季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

不思議

2009年09月25日 | その他
科学がこれだけ進歩しても、基本的なことすらほんとうに分かっていないらしい。これは面白い。

一番根本的なこと、例えば人が(あるいは犬が、もみの木が等々、何でもよい)どうしてこのような姿なのか。こんな単純素朴なことがらもまったく理由が分からないのだという。

なぜ人類の姿はこうなのか、堅くいえば形態形成の理論はまったく理解されていないそうだ。これはどうして僕がカッコ良いのかということではないよ、念のため。

胚のあるところが相当する器官になることは知られている。だから適当する時期に相当する胚を除去したら、その器官は形成されない。

まあ、中学くらい行っていればこれは習うだろう。

しかし面白い問題は次の点にある。手と足は同一の胚から形成されるというのだ。それにもかかわらず、手と足が反対に産まれてくることはない。また、4本とも手ということもない。

僕は人類とは思えないと言われるが、それでも4本全部が足というわけではない。4本手があったらピアノも楽に弾けるだろうか。ラフマニノフ?音が少ないからねえ、と言えることだけは確かだ。でもペダルは踏めないなあ。

どうして自然は混同しないでこうして正しい形態を与えられるのか、これが現代科学ではまだ未解決なのだそうだ。

そうしたあまりに根源的な問題が未解決の場合、研究は滞って、最後には未解決のまま放置されてしまう。犯罪だったら時効というところだろうが、研究の場では、ただ誰も振り返らなくなったテーマだということだ。

なぜ誰も振り返らなくなったか。現実の利益をもたらさないからだ。

科学といっても、このように結構人間的なのである。骨董では需要がなければ、たとえどんなに珍しい、価値のあるものでも値が付かないでしょう。付いたって意味がないものね。それとまったく同じ原理が働いているわけである。

他にも、ついに分からないまま誰も(科学者はですよ)本気に取り組まなくなった問題の例として、鳩はなぜ自分の巣に帰ってくることができるのか、というのがある。渡り鳥が帰ってくることができる理由も分からないそうだ。

当然いくつもの学説が仮説として出ては、否定されてきている。たいていの場合、その中のどれかが素人の素朴な質問に対しては、まあそれらしく解説されているけれど。夏休みの子供科学相談とかで時折見掛ける。

蟻が巨大な蟻塚を形成する能力をどこから得ているのか、これも様々な実験の結果、ついに分からないまま今日に至っている。

これらの難問は、帰するところ何の実用性もないから(難問の度合いは高いのに)解明されずに放り置かれている。

でも僕らのような普通に生きている人間にとっては、宇宙の果てはどうなっているか、という問題だって生活に直接間接を問わず全く関係ない、という点においては同じことなんだがなあ。

それでも(科学者側の理由は知らないが)一般人でも宇宙の果ての研究というとロマンを感じるけれど、蟻塚の研究といってもロマンを掻き立てられることはないですね。

なんだかんだ言っても、結局はそんな人間的な事情が研究にも影響するのではないか。面白いことである。

ただしそうは言っても、蟻塚の研究、と聞いて果てしないロマンを感じる人だって必ずいる。ファーブルをごらんなさい。糞ころがしをしゃがんで見続けてあんな立派な仕事を成し遂げた。

渡り鳥はなぜ故郷に帰ることができるのか。それを一心に考え続ける、そういう科学者と知り合いになりたいなあ。