ドリームピックのウクレレ日記

ウクレレとヨットの大好きな「お腹の大きなオヤジさま」
dreampicのウクレレ日記。

初孫

2023年12月06日 00時29分59秒 | 家族のこと
12月4日
息子夫妻に子供が産まれました。
私にとっては初孫でございます。
嬉しい!でかした!
孫は女の子です。
12月6日
初孫の顔を見に家人と娘と3人で福生の大聖病院に出かけました。
途中、お腹が減ったので「大吉製麺」さんでワンタンメンと餃子の遅い昼食。
ここらは食べる処が少なくて、ここもやっと見つけたので速攻入った店だった。
だからあまり期待してなかったけど、上品なトンコツ醤油味で、かなり美味いラーメンだった。
このラーメン屋の奥さんも、大聖病院は女性の院長で評判がいいと心地よい話をしてくれた。
私らが病院についたとき、孫は新生児室に母親と居て、ガラス越しに顔を見れた。女の子である。可愛いなあ。
生まれたばかりの初孫は、2300gと小さいが元気で良く寝ていた。寝る子は育つという。いいぞ。
面会時間が15分と限られているので、あっという間に時間となって帰ることになったけど、嬉しいものですねえ。
帰りに福生駅前の大多摩ハム工場で、ハム、ベーコンなどを買って帰った。西東京多摩地区は畜産も有名だ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日、父の納骨で家族で市川へ

2020年02月08日 22時35分15秒 | 家族のこと

年末に亡くなった父の納骨のため、息子夫婦も含めて家族5人で市川のお寺に。

昨日までの極寒の天候とは違い、少しは過ごしやすい気温まで上がった。

お寺で焼香して、お墓に納骨。

 これで家にお骨が見えなくなって、母も少しは元気になるだろうか。

弟が気遣ってか、週末のたびに市川へ泊りに行ってくれているのがありがたい。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父が旅立ってしまった

2019年12月31日 07時58分10秒 | 家族のこと


それは、クリスマスマスイブの日の突然のことだった。立川での仕事の下見を兼ねた年末挨拶の帰り
母からの着信経歴に気づき、留守電の録音を聞いた。

「おとうさんが亡くなったの、連絡ください・・」

父は今年92歳なので、当然覚悟はしていたが、今は入院もしていなかったし、こんなにも急にとは。
 
暫し絶句。

母によると、その日午後ちょっと息苦しいとベッドに横になり、いつも巡回してくれている医師が
酸素ボンベを手配してくれて、それが届く午後3時過ぎに母が「起きて」と声をかけたがその時には・・
まるで寝ているかのような最期だったとのこと。

その日の夜、父と対面したが本当に眠っているような穏やかな顔だった。

父は、昭和2年に千葉県長生郡本納町の農家の7人兄弟姉妹の末っ子に生まれた。
かつては村長も務めた家柄で、割と大きな農家であったようだが、跡取りでない者は冷遇されて
当然の時代だったという。しかし早くに両親を亡くした父はおじいさん子で育ち、当時の田舎では
珍しく、兄弟も行っていない旧制中学まで行かせて貰い、中学卒業後は東京商船学校(後の商船大学)
に進学する。

当時の商船学校は文部省と海軍が主管組織であり、生徒の学費・生活費は官費から支給される上に
卒業後は海軍予備少尉として任官され、その後は商船の高級船員になれる為、人気が高く試験は何十倍
という難関であったらしい。そのうえ制服は冬は紺に金ボタン3つ、夏は白に金ボタン3つで、短剣を
腰に下げた姿は凛々しく、女学生の憧れの的だったという。
しかし父が商船学校を選んだ大きな理由は学費・生活費が官費から支給される為、実家に負担を
掛けることがなかったことが一番だと思う。

そして入学後入寮時に、帰るなら今だぞ!と教官に言われたと父が言っていたとおり、入学後の訓練は
軍隊同様で厳しく脱落者もあったらしい。当時は日本にとって戦況思わしくない状態であり、中学の
同級生たちが、商船学校に進学する父に贈った手紙や和歌を読むと、殆ど出征する兵士のようだ。

それでも商船学校は海軍ではないので、英語などの一般教科もあったらしい。
また、空襲の際は東京の越中島にあった学校から、小銃を担いで生徒分隊で街に出て治安維持活動を
行っていたと聞いている。

