季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

偉大なものは滅びやすい 2

2009年09月18日 | 芸術
偉大なものは滅びやすいという小林秀雄さんの「逆説」から、音楽家のばか者について話が及んだ。それが前回の記事である。

小林さんの論文は、痛切な響きを持っていて、そこからこんなバカらしい話に及んでしまうのが悲しいのであるが、それが今日の現実ならば仕方あるまい。

ベートーヴェンの楽曲は幼稚園児でも考え付くほど単調なメロディーではないか、と学生にしたり顔で力説する音楽家がいると書いた。

音楽家だと本人はそう思っているはずだし、学生のかなりはそう信じて疑わないだろう。しかしね、宇宙人は地球人の姿をして我々の中に入り込んでいる、というのが通り相場ですよ。気をつけたほうがよい。

ただ、僕にも覚えがあるとも書いた。それだけは説明しておこう。

僕がまだ子供だったころ、長い休暇に祖父母のところへ行くのを常としていた。祖父母の家にはピアノはなかったから、裏手にある遠縁の家にお邪魔して少しだけ弾いたりしていた。

もういつのことだったか忘れたが、いずれにしても子供のころだ。5年生あたりの夏だったはずである。

ベートーヴェンのソナタ集を持って帰省していたのだが、蝉時雨のなか(その家ではピアノは広い縁側に置いてあった。農村の昔からある造りを想像してもらえればよい)練習というより、あの曲この曲と渡り歩いて楽しんでいた。

作品110の冒頭を弾いてみたとき、僕はびっくりした。なんじゃ、これは!と思った。ピアノを習っている人ならば楽譜を知っているでしょう。右手の単純なメロディーはともかく、左手の伴奏型を見てもらいたい。

序でに若い人には、当時の小学校にはピアノを弾ける教師など殆んどいなかったことを知っておいてもらいたい。音楽の時間には、仕方なく教師が伴奏を弾くのであるが、当然ながら伴奏はメロディーがどう流れていこうが常にドミソドミソで押し通すのだった。

教師も辛かったろうが僕も辛かった。

僕が始めてみる作品110の冒頭の伴奏型はまさに音楽の時間を思い出させる音型だったのである。

びっくりするというより、どう言ったらよいか、狼狽に似た感じを覚えた。ベートーヴェンは熱情ソナタなどを通じて僕が尊敬してやまない作曲家だった。それが音楽の時間の、苦痛を覚えるほどひどい伴奏と同じ伴奏を書くとは!

例えて言うならばね、絶世の美女(女性からいえば水も滴るいい男)がいたとしようか。その人を密かに見つめていたら爪楊枝でシーハシーハした、そんな感じだ。そしてこれを真面目に受け止めて「人間かくの如し」と言ったら芥川の世界になる。

僕はまだ純朴だったから、見てはならぬものを見てしまったような心地がして、楽譜を閉じた。この伴奏型は、力を溜めに溜めてメロディーが無限に広がっていくのを支えなければあっという間に学校音楽の時間まで堕してしまうことに、子供の僕は気づかなかった。

そのまま僕が歳を重ねて、純朴さを失っていったとしたら「ベートーヴェンなんざ、子供みたいな伴奏とメロディーしか書けないじゃないか」と学生に言い放つバカになっただろう。

しかし考えようによっては、ベートーヴェンの曲は良い、なぜならばベートーヴェンは偉いからである、という感じで尊敬の念を抱く人も多いから、この手のおバカさんには素直に言ったと褒めてあげても良い(ような気がしてくる)。

このようなパロディーは実生活においてしばしば見られる。友人がアメリカに行った折、テレビが(当時の)レーガン大統領の演説を映し出していた。America is great, because America is good! と言ったそうだ。

ベートーヴェンに限ったことではないのだが、彼の音楽は特に分かりやすい。「運命」にしたってソソソミーファファファレーととぼけた声で歌って御覧なさい。フィナーレをドーミーソーファミレドレドーとやって御覧なさい。この作曲家はアホか、と言いたくなります。そしてそう感じたとき、不思議や不思議、感じた当人がアホなのです。

小林さんのパテティックな調べが、こと音楽の現状を目の当たりにすると、ご覧のようなスケルツォに堕ちてしまう。

小林さんが滅びやすいと言ったのは、すでに書いたが、偉大であるが故、追従者の列ができるということであった。

音楽の基本である音は消え去るものだから、再び生き返るということも難しかろうという思いから、こんな脱線をしてみた。
コメント
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