季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

音楽に関する素朴な質問

2009年09月07日 | 音楽
楽曲分析といったら無味乾燥な授業を反射的に思ってしまう。現在の音大では少しでも血の通った授業がなされていることを期待する。

僕のブログに目を通してくれている人たちの大半は音楽関係だろうと思うから、ひとつ僕の素朴な質問に答えてもらいたい。

ショパンの練習曲は単音のアウフタクトが多いでしょう、なぜでしょう?僕のようなアマチュアはそういう疑問を持つことがしばしばなのです。

アウフタクトの単音は楽曲分析の対象にならないのである。頭の良い奴は分析的に説明してみればよい、できないだろう。ざまを見ろ。

分析といっても根底に理解がないとあっという間に行き詰るものだ。では理解とは何か。芸術への理解とは愛着を持つことだ。ビクビクする必要はない。

言い換えれば、愛着のない分析は何ものももたらさない、ということ。

それをはっきり知っていれば、分析の対象になりえないものだって恐れる必要がないと合点できるだろう。

ぜんたい、音楽家あるいは音楽を習う人たちは、言われたことを丁寧に、従順に守る傾向にある。それは必要な態度でもあるけれど、もっと疑問を持ち続けたらどうだろう。

アウフタクトだけに留まらない。もうひとつ。

モーツァルトの曲などで、前打音が書いてあると普通の十六分音符に弾くでしょう。それはそう習ったわけでしょう。これはなぜそう弾くのか。

ベートーヴェンの7番ソナタ1楽章の第二テーマでも殆んどのピアニストがふつうの八分音符にするけれど、エドウィン・フィッシャーは所謂前打音として短く弾いている。どちらが正しいか?と問う前に、両者の感じ方、考え方の由来を思うべきなのだ。

いったい前打音はなぜふつうに弾かれることがあるのか?作曲者の身になってごらんなさい。ふつうに弾いてよいところはふつうの16分音符で書いた方が(ベートーヴェンのソナタの場合は8分音符)はるかに手っ取り早いではないか。わざわざ面倒をかける必要がどこにある?

ある同業者にその質問をぶつけたら、流暢にこうした書法は主に下降音形に現れるとかイ音云々とかを解説してくれたが、それは僕でも知っている。では同じ条件の音形でふつうの16分音符のところもあるのは一体なぜだ、と重ねて訊いたらそんなことは私は知らない、とのことであった。

こういうのを思考の怠慢と呼ぶのである。そこで僕は色んな同業者に同じ質問を投げかけてみる。答えが返ってくることは稀である。重ねて、では子供の頃(大人になってからだって良いさ)なぜだろうと疑問に思ったことはないだろうか、と訊ねると、ほとんどの人が疑問に感じたことはある、と答える。

せっかく物事のへそに迫る機会を得ながら、みすみす逃しているのである。

ピアノを習う人たちは、熱心な人であるほど従順だ。何事もそうだが、なぜだろうと自問するより、すべて言いなりに「努力」した方が短期的な効率はよい。

しかし、そんな効率は底が知れている。だから世に言う「解釈」とは、思い余った成人した音楽家が施す「化粧」と同じことになってしまうのだ。

もっと屁理屈を言う癖をつけよう。横車も押そう。そこから出てくる根本的な道筋だってある。従順よりはましだと僕は思う。

読んでいるうちに最初の問いを忘れてしまった人はいませんか。この問いに、答えはCMの後に、なんてことはないよ。

答えはないからね。僕の答えはある。各人が自分の答えをみつけよう。納得がいったとき、それこそが「答え」なのです。
コメント (3)
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