そして、終戦。

商船学校は閉鎖され、千葉の田舎に戻り畑仕事を手伝っていた父に、中学の友人から学費がかからずに
勉強できるところがある、と教えて貰ったのが“逓信官吏練習所”だった。
これは逓信省の上級官吏の養成所という面もあるが、旧制中学卒業資格で受験できる上位の学校という
面もあり、文部省認定の教育機関という側面も持っていた。

逓信官吏練習所は「官練」と呼ばれ、逓信省が郵政省・電電公社となってもある種の影響力を持って
いたようだ。ここの卒業生のなかには小説家の“幸田露伴”や旧社会党の“田辺誠”や“大出俊”らが
いる。
学費に関して親の世話にならず、自分の力量でそれらを賄うというか、そうするしかなかったというか
そういう部分がこの卒業生の名前からも伺える。
父は早くに管理職になっていたが、旧社会党に共感を覚えていた部分はここだったのかもしれない。

父は合理的な人間で、体裁や世間体などどうでもよく、初期配属された大崎電話局では会社に住み込んで
いたらしい。当時通信教育の文部省認定のラジオ技術認定証が遺品にあったが、昭和27年の日付だったが
住所は、大崎電話局内となっていた。そういえば、窓口で飯を炊いたようなことを生前言っていた。
当時は戦後まもなく、まだまだ一般家庭に電話の普及している時代でなかったようで営業窓口は特殊な
雰囲気だったのかもしれない。

当時民間企業の電話交換手をしていた母とはこの頃、知り合ったようである。顔も見たこともない相手と
仕事上電話で話す事を通じて親しくなって行ったらしい。

終戦で船乗りになれず、はからずも電電公社に進んだ父は、仕事では営業畑を歩み、電電公社の柔道部
の設立に携わって、柔道は講道館で二段まで取った。柔道部設立の時は事務局もやり、三船十段に会社の
道場にかかげる「精進」という書を書いて貰って一緒に写真に納まっている。

その他、尺八は琴古流の師範の手前まで合格したが、乳児だった私が尺八の音が鳴ると泣くためやむなく
断念したと聞いている。また、詩吟も相当やっていたようだが、同様に断念している。
会社人生の途中からは糖尿病に侵されて、55歳で完全退職した。

そのあとも、水彩スケッチ、尺八造りなど創作活動に力を入れていた。などと書くとまるで芸術に
理解のあるかのようだが、長男の私に対してはそうではなかったなあ。
高校で美術部の部長をしていた私の美大進学には大反対して、阻止し。後から行かせてやれば良かった
かな、と言っていたそうだ。私も親の反対を押し切ってまで、美術に進む勇気がなかったのだから
仕方ないと思うが。

いずれにしても、戦中戦後の波乱万丈な日本で、思った通りに生きて、優しい妻とまっとうな子供達に
囲まれて、最後は眠るように息を引取れたってことは、本当に幸せな人生だったと思います。
父の人生をこうして振り返ることが、本人の供養になればと思います。

葬儀は家族だけでと故人の意向もあり、ごく親しい人間だけで行いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息子の結婚式

2017年05月27日 04時55分48秒 | 家族のこと
昨日は息子の結婚式だった。

新郎の父は最後に両家代表謝辞をする程度で、あまり目立たないようにするもの
らしいが、私はKAMAKAの6弦ウクレレでHAWAIIAN WEDDING SONGを二人のために
披露させてもらった。こういう事をやらせてくれた息子とお嫁さんに感謝です。

動画は撮ってなかったので、演奏の確認はできませんが、家人らにきいたところ
まずくはなかったようです。
そして両家代表謝辞では、私の定番の挨拶=出船入船、を絡めた謝辞をさせて
頂きました。


1985年に結婚した私たち夫婦の長男として、1986年に生まれた息子。
その頃銀座のテレカに出向していた私は、毎日夜中まで銀座の職場や鮫洲の配送センタで
仕事をして、家には2時3時に寝に帰るという毎日。まともに息子をかまってやれた
事もなかった。

その1年後に本社広報部へ転勤。ここでもなんだかんだと夜遅くまで勤務。
ヨットのプロジェクトが始まってからは、更に土日も家に寄り付かない日々を
送って来た。本当に家族をほったらかしの毎日だった。それでも一回だけ
ヨットのプロジェクトの時に、家人と息子を1か月ハワイに連れて行けたこと
がいい思い出だ。

ありがたいことに息子はまっすぐに育って、やさしい性格の男になってくれた。
やさしいだけでなく、自立させるために高校を卒業後からずっと一人暮らしを
させて来たので、これは家人のお陰も大きいと思うが、逞しくなってくれた。

