パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「専門家」の罪科

2011-10-15 20:23:14 | Weblog
 花の土曜日で、なおかつプロ野球ペナントレースも大詰めだというのに、まったく何の中継もない。

 こういう時はETV(教育テレビ)を緊急避難的に見ることにしているのだが、ETVでは恐竜のCG番組をやっていた。

 しかし、見ているうち、CG映像をあたかもそれが「事実」であるかのごとく思って見なければならないことに、いい加減鼻白んできたというか、嫌になった。

 恐竜が、恐ろしげな表情で、あ~んなとや、こ~んなことをやるなんて、「嘘だ~」と思っても、現に私の前で展開している映像が否応無しに流し込む「何か」を、私は否定することができない。

 「嘘だ~」と思いながらも、それを見たまま受け入れなければならない、私の知覚の不条理。

 その後、YMOの細野さんがナレーターをつとめる「大実験シリーズ」がはじまった。

 「やってみなきゃわからない」が、本シリーズにおける細野さんの定番台詞で、それは確かに「科学精神」の根幹にある考えなのだろうが、「やってみなきゃわからない」ことを実際にやってみて、それで「わかった」ということになるというストーリーは、「何がわかったのか」がわからないので、なんだか「変」だ。

 ウィトゲンシュタインによると、「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもりになってしまうのが科学精神であり、これに対し「わからないことにはわからない」と言うのが哲学精神なのだ。

 これが、有名な「語りえないことには、口を噤まねばならない」というウィトゲンシュタインの言葉の意味だ。

 それはさて、私は別にプロ野球ファンではないけれど、地上波放送におけるプロ野球中継を是非復活して欲しいと思う。

 なんて言うと、プロ野球の人気が落ちてしまったから中継をしなくなったのだ、という反論が寄せられる。

 しかし、本当に人気がなかったら、駅売りのスポーツ新聞があんなに大きいスペースをプロ野球のために使うわけがない。

 人気がなくなったのは、あくまでも「テレビの中継」だということをテレビ局は当事者、すなわちテレビの専門家として深く反省すべきではないのか。

 というと、見たい奴は専門テレビで見ればよいという意見が出るだろう。

 しかし、専門テレビを見ると人間は、プロ野球観戦の、いわば「専門家」なのだ。

 「私は別にプロ野球ファンではない」と書いたように、私はプロ野球観戦の専門家(具体的に言うと、ジャイアンツ・ファン、タイガース・ファン、オリックス・ファン等々)ではないので、専門テレビと契約してでも見たいとは思わないのだ。

 じゃあお前は、いったいいかなる資格で「地上波テレビで放送しろ」と主張するのかと言うと、日本国の一市民として――ぶっちゃけて言うと、一素人として、斯く主張するのだ。

 もし私が、たとえばヨーロッパのプレミアリーグのプロバー(専門的)ファンであるとしたら、私は、専門チャンネルと契約するだろう。

 でも、その場合でも、たとえばワールドカップの決勝、あるいは準決勝については、専門チャンネルで見るよりも、地上波テレビで、それまで特に興味があったわけでもなく、一線を画していた「素人ファン」たちと一緒に(といっても別に一部屋に集まってということではない。あくまで「雰囲気」として「一緒に」という意味だ)見て、一緒に盛り上がりたいと願うだろう。

 そして、現状においてそうした「素人ファン」を恒常的に――いわば「潜在的ファン」として――擁するスポーツ競技は、やはりプロ野球がまず第一に数えられるだろうと思うのだ。

 それ故に、地上波テレビでのプロ野球中継の復活を望むと言うのだ。

 ここでウィトゲンシュタインの話に戻ると、《「何がわかったのか」わからないのに、「なにかがわかった」つもり》になってしまうのが現代的知の「専門家」、すなわち科学者であり、その「わかったつもり」で為してしまった罪科として、今、原発災害の責を問われているのだが、その罪を問う資格のあるものは、彼ら(専門家)の対極にある人、すなわち「一素人としての市民」である。

 とまあ、そんなふうに考えているのだ。

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