ドリームピックのウクレレ日記

ウクレレとヨットの大好きな「お腹の大きなオヤジさま」
dreampicのウクレレ日記。

父が旅立ってしまった

2019年12月31日 07時58分10秒 | 家族のこと


それは、クリスマスマスイブの日の突然のことだった。立川での仕事の下見を兼ねた年末挨拶の帰り
母からの着信経歴に気づき、留守電の録音を聞いた。

「おとうさんが亡くなったの、連絡ください・・」

父は今年92歳なので、当然覚悟はしていたが、今は入院もしていなかったし、こんなにも急にとは。
 
暫し絶句。

母によると、その日午後ちょっと息苦しいとベッドに横になり、いつも巡回してくれている医師が
酸素ボンベを手配してくれて、それが届く午後3時過ぎに母が「起きて」と声をかけたがその時には・・
まるで寝ているかのような最期だったとのこと。

その日の夜、父と対面したが本当に眠っているような穏やかな顔だった。

父は、昭和2年に千葉県長生郡本納町の農家の7人兄弟姉妹の末っ子に生まれた。
かつては村長も務めた家柄で、割と大きな農家であったようだが、跡取りでない者は冷遇されて
当然の時代だったという。しかし早くに両親を亡くした父はおじいさん子で育ち、当時の田舎では
珍しく、兄弟も行っていない旧制中学まで行かせて貰い、中学卒業後は東京商船学校(後の商船大学)
に進学する。

当時の商船学校は文部省と海軍が主管組織であり、生徒の学費・生活費は官費から支給される上に
卒業後は海軍予備少尉として任官され、その後は商船の高級船員になれる為、人気が高く試験は何十倍
という難関であったらしい。そのうえ制服は冬は紺に金ボタン3つ、夏は白に金ボタン3つで、短剣を
腰に下げた姿は凛々しく、女学生の憧れの的だったという。
しかし父が商船学校を選んだ大きな理由は学費・生活費が官費から支給される為、実家に負担を
掛けることがなかったことが一番だと思う。

そして入学後入寮時に、帰るなら今だぞ!と教官に言われたと父が言っていたとおり、入学後の訓練は
軍隊同様で厳しく脱落者もあったらしい。当時は日本にとって戦況思わしくない状態であり、中学の
同級生たちが、商船学校に進学する父に贈った手紙や和歌を読むと、殆ど出征する兵士のようだ。

それでも商船学校は海軍ではないので、英語などの一般教科もあったらしい。
また、空襲の際は東京の越中島にあった学校から、小銃を担いで生徒分隊で街に出て治安維持活動を
行っていたと聞いている。

そして、終戦。

商船学校は閉鎖され、千葉の田舎に戻り畑仕事を手伝っていた父に、中学の友人から学費がかからずに
勉強できるところがある、と教えて貰ったのが“逓信官吏練習所”だった。
これは逓信省の上級官吏の養成所という面もあるが、旧制中学卒業資格で受験できる上位の学校という
面もあり、文部省認定の教育機関という側面も持っていた。

逓信官吏練習所は「官練」と呼ばれ、逓信省が郵政省・電電公社となってもある種の影響力を持って
いたようだ。ここの卒業生のなかには小説家の“幸田露伴”や旧社会党の“田辺誠”や“大出俊”らが
いる。
学費に関して親の世話にならず、自分の力量でそれらを賄うというか、そうするしかなかったというか
そういう部分がこの卒業生の名前からも伺える。
父は早くに管理職になっていたが、旧社会党に共感を覚えていた部分はここだったのかもしれない。

父は合理的な人間で、体裁や世間体などどうでもよく、初期配属された大崎電話局では会社に住み込んで
いたらしい。当時通信教育の文部省認定のラジオ技術認定証が遺品にあったが、昭和27年の日付だったが
住所は、大崎電話局内となっていた。そういえば、窓口で飯を炊いたようなことを生前言っていた。
当時は戦後まもなく、まだまだ一般家庭に電話の普及している時代でなかったようで営業窓口は特殊な
雰囲気だったのかもしれない。

当時民間企業の電話交換手をしていた母とはこの頃、知り合ったようである。顔も見たこともない相手と
仕事上電話で話す事を通じて親しくなって行ったらしい。

終戦で船乗りになれず、はからずも電電公社に進んだ父は、仕事では営業畑を歩み、電電公社の柔道部
の設立に携わって、柔道は講道館で二段まで取った。柔道部設立の時は事務局もやり、三船十段に会社の
道場にかかげる「精進」という書を書いて貰って一緒に写真に納まっている。

その他、尺八は琴古流の師範の手前まで合格したが、乳児だった私が尺八の音が鳴ると泣くためやむなく
断念したと聞いている。また、詩吟も相当やっていたようだが、同様に断念している。
会社人生の途中からは糖尿病に侵されて、55歳で完全退職した。

そのあとも、水彩スケッチ、尺八造りなど創作活動に力を入れていた。などと書くとまるで芸術に
理解のあるかのようだが、長男の私に対してはそうではなかったなあ。
高校で美術部の部長をしていた私の美大進学には大反対して、阻止し。後から行かせてやれば良かった
かな、と言っていたそうだ。私も親の反対を押し切ってまで、美術に進む勇気がなかったのだから
仕方ないと思うが。

いずれにしても、戦中戦後の波乱万丈な日本で、思った通りに生きて、優しい妻とまっとうな子供達に
囲まれて、最後は眠るように息を引取れたってことは、本当に幸せな人生だったと思います。
父の人生をこうして振り返ることが、本人の供養になればと思います。

葬儀は家族だけでと故人の意向もあり、ごく親しい人間だけで行いました。

コメント
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