季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

モデル

2008年10月20日 | 芸術
有名モデルについて書いてみたい。

と言ったらどんな反応を示しますか?僕がお気に入りのモデルでもいるのか?最近のモデルは細すぎるとかいった感想でも書いてあるのか?僕を直接知っている人たちは急に興味津々だろう。実はね、と書いてみたいのだが、モデルなんて誰一人として知らないのだ。

ゴッホが自画像をたくさん描いているのはよく知られている。その理由は、執拗なまでに自分の姿を追求したことのほかに、モデルを雇う金が無かったからという側面がある。

ゴッホは夥しい数の手紙を弟に宛てて(友人や、妹宛てもかなりあるが、弟宛に比べるとずいぶん少ない)書いている。時々、誇らしげに「自分はその景色をもうそらで描ける(見ることなしに描ける)」と報告している。

画家は本当に対象を見て見て見尽くすのだなあ、と思わせる。

そもそもモデルは何故必要なのだろう。

ラファエロがマドンナを描こうと思い立つ。彼がまずすることは、フィレンツェの街中から、美しい女性を探し出すことであった。

これはどこかで読んだ気がするだけの話だ。間違っているかもしれないから、人に言わないほうが良いですよ。ただ、僕はそれはそうでなければならないと思うから、確かめもしないで書いてしまうけれど。

この人こそ、と定めた女性をモデルにマドンナを描く。ラファエロほどの天才が、たかが一人の美しい女性を、モデル無しで描けないのだろうか。イメージはすでにあるというのに。こうした素朴な疑問を持ってみたらどうだろう、考える糸口が見えてくる。

きれいな女性、というイメージだけが強くても、案外蜃気楼のように霞んでしまうものだ。試しにやってごらんなさい。女性は、素晴らしい偉丈夫を思い出そうと、男性は飛び切りの美人を空想しようとしてみるがよい。

結局、各自が自分がすでに知っている顔に似たイメージや、一種ぼんやりとした抽象的な姿しか思い浮かべることが出来ないことに気づく。

漫画はその点が大きく違う。漫画家は、もし美少女を描こうと思えば、自分が魅力を感じるところを強調する。細く長い足とか、パッチリした目とかね。モデルを使うまでもない、大切なのはイメージを持ち、それをなぞる技量を持つことだ。

ラファエロは見つけ出したモデルをスケッチし始める。そのとき、彼はすでにモデルの向こうに、彼の理想を見出している。仮にラファエロがモデルの美しさにぼうっとなってしまったら絵は完成を見ない。その代わり彼はモデルに惚れるわけだ。

ラファエロの絵筆は、いわばモデルというきっかけを待っていたと言っても良い。すでに書いたように、イデーだけでは駄目なのだ。

水溶液に種を入れて冷やすと結晶ができるでしょう。モデルはちょうどその種のような役割を果たすのだ。

ではきっかけを手に入れたラファエロの想像力は天馬が空を行くがごとく羽ばたくのだろうか。

これも違う。モデルさん、私はもう一人で描けるから来ないでよろしい、と言うことは彼にはできない。もしもモデルが帰ってしまって二度と現れなかったら、ラファエロの想像力(創造力でも良い)は再び現実味を失い漫画に成り果てる。

モデルと想像力は鶏と卵に似ている。途切れることのない連鎖だ。

音楽の場合、モデルは音だ。音がイデーを産むのか、イデーが音を産むのか、だれも答えられない。イデーは音を欲し、音は新たなイデーを生む。あらたなイデーは音を欲し・・とどこまでも続く。

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