季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

子供

2009年09月13日 | その他
こども110番という、何のことかよく分からない制度がある。我が家はなぜか分からぬままに、こども110番の家に認定されている。おそらく常に家の主が在宅で、暇そうに見えたのだろう。

そんなわけで我が家の門扉には「こども110番の家」と書かれた看板が掛かっている。

幸いにして駆け込んでくるこどももおらず、看板がみすぼらしくなっていくのは平和の証だと思うことにしている。

この看板は子どものためだから(多分ね)「こども」と平仮名で書かれているわけだろうが、近ごろ子供と書かれたものが少なく、子どもと書かれたものが多いのはなぜだろう、と思っていた。

漢字制限で漢字と平仮名を混ぜた書き方が多いのには憤慨しているが(最近話題になったものでは覚せい剤。覚醒と書かないくらいなら覚醒という言葉を使わないほうが良い。書くことは間違っても、読むことは誰でもすぐ慣れるではないか)子供がそういった制限に引っ掛かるはずもない。

偶然見掛けたサイトで、子供と漢字で書くのはマスコミにおいて避けるべき例のひとつだと知った。

その起源および理由は、これは信憑性のほどは分からないが、かつて羽仁説子さんが供という漢字はお供という言葉を連想してよろしくない、と言ったことに端を発しているのだという。

そのことから芋づる式に、じつにたくさんの自粛用語があることを知って驚いた次第である。

驚くと同時に抗議したい気持ちになった。

ドイツ語はご承知のように、男性名詞、女性名詞、中性名詞があり、定冠詞も3通りある。例えばFamilie(家庭)は女性名詞で die Familie だ。これに、女性が家庭を守るべきだ、という古い観念の名残で、怪しからん、と息巻く人がいるのだろうか?

どの世界も想像を絶する人が住むのが常であるから、もしかしたらドイツにだってそういう人がいるかもしれない。しかしその声にまともに反応する人は殆んどないだろう。

女性が家庭を守るべきだ、という意見は持つ必要がない。ここら辺の言い回しは大変デリケートさを要するね。

つまり外で仕事を持ちたい人は断然持つべきだし、持ちたくない人はその通りにすればよいだろう。

それらの意見と言葉とを一緒にしてしまう愚について僕は常識的な感想を述べるだけである。

職業を、身体的特徴を、他国を侮蔑するのは当然よろしくない。しかし、だからといってそれを含む言葉を禁止したり自粛したりすることは、いったい正しいだろうか。そもそも言い換えたところで、侮蔑する心さえあればいくらでも侮蔑できるではないか。

こういう背景には、人の外側のみを見る、一種政治的な思考があるのではないか。いや、人の外側さえも見やしない。あるのは「自分は正しい、人間的な態度をとっている」という自己満足だけだろう。

羽仁説子さんの息子は進さんだろう。他の人より秀でているように、一歩先んじているようにというエリート意識丸出しだ、羽仁家の正体見たり、なんて言う人がいたら言うほうがどうかしているではないか。その上ご本人までが上から目線の「説教を垂れる」の字を有しているのだから。多分「子ども」の由来は噂話だろうよ。

お供を連想させるから漢字は望ましくないなんて、これらの噂と同じレベルの言い掛かりさ。

このテーマはもう少し詳しく分かったらもう一度書いておきたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする