季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

7月の講座

2015年06月24日 | 音楽
7月19日(日)14:30開講
ギャラリースクエア(小田急線・成城学園前)

今回は会場がいつもと違います。できれば各々スリッパを御持参下さい。

やや手狭な空間ですが、僕の講座には適していると思います。CD再生もできるようなので、話もし易くなるだろうと思います。

今回はモーツァルトのイ短調ソナタを桐朋学園の学生・斉藤和香子さんが演奏します。

斉藤さんは僕の生徒ではありませんから、僕が何をどのように言うか、また彼女がそれにどのように反応するか分からず、それが楽しみでもあります。

演奏とは結局のところ「反応」ということなのです。簡単なところではテンポから始まり、あらゆる「解釈」に至るまで、実際に鳴った音への反応で紡がれていく。

前回の講座の折、ハイドンのソナタでしたが、僕が「それは田舎くさい」といったそうです。後日それについて、ハイドンは田舎っぽく弾いてはいけないのだろうか、という質問がありました。

レッスン中はひとつひとつ吟味し尽くして言葉を選ぶことができず、これなども僕の言い方がまずかったのです。もっともこの言い方を自宅のレッスンではよくしますけれど。言い方がというより説明が足りなかった。

これは答えるのが大変難しい質問ですが、所謂クラシック音楽ではなぜ美しい音が必須なのか、というところに帰結します。その辺りも今回の講座で言及できるのではないかと思います。

演奏は反応だと言いましたが、講座も反応だと言える。一方的な意見、知識の開陳は好みませんから、遠慮なく質問を出して下さい。その場では、という方は本ブログのコメント欄、HPの連絡欄、あるいは直接メールで、匿名でも構いませんから質問して下さい。

また、今回のように受講したいという人がいたら自薦他薦を問いませんからご紹介をお願いしたい。ピアノソロに限らず、連弾、室内楽、何でも良いのです。
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2 コメント

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Unknown (T)
2015-06-25 22:43:42
後日、田舎っぽく弾いてはいけないのだろうかと質問した本人です。講座の時は、私自身、重松先生のお言葉を誤解しているのかもと思ったため、挙手を躊躇してしまいました。今後は、的外れな質問かなと思っても、その場で質問しようと思います。

『実際に鳴った音への反応で紡がれていく。』とのことは重松先生のレッスンを受けさせていただいていることで、納得できるようになっています(と思います、自分の勘違いでなければ)。いつか少しでもそのように弾けるようになってみたいものです。
偶然、このブログ記事を読んでいる最中に、室内楽を一緒にやっている方が「カザルスとコルトーによるベートーヴェンのチェロソナタ3番の録音をみつけた」とYou tubeのページを送ってくださいました。聴いてみると、各々が全く自身のやりたいように自由気ままに音楽をしているにもかかわらず(そんなことをしたら曲がバラバラになるのではと思われそうなのに、それどころか)、お互いがそれらを聴きあっていて、まさにお互いの音への反応で紡がれて、一連の音楽ができ上がっているかのようでした。これほど に自由でそれぞれの魂の籠った音楽ができる、一つの曲がいかようにでもなりうるということに、もう言葉にならないほどびっくりし、感激し、80歳を過ぎた二人の芸術家に改めて畏敬の念を抱かずにおられません。
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Unknown (重松)
2015-06-26 20:46:13
T様

コメントを有難うございます。
講座の時は流れが分断されても構いませんから是非質問なさってください。僕はそれ自体が流れだと思っているのです。

ハイドンは田舎っぽく弾いてはいけないのだろうか、について数日中に記事を書いておきます。コメント欄でさっさと書くことは僕には不可能ですから。
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