季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

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2013年03月18日 | 音楽
三善メソッドって一体どうなっているのかな、と検索をしたら驚いたことに当ブログがずいぶん上位に出てきた。で、読んでみたら文章がいただけない。というより文意が通じない。我ながら情けない。意見自体はまったく変わっていないが、けっこうな人の目に触れているだろうから多少手直しした。

少し削って、少し言葉を補っただけだが。

ついでに少し記事を漁ったら、三善さんは「趣味の良い人を育てたい」と言ったらしい。やっぱりそうだったのだな。現代の演奏を趣味が悪いとみているのでしょう。僕もそれには同意したい。

でも日本語を考えてみても、僕が再三ここで書いたように、きれいに聞こえる文言のオンパレードでしょう。それは形容詞をはじめとする修飾過多であると言った方がよい。丸谷才一さんがむかし「日本語のために」の中で国語の教科書が文学趣味に偏りすぎだ、と言ったのもほぼ同じことなのである。

三善さんの曲は趣味が良い。僕もそう思う。それは上記の記事でも書いた。だがお洒落な音楽が趣味の良い演奏を育てるかと言えば、そうとは限るまい。現代に欠けているのは音楽および技術の骨格だというのが僕の意見である。音楽の骨格と聞けば、反射的に動きの乏しい堅苦しさを思う、それがすでに勘違いなのだ。

骨格を欠いたお洒落は、ただケバイだけになり易い。それではベートーヴェンもブラームスも、いやドビュッシーだって弾けないだろう。音符が鳴っているのを弾けるというなら話は別だ。でもそれならば現代の演奏は趣味がない、という根拠が失われる。

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