「柏市史年表」によると
1674年布施村又右衛門(後藤)、里人を集めて藁にて小社を造り弁才天を祀るとなっている。布施村の古谷にあった東海寺がこの布施弁天の地に移ってきたのは1705年だそうな。
問題は、布施村又右衛門さんがなぜ弁才天を祭ったかというと、私なりに解釈すると1616年に布施の七里が渡しが江戸幕府の定船所になり、その荷宿の一軒となり繁栄していた後藤家が商売繁盛と万民の幸せを祈って設けたのではないだろうか思われる。弁財天様は現世ご利益の神様ですからね。それから100年間、布施弁天は、当時の成田さんに「早く布施弁天みたくなりたいものだ」と言わしめた程繁栄したそうな。
もちろん、その当時の社地は広大であったことは言うまでもないが、その話は次回にーーー続く
1674年布施村又右衛門(後藤)、里人を集めて藁にて小社を造り弁才天を祀るとなっている。布施村の古谷にあった東海寺がこの布施弁天の地に移ってきたのは1705年だそうな。
問題は、布施村又右衛門さんがなぜ弁才天を祭ったかというと、私なりに解釈すると1616年に布施の七里が渡しが江戸幕府の定船所になり、その荷宿の一軒となり繁栄していた後藤家が商売繁盛と万民の幸せを祈って設けたのではないだろうか思われる。弁財天様は現世ご利益の神様ですからね。それから100年間、布施弁天は、当時の成田さんに「早く布施弁天みたくなりたいものだ」と言わしめた程繁栄したそうな。
もちろん、その当時の社地は広大であったことは言うまでもないが、その話は次回にーーー続く