季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

贋物礼賛

2008年01月09日 | 芸術
フェルメールは大変好きな画家である。昨年「ミルクを注ぐ女」が来たのだが、混雑がいやでぐずぐずしている中に終わってしまった。ものすごく粗悪な画集をあらためて眺めて過ごす。救いようのない粗末な印刷なのに、しんと静まりかえった空気だけは感じ取る。考えてみれば不思議だ。本物とは何か?

僕の家はこの手のニセ物に溢れている。本物だったら大変だ。ソファーの横にフランス・ハルス、ピアノの向こうにはセザンヌといった具合だから。名画のコピーばかりではないか。その通り。理由は簡単、落ち着くからだ。今までに何度か、ああ欲しいなという「本物」に出会ったが高価で手が出なかった。「本物」を避けるのではない、経済が僕を避けるだけの話だ。壁に何かを架けるのならばせめて落ち着きを与えて欲しいのだ。

展覧会に行って「本物」を見るのも部屋でコピーを見るのも同じ僕だ。僕の心の側からするとそれだけは本物だ。アムステルダムの国立美術館やウフィチやクレラー・ミュラー、何遍も足を運んだところにまた行ってみたい気持ちは強い。ただ、画集に見入っているときにそんなことを考えていないのも本当だ。

本物を見ないと分からないというが、その前に親しんでいることはもっと大事だろう。僕の目なんぞは節穴だから正直に言えば本物をみたおかげで分かったことなぞめったにない。画集で見て詰まらないと思い、実物を見ていっぺんに宗旨替えしたのはブリューゲル(百姓ブリューゲル)くらいだ。

話のついでに部屋に架けてある複製について。これらは造幣局の版画師たちの技量を上げるため?の習作である。写真印刷と違って発色も美しくとても気に入っている。写真印刷が手軽に出来るようになるまではヨーロッパ中に複製専門の版画家がいたようである。ゴッホもそういう仕事に就こうかと真剣に語っている。僕のは造幣局の学習用という特異な目的のため、サイズが全部同じで、それだけは残念だ。ともあれ昔の絵画愛好家は今よりずっと美しいコピーを手に入れていたわけだ。今もそういう複製版画はどこかで刷られているのだろうか。知っている方はぜひ教えて下さい。


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