今後は今までの、親と別居という事とは違って、新しい家庭を作ったのだから
自分たちの戸籍が出来て本当の意味で独立したのだから、その責任は更に増すと
思う。でも自分で選んだいい伴侶を得たのだから、家族のために更に逞しく、
充実した人生を歩んで行ってほしいと願わずにいられない。

全ての出来事に感謝します。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月11日(日)矢切りの私

2015年01月11日 23時23分23秒 | 家族のこと
11日(日)は前の日飲み過ぎて、起きられず昼過ぎに市川の母が入院している“矢切”の病院に
向かうため鎌倉駅へ。
三連休の中日で人出も相変わらずで、湘南ラーメン「海鳴」に行列が出来ていた。
                       

鎌倉から新橋で都営浅草線に乗り換え、そのまま北総線に乗り入れる電車に乗って矢切まで。
あの細川たかしの歌った「矢切の渡し」の矢切だが、なんと地下にある駅。改札出たら渡し船が
展示してあるというユニークな駅でした。

この駅から歩いてすぐにある、「化学療法研究所付属病院」に母が入院している。マスク着用が
義務付けられていた。インフルエンザ警報が発令されているので、病院は敏感なのだろう。
そういえば、警報が出ているのは、関東1都7県の全てだったよな。病室に入ったのが夕方4時。
ここまで3時間かかっている。なんと遠いのか。



母はここの特別室しか部屋が無くてそこに入っていた。大きな部屋でベッド、応接セット、テーブル
冷蔵庫、トイレ、風呂まで付いていた。スイートルームだねこれは、と言っても母は身体の節々が
痛くて思うように歩けないので、どんな部屋でも同じだが。

しかし、いろいろ話すことがあるらしく、ふんふんと聞いていたら1時間半程はあっという間に
過ぎてしまった。

それから、市川の父のところに顔を出してみると、妹が来ていた。あとから妹の家族も来た。
母が入院してから、妹夫婦は近くにいるので、こうして夕飯を一緒に食べたりしているとのこと。
私も出来る限り協力するからと言ったが、やはり近くに居る分妹に負荷がかかるということは事実
なのでそこは理解をしていないとな…。

夜9時まで居て、鎌倉に帰って来た。日にちは回ってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娘の大学の学園祭に

2014年11月01日 23時33分06秒 | 家族のこと
娘の大学は日大芸術学部である。
私が行きたかった芸術系の大学に通う娘が、ある意味羨ましくもあり、誇らしくもあり、嬉しい。
という事もあってか、学園祭は今年で2回目。東京の江古田駅で降りて、まずはお昼です。
中華街に通う私だけど、昼飯の中華は飽きません。娘ともここで合流し3人で昼食。

それと昨日からスマホにインストールした、お絵かきソフトが面白くて暇があるとサラサラ…
家人はタブレットでゲームを…
こんな、変な親の子供だから娘は、タフな芸術系で、まあ上手くやっていましたね。

                    
私が食べたのは「塩ラーメンと半炒飯セット680円」。右はスマホで描いた娘の絵。

         

まずは娘が関係している、文芸学科のブースへ。“けみっと”と“ざったざた”。
家人はそこで、彼女らの出版した自費出版の文庫を何冊か購入。
私は、“ざったざた”でネックレスを家人と娘に購入し、彼女らは早速付けていた。
学生が作ったネックレスだが、それなりに光るものを感じたので。

若さと元気さを感じたけど、なんか破天荒な支離滅裂さはなかった。なんというか
こじんまりと無難にまとまったというか。今のままの社会や体制を批判しつつ、実は
自分の内面の矛盾を受け入れ難く、それをぶちまけるというドロドロした部分は感じ
無かった。でもそれは、今の自分を含めた大人たちの姿勢の反映なんだろうな。

私も学生時代に学園祭では、フリスビークラブでクレープ屋をやった訳だし…。
でもここは芸術学部なんだから、と…

そんなことを考えてる素振りも見せず、それから少しキャンパス内を歩いた。
それだけで、足がもの凄く疲れたので、もう帰ろうということに。なんということか。
もう歳には勝てないのか。

西武線で池袋に戻り、西武デパートでLoftを覗いてから、湘南新宿ラインで鎌倉へ。
朝10時~夜19時の日帰り西東京旅行でした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は家人の誕生日で浅草へ

2014年09月15日 22時09分20秒 | 家族のこと
家人と息子と3人で浅草へ。何故浅草かというと、家人が浅草の“iichi”という
手作りのものの販売をしている店に行きたいという事から。鎌倉にもあるんですが
どうも気に入った作家の手になるものが浅草にはあるらしい。
来週は私の誕生日ですから、今週は彼女の望み通りにしないとね。

