空想癖も自ずと限界がある。
どんな人でもちらっとは宇宙はどうなっているのか、と思ったことはあるでしょう。
山のあなたの空とおく、と歌った詩人がいますね。カール・ブッセという詩人で、上田敏の訳でわが国であまねく知られるようになった。
山の向こうには何があるのだろう、と思うだけで立派な詩ができる。(ホントは違うよ。画家のドガが、この人は文才にも長けていた人だが、マラルメだったかに「詩作は難しい。イデーはたくさんあるのに」と言ったら「詩はイデーで作るのではない、言葉で作るのだ」と諭されたという)。宇宙の果てに何があるのだろう、と思ったらさぞかしスケールの大きな詩ができそうだ。でも、こんな詩は無いのではなかろうか。
宇宙の果てのなおとおく、幸いすむと人のいう、ではおかしい。幸いは宇宙の果てにはあるまい。といって、宇宙の果てのなおとおく、宇宙人が住む・・では詩にはならない。詩はむつかしい、いやはや。
草野心平さんのかえるの詩は、たしかに虚空に消え行くかえるの声から真っ黒な宇宙を思わせなくもない。いや、たしかにそれに成功している。宮沢賢治のいくつかの詩もそうだ。
これらの詩は、僕の愛好する詩でもある。でも、僕たちは今日、ビッグバンだの相対性理論だの、空間のひずみだのを(間接的にではあるが)知っている。ブラックホールやサントリーホールも知っている。
知識が豊富になれば、そのもっと向こうには何があるのだろう、と思いはいよいよ切実になるのだろうか。
そうとばかりはいえないだろう。こう言い直した方が良いかもしれない。知識が豊富になっても、そのまた向こうには何があるのかという問いは依然として切実である、と。
僕は現代物理学にまったく詳しくないのだが、なんて書くと古典物理学には詳しそうに聞こえるね。そんなことはない。文章というものは、書いているとついつい気取りが過ぎる。僕の知っているのはテコの原理くらいだからご安心ください。音楽家なんてその位のもんですよ。
学生のころ、友人と無重力を宇宙飛行士に体験させるために飛行機で急降下をするという話をして盛り上がっていた。すると横で聞いていた音楽家の卵が「何でそんな面倒をするのさ。真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返った。それくらいの常識は友人ともどもあるよ。
その音楽家の卵はきっと立派な音楽家になって「無重力を体験させたければ宇宙に行かせればよいのだよ」とでも答えているかもしれない。なんのこっちゃ。
あらゆる研究の極まるところは、結局時間とはなにかということになるのではないか。
それとともに面白く感じるのは、学者により様々な見解があるにもかかわらず、当の本人たちでさえ、その意味するところを「実感」できてはいないだろうと思われることだ。
ビッグバンという概念が物理学上完全に市民権を得たのか、僕は知らない。たぶん有力な仮説のひとつに過ぎないのだろう。読み漁る本では、ビッグバン仮説をとる学者によれば、ビッグバン以前には何ものも存在しなかった。あるのはゆらぎであった。なんていう説明がなされているのだが、これは証明できるものとしては、ただ数式上の結論しかないのではないか。
それがよし、正しくても、心に思い描ける物理学者は一人もいないだろう。
このように、時間の正体は今日でも一向に明らかにならない。時空がゆがんでいると聞いても、不思議さは増すことはあっても減じることはない。ブラックホールでは時間そのものが僕たちが考えているあり方とはまったく違った形で存在するらしい。
ブラックホールはすべてを飲み込むというが、サントリーホールはすべてを飲み干す。えっ、違うの?僕はまたビアホールだと思っていた。
はじめに自信のゆらぎがあった。そしてノイローゼになった。というなら等身大で分かるが、ゆらぎから宇宙全体が生じたなんていうスケールとなると実感を通り越すに決まっている。
エジプトの碑銘に「今日の私は昨日の私ではない私、明日の私は今日の私ではない私」だったっけ、そのような謎めいたのがあった。謎めいているが、ちっとも変に思わない。初めにあったのはゆらぎであった、なんていうのよりずっと実感できる。
エジプトの様々なレリーフ、あの姿は上記の碑銘と同じ印象を与える。
