パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「not ready」が「準備中」とはこれいかに

2011-05-12 17:36:50 | Weblog
 切符売り場で順番を待っていたら、私の前の人が買い終わったところで、画面が「準備中」に変わった。

 ありゃりゃと思いながら、再開を待ったが,その時、日本語の「準備中」の下に、「not ready」と英語に翻訳表示されていることに気がついた。

 「not ready」と「準備中」では、随分ニュアンスが違う。

 というか、「not ready」は、直訳すれば「準備できてません」となり(「ready」を「準備」と翻訳すれば)「準備中」とは、ほとんど「反対」の意味になる。

 「準備中」は、「準備できてません」ではなく、「今、再開のためにがんばってます」なのだから。

 もっとも、この「準備中」という記述を最初に目にした時、ちょっと戸惑ったことを覚えている。

 「がんばって今やってます」という意味であることに気づいたのは、少し後だった。

 さて,今、東北地方は、「再興のため、がんばっている」わけだが、「がんばる」精神とは、そもそも何なのか。

 3月11日から少し経った頃、NHKで放映された鈴木慶一のインタビュー番組で、鈴木慶一は、「好きな言葉は?」と聞かれ、少し間を置いて、「嫌いな言葉はあります。それは、“がんばる”です」と言って、会場は一瞬どよめいた。

 もちろん、番組は、東北大震災の前に収録されたものだと思われるが、さすが、鈴木慶一と思った。

 ところで、徳川5代将軍吉宗の時、江戸城増築のために地方大名から献上された栂の木材を積んだ船が、折から嵐に遭遇し,舟に乗っていた責任者の判断で、その材木を海に投げ捨て、近くの港に漂着したが,責任者はその場で切腹、それを見た船長もまた切腹し、果ては15歳の見習い船乗りの少年も切腹、合計16人が死ぬという事件が起きたという。

 実は,これは、前々回、寄せられたコメントに添えられていたアドレスをたどったところ、見つけた記述で、そこには、日本社会には、意志ではなく恣意が存在すると書かれ、15の少年の切腹も、その犠牲者の一人だという風に書かれていた。

 その理屈を言えば、次の通りである。

 「恣意」、すなわち、「私欲の勝手し放題」は、子どもの特性であるが、それは、「教育」で是正される。

 しかしそれは英米社会のことで、日本の場合は、「上下関係」を徹底させることで抑制されるが、それは実際には、より下位の人物に「滅私奉公」として押し付けられることになる云々というのだ。

 私としては、それは「がんばる精神」として、15の少年の切腹のように、より下位の人間に押し付けられると言いたい。

 「15の少年までが腹を切った!」ということで初めて「こと」(=世の中)の顛末がつくように日本の社会はできているのだ。

 たとえば、福島原発で「がんばる」作業員。

 東電は末端下請け作業員をちゃんと処遇しろとマスコミ、知識人は言うが,一方で、彼らは、末端下請け作業員の「犠牲精神」を称揚してやまない。

 これはどういうことか?

 日本の社会の上下関係を基軸とする現実は、現実のまま、追認されているということだ。

 この「事実」をマスコミ、知識人は自覚せよ、と言いたい。
 

微笑む巌谷國士先生

2011-05-12 00:47:07 | Weblog
 「風に吹かれて」を手に微笑む、巌谷國士先生です。

 confinueさんが、先生の講演会で「これどうぞ」と渡し、撮影したもの。

 その時、巌谷先生曰く、「不思議な本だ」と宣われたとのこと。

 「不思議な…」。

 これは、「風に吹かれて」を出して以来、しばしば耳にする言葉。

 私には韜晦趣味はなく、ましてや、「不思議な写真」を自覚的に撮ろうと思ったことなどさらさらないけれど、「不思議な…」と言われると、なんだか嬉しい。

 ぶっちゃけて言うと、「見透かされた」と思うと不快に感じることの逆なのだが、そんなふうに言うと身も蓋もない。

 ちなみに、「風に吹かれて」は、そういうわけで、明治学院大学の図書館に納めていただけるそうです。