浅草は昔は“神谷バー”で“電気ブラン”と相場が決まっていましたが、今はもっと
お洒落になったもんです。もっとも、神谷バーの場所には近寄っていないので良くは
分かりませんが。

鎌倉を昼ころ出て、逗子ハイランドを抜け十二所の峰本朝比奈店で昼食。これが失敗。
ここはスローフードでした!2時間後にやっと鎌倉を出ました。
私の運転で、浅草には15時半頃、到着。家人の好きな印伝の店を覗いたりしてから
仲見世通り経由で浅草寺へ。

そのあと銀座の松屋に車を止めて、文具のITOYAへ。19時閉店の直前に入店。
なんか細々としたものを買って、松屋で3人で夕食をして21時ころ鎌倉に
帰ってきました。予定ではもっと早く帰れるはずだったのに。昼食が全ての狂いの
元になっているのが、こうして時系列にすると分かりますね。





              
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲームして映画見て買い物して食事して

2014年03月24日 21時04分03秒 | 家族のこと
昨日は家人と娘とみなとみらいのゲーセンに行き、アニメ映画『アンと雪の女王』
を見て、買い物、外食と久しぶりに楽しんだ。
ゲーセンでクレーンを見てたら、昔を思い出してきて、「これ取れる!」と踏んだ
テッドの人形を500円でゲットした。出版時代は300円あれば十分だったよなあ。

手を入れると手が動く、指人形。ディズニー映画見る前で、ジャストタイミング。
ところが、これ家人、娘に全く人気なし。姿こそテディベアの形してるけど、中身は
中年のエロおやじ、というのは映画の設定であって、この人形のテッドには何の罪も
ないのだよ。

このあと、夢とロマンと勇気と愛の物語『アンと雪の女王』を見たもんだから余計に
テッドは貰って貰えない存在になって私の部屋におります。かわいそうに。

              

                     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娘のドラムを聴きに行く

2013年12月15日 23時58分48秒 | 家族のこと
昨夜の呑みすぎで寝坊をしたが、なんとか娘のいる所沢まで出かけて行きました。
今日は娘のドラムが初めて聴ける日なのです。というのも娘がドラムを習っている音楽
教室のミニコンサートの日だから。

所沢駅ビルの中華料理「獅子」で先に来ていた家人と合流し、五目スープそばを頂く。
このいわゆる五目ラーメンは、この店では評判のメニューらしい。まあ、旨かったけど
評判になるほど??と??が付く。

                    

そこからミニコンサートの会場までは10分くらい。
しかし、なんと娘の出番の時間が不明という。その音楽教室は自分のスタジオを持って
いて、時間制限とかがないようで、つまり出番の時間とかに厳密にこだわらなくても
問題ないという贅沢な発表会ですね。会場借りてやるなら、参加者全員が平等に時間を
配分されてタイムスケジュールは少なくとも数日前には完成しているものでしょう。
悠長だなあ、羨ましい。本番見て分かりましたが、次にやりたいグループは?とか
って進行してましたから、驚きの進行でした。

聴かせてもらいましたが、エレキ、マイク多用の大音量バンドの連続で、耳がジンジン。
娘たちのバンドがやっと手を上げてくれたから良かったけどあのままだと難聴になり
そうだった。

       

帰りは、所沢から横浜への西武~東横線直通特急のいい時間がなく、池袋に出て湘南新宿
ラインで帰る事にしたので、池袋西武百貨店レストラン街で夕食でした。寿司にしました。

              
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハモニカおじさんの容態が気がかり

2013年12月04日 23時15分49秒 | 家族のこと
今日の昼休みに歩いた横浜公園の紅葉。色鮮やかな景色です。間もなく葉が落ち
見る影もなく寒々とした景色になるのは分かっているとはいえ。



先日ハモニカおじさんの様子はどうかと、電話を施設に入れてみた。自分では
電話に出る事もできない様子は前も一緒だが、声に張りと元気がなかった。
気になるので、今度の土曜日に尋ねてみようと思っていたところ、今夜初台時代
のスナックフレンドのおちよさんからメールで、今日行ってみたらかなり悪く
なっていた、という。同じような時期に同じようなことを思いつくというのは
初台時代の絆か…。

彼の入院後、彼の病院で一緒に音楽を演奏して来た音楽仲間としても気になる。
今週末には絶対見舞いに行かねばならないと、心に強く誓った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする