花の土曜日で、なおかつプロ野球ペナントレースも大詰めだというのに、まったく何の中継もない。
こういう時はETV(教育テレビ)を緊急避難的に見ることにしているのだが、ETVでは恐竜のCG番組をやっていた。
しかし、見ているうち、CG映像をあたかもそれが「事実」であるかのごとく思って見なければならないことに、いい加減鼻白んできたというか、嫌になった。
恐竜が、恐ろしげな表情で、あ~んなとや、こ~んなことをやるなんて、「嘘だ~」と思っても、現に私の前で展開している映像が否応無しに流し込む「何か」を、私は否定することができない。
「嘘だ~」と思いながらも、それを見たまま受け入れなければならない、私の知覚の不条理。
その後、YMOの細野さんがナレーターをつとめる「大実験シリーズ」がはじまった。
「やってみなきゃわからない」が、本シリーズにおける細野さんの定番台詞で、それは確かに「科学精神」の根幹にある考えなのだろうが、「やってみなきゃわからない」ことを実際にやってみて、それで「わかった」ということになるというストーリーは、「何がわかったのか」がわからないので、なんだか「変」だ。
ウィトゲンシュタインによると、「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもりになってしまうのが科学精神であり、これに対し「わからないことにはわからない」と言うのが哲学精神なのだ。
これが、有名な「語りえないことには、口を噤まねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉の意味だ。
それはさて、私は別にプロ野球ファンではないけれど、地上波放送におけるプロ野球中継を是非復活して欲しいと思う。
なんて言うと、プロ野球の人気が落ちてしまったから中継をしなくなったのだ、という反論が寄せられる。
しかし、本当に人気がなかったら、駅売りのスポーツ新聞があんなに大きいスペースをプロ野球のために使うわけがない。
人気がなくなったのは、あくまでも「テレビの中継」だということをテレビ局は当事者、すなわちテレビの専門家として深く反省すべきではないのか。
というと、見たい奴は専門テレビで見ればよいという意見が出るだろう。
しかし、専門テレビを見ると人間は、プロ野球観戦の、いわば「専門家」なのだ。
「私は別にプロ野球ファンではない」と書いたように、私はプロ野球観戦の専門家(具体的に言うと、ジャイアンツ・ファン、タイガース・ファン、オリックス・ファン等々)ではないので、専門テレビと契約してでも見たいとは思わないのだ。
じゃあお前は、いったいいかなる資格で「地上波テレビで放送しろ」と主張するのかと言うと、日本国の一市民として――ぶっちゃけて言うと、一素人として、斯く主張するのだ。
もし私が、たとえばヨーロッパのプレミアリーグのプロバー(専門的)ファンであるとしたら、私は、専門チャンネルと契約するだろう。
でも、その場合でも、たとえばワールドカップの決勝、あるいは準決勝については、専門チャンネルで見るよりも、地上波テレビで、それまで特に興味があったわけでもなく、一線を画していた「素人ファン」たちと一緒に(といっても別に一部屋に集まってということではない。あくまで「雰囲気」として「一緒に」という意味だ)見て、一緒に盛り上がりたいと願うだろう。
そして、現状においてそうした「素人ファン」を恒常的に――いわば「潜在的ファン」として――擁するスポーツ競技は、やはりプロ野球がまず第一に数えられるだろうと思うのだ。
それ故に、地上波テレビでのプロ野球中継の復活を望むと言うのだ。
ここでウィトゲンシュタインの話に戻ると、《「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもり》になってしまうのが現代的知の「専門家」、すなわち科学者であり、その「わかったつもり」で為してしまった罪科として、今、原発災害の責を問われているのだが、その罪を問う資格のあるものは、彼ら(専門家)の対極にある人、すなわち「一素人としての市民」である。
とまあ、そんなふうに考えているのだ。
こういう時はETV(教育テレビ)を緊急避難的に見ることにしているのだが、ETVでは恐竜のCG番組をやっていた。
しかし、見ているうち、CG映像をあたかもそれが「事実」であるかのごとく思って見なければならないことに、いい加減鼻白んできたというか、嫌になった。
恐竜が、恐ろしげな表情で、あ~んなとや、こ~んなことをやるなんて、「嘘だ~」と思っても、現に私の前で展開している映像が否応無しに流し込む「何か」を、私は否定することができない。
「嘘だ~」と思いながらも、それを見たまま受け入れなければならない、私の知覚の不条理。
その後、YMOの細野さんがナレーターをつとめる「大実験シリーズ」がはじまった。
「やってみなきゃわからない」が、本シリーズにおける細野さんの定番台詞で、それは確かに「科学精神」の根幹にある考えなのだろうが、「やってみなきゃわからない」ことを実際にやってみて、それで「わかった」ということになるというストーリーは、「何がわかったのか」がわからないので、なんだか「変」だ。
ウィトゲンシュタインによると、「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもりになってしまうのが科学精神であり、これに対し「わからないことにはわからない」と言うのが哲学精神なのだ。
これが、有名な「語りえないことには、口を噤まねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉の意味だ。
それはさて、私は別にプロ野球ファンではないけれど、地上波放送におけるプロ野球中継を是非復活して欲しいと思う。
なんて言うと、プロ野球の人気が落ちてしまったから中継をしなくなったのだ、という反論が寄せられる。
しかし、本当に人気がなかったら、駅売りのスポーツ新聞があんなに大きいスペースをプロ野球のために使うわけがない。
人気がなくなったのは、あくまでも「テレビの中継」だということをテレビ局は当事者、すなわちテレビの専門家として深く反省すべきではないのか。
というと、見たい奴は専門テレビで見ればよいという意見が出るだろう。
しかし、専門テレビを見ると人間は、プロ野球観戦の、いわば「専門家」なのだ。
「私は別にプロ野球ファンではない」と書いたように、私はプロ野球観戦の専門家(具体的に言うと、ジャイアンツ・ファン、タイガース・ファン、オリックス・ファン等々)ではないので、専門テレビと契約してでも見たいとは思わないのだ。
じゃあお前は、いったいいかなる資格で「地上波テレビで放送しろ」と主張するのかと言うと、日本国の一市民として――ぶっちゃけて言うと、一素人として、斯く主張するのだ。
もし私が、たとえばヨーロッパのプレミアリーグのプロバー(専門的)ファンであるとしたら、私は、専門チャンネルと契約するだろう。
でも、その場合でも、たとえばワールドカップの決勝、あるいは準決勝については、専門チャンネルで見るよりも、地上波テレビで、それまで特に興味があったわけでもなく、一線を画していた「素人ファン」たちと一緒に(といっても別に一部屋に集まってということではない。あくまで「雰囲気」として「一緒に」という意味だ)見て、一緒に盛り上がりたいと願うだろう。
そして、現状においてそうした「素人ファン」を恒常的に――いわば「潜在的ファン」として――擁するスポーツ競技は、やはりプロ野球がまず第一に数えられるだろうと思うのだ。
それ故に、地上波テレビでのプロ野球中継の復活を望むと言うのだ。
ここでウィトゲンシュタインの話に戻ると、《「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもり》になってしまうのが現代的知の「専門家」、すなわち科学者であり、その「わかったつもり」で為してしまった罪科として、今、原発災害の責を問われているのだが、その罪を問う資格のあるものは、彼ら(専門家)の対極にある人、すなわち「一素人としての市民」である。
とまあ、そんなふうに考えているのだ。