パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「写真の戦略」について

2011-05-15 18:12:28 | Weblog
 フェイスブックの理論的基礎がクリプキの「指示の因果説」にあるのではないかという前日の書き込みは、ちょっとした思いつきで、そんなに考え抜いた末の発言ではないことをお断りしておかねばならないが、それはともかく、「「固有名詞」を哲学的思惟の対象としようとする発想は、神による名づけとアダムによる名づけの二つの「名づけ行為」を神話としてもつユダヤ・キリスト教世界においてのみ、あり得ることだと思われる。

 そして、そのことを徹底的に考察したのが、実はベンヤミンの言語論「言語一般と人間の言語について」であって、「風に吹かれて」では、それを随分書いたのだ。

 新宿のジュンク堂にあるので、立ち読みしてください。

 おっと、写真も見てください。

 その、「風に吹かれて」の「写真」について、谷口雅がゼロックスのPR誌「グラフィケーション」で、「複数の類似した写真が連続してページを埋めてゆく特異な編集。まるでスローモーションの動画を見るような緩慢な展開。この緩慢な進行は、見る者の意識に棹さしていく戦略なのだろう。」と書き、それをゴダールが『シネマ・ソシアリズム』の予告編で用いた全編フラッシュバックという手法と同じではないかと書いている。

 私はそのゴダールの映画の本編も予告編も見たことがないので、ゴダールとの比較については云々できないが、「見る者の意識に棹さしていく戦略」というのは、まさにその通りである。

 というのは、後ろにつけた写真論の冒頭、盲目の写真家・バフチャルについて論じた箇所で、我々のような「目明き」は、目の前の現実を「見たいように見ている」点で、実は「明き盲」であり、「写真」は、その「目明きの明き盲」に棹さすものとしてそのことを暴露する、と私は書いたのだ。

 これは、谷口氏の言う「見る者の意識に棹さしていく戦略」と同じと思われるが、どうだろう。

 ところで、この「戦略」は、ソンタグの「写真論」の次の難解なフレーズに対する、私なりの解釈から得たものである。

 「写真の含意は、世界をカメラが記録する通りに受け入れるのであれば、私たちは、その世界について知っているということである。ところが、これでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。……厳密に言えば、人は写真から理解するものは何もない。」(ソンタグ『写真論』)
 
 もっとも、この戦略を「複数の類似した写真が連続してページを埋めてゆく特異な編集」として具現化したつもりはない。

 私は、元映画学生として、このような「特異な編集」を、ちっとも「特異な編集」とは思っていなかったのだ。

 それを自覚していたら、もっとハッキリと、そういう「かたち」にしていたかもしれないが、それはかえって、「逆効果」になったかもしれない。

 まあ、今更どうすることもできないのだが。