どんな人でもちらっとは宇宙はどうなっているのか、と思ったことはあるでしょう。
山のあなたの空とおく、と歌った詩人がいますね。カール・ブッセという詩人で、上田敏の訳でわが国であまねく知られるようになった。
山の向こうには何があるのだろう、と思うだけで立派な詩ができる。(ホントは違うよ。画家のドガが、この人は文才にも長けていた人だが、マラルメだったかに「詩作は難しい。イデーはたくさんあるのに」と言ったら「詩はイデーで作るのではない、言葉で作るのだ」と諭されたという)。宇宙の果てに何があるのだろう、と思ったらさぞかしスケールの大きな詩ができそうだ。でも、こんな詩は無いのではなかろうか。
宇宙の果てのなおとおく、幸いすむと人のいう、ではおかしい。幸いは宇宙の果てにはあるまい。といって、宇宙の果てのなおとおく、宇宙人が住む・・では詩にはならない。詩はむつかしい、いやはや。
草野心平さんのかえるの詩は、たしかに虚空に消え行くかえるの声から真っ黒な宇宙を思わせなくもない。いや、たしかにそれに成功している。宮沢賢治のいくつかの詩もそうだ。
これらの詩は、僕の愛好する詩でもある。でも、僕たちは今日、ビッグバンだの相対性理論だの、空間のひずみだのを(間接的にではあるが)知っている。ブラックホールやサントリーホールも知っている。
知識が豊富になれば、そのもっと向こうには何があるのだろう、と思いはいよいよ切実になるのだろうか。
そうとばかりはいえないだろう。こう言い直した方が良いかもしれない。知識が豊富になっても、そのまた向こうには何があるのかという問いは依然として切実である、と。
僕は現代物理学にまったく詳しくないのだが、なんて書くと古典物理学には詳しそうに聞こえるね。そんなことはない。文章というものは、書いているとついつい気取りが過ぎる。僕の知っているのはテコの原理くらいだからご安心ください。音楽家なんてその位のもんですよ。
学生のころ、友人と無重力を宇宙飛行士に体験させるために飛行機で急降下をするという話をして盛り上がっていた。すると横で聞いていた音楽家の卵が「何でそんな面倒をするのさ。真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返った。それくらいの常識は友人ともどもあるよ。
その音楽家の卵はきっと立派な音楽家になって「無重力を体験させたければ宇宙に行かせればよいのだよ」とでも答えているかもしれない。なんのこっちゃ。
あらゆる研究の極まるところは、結局時間とはなにかということになるのではないか。
それとともに面白く感じるのは、学者により様々な見解があるにもかかわらず、当の本人たちでさえ、その意味するところを「実感」できてはいないだろうと思われることだ。
ビッグバンという概念が物理学上完全に市民権を得たのか、僕は知らない。たぶん有力な仮説のひとつに過ぎないのだろう。読み漁る本では、ビッグバン仮説をとる学者によれば、ビッグバン以前には何ものも存在しなかった。あるのはゆらぎであった。なんていう説明がなされているのだが、これは証明できるものとしては、ただ数式上の結論しかないのではないか。
それがよし、正しくても、心に思い描ける物理学者は一人もいないだろう。
このように、時間の正体は今日でも一向に明らかにならない。時空がゆがんでいると聞いても、不思議さは増すことはあっても減じることはない。ブラックホールでは時間そのものが僕たちが考えているあり方とはまったく違った形で存在するらしい。
ブラックホールはすべてを飲み込むというが、サントリーホールはすべてを飲み干す。えっ、違うの?僕はまたビアホールだと思っていた。
はじめに自信のゆらぎがあった。そしてノイローゼになった。というなら等身大で分かるが、ゆらぎから宇宙全体が生じたなんていうスケールとなると実感を通り越すに決まっている。
エジプトの碑銘に「今日の私は昨日の私ではない私、明日の私は今日の私ではない私」だったっけ、そのような謎めいたのがあった。謎めいているが、ちっとも変に思わない。初めにあったのはゆらぎであった、なんていうのよりずっと実感できる。
エジプトの様々なレリーフ、あの姿は上記の碑銘と同じ印象を与える。