季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

アングル

2009年06月21日 | 芸術
アングルに「泉」という名画がある。中学生のとき図書室の画集で見た記憶がある。画集に入っているくらいだから名画なのだろう。

この人は絵画史上でもセザンヌやピカソにまで影響をもたらした人だという。しかし僕にはそういう絵画史は興味がない。

昔からこの絵はなんだか薄っぺらい、安物という印象を持っていた。この人が絵について語ったいろいろ含蓄のありそうな言葉も知ってはいたが、それも僕の印象を覆す力を持つにはいたらなかった。

嫌いな芸術作品について多くを語るのは決して気持ちの良いものではないから、この際洗いざらい言ってしまっておこうか。

クラナッハ、この人がまた大嫌いである。浅薄そのものだ。ルター像や、それにもまして、アダムとイブの像が嫌いだ。総じてこの人の描く人物は表情が浅い。評価する人はどこを評価するのか。本心を知りたいと思ってしまうね。

だいたい、芸術なんてご大層な言い方は僕の実感からは遠いものである。芸術芸術と騒ぐのはやめた方が良かろう。

軽んじることを勧めているのではないよ。芸術は上等なものだという思い込みをさっぱり切り捨てたまえと言っているだけだ。

作品のいくつかにどうしようもなく惹きつけられる、抗いようもない。そうした強い思いだけで充分である。

さもないと、教養の一環として一渉り絵も見ましょう、音楽も聴きましょう、本も読みましょう。それ以外のものはお下品です、という手合いが増えるばかりだ。

芸術なんて上流階級?やインテリのお飾りではないよ。僕が高校生のころ、普通高校だったから僕も含めて勝手なことを、音楽について、絵画について、文芸について語っていた。ラヴェルの「ラ・ヴァルツ」はサロンのための音楽ではないか、取るに足りない、退嬰的なものだ、と語る友人がいた。そんな会話が一定の期間続いたように記憶する。ふと思い出した。

僕が何を語ったか、もう覚えていない。僕は音楽について理論武装なぞしていなかったから、ただ黙っていたのかもしれない。しかしこんなガキの会話の方が、知った振りのインテリよりよほどましである。もっとも卒業以来音信は途絶えたままだから、その後どういう人間になったかしらない。もしかしたら大変な理屈屋になっているかもしれない。

アングルの絵について漠然とした印象を引きずったまま、先日赤瀬川源平さんの本を読んでいたら「泉」について書かれていた。引きずったまま、と書くと何だか僕がこの「問題」について何十年にもわたって心悩ましてきたようだが、もちろんそんなことはない。嫌な絵だ、と思ったら忘れちまえばいいのだからね。

赤瀬川さんの本を読んだら偶然「泉」について書かれていて、それでかつての記憶が蘇ってきたに過ぎない。

これは僕の感じていたものを実にはっきりと言葉にしたもので、僕が何に嫌な気持ちを抱いていたのかようやく得心した。

自分が感じた事柄を言葉にしてみる、これは本当に大切にした方が良い。

この絵はちょっと正直に眺めたらピンクサロンの看板だ、というのだ。これにはさすがの僕もびっくりしたけれど、でもたいへん正直な感想だと思った。

瓶から流れ落ちる水だって、安っぽいビニール製にしか見えないではないか、とも書いている。なるほどそう言われればそうだ。画像を取り込んだから見てもらえば分かる。

少なくとも、この絵が嫌いであった僕の感じ、その正体がはっきり分かって僕は気持ちよかった。


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