにも本堂前の梅の木は満開でしたし、これから咲く桜もとてもきれいです。
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