パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

英米法と大陸法

2007-07-11 22:20:31 | Weblog
 法律には大きく分けて二種類あって、ひとつは英米法、もう一つはドイツ、フランスなど、ヨーロッパ大陸で普及しているもので、大陸法という。
 で、二つの特徴はというと、英米法は「やってはいけないこと」を決め、大陸法は「やってよいこと」を決める。

 ……といった風に考えていたのだが、もうちょっと正確にと思ってネットで調べたら、白田秀彰という(慶応大学の先生らしい)人のHPに次のように書かれていた。

 《英米法と大陸法では、法律のもつ重みが違う。英米法では、法律が「正しさ」に向かうための一般的なガイドラインに過ぎないのに対して、大陸法では、「正しさ」とは論理的に法律に合致していることに(ほとんど)等しい。そうすると、法律を作るときの気合の入り方・深刻さと、これを使う側である私たち下々の者たちの意識が変わってくる。/判例主義である英米法諸国において、法律が適当に作られているというつもりはまったくないけど、大陸法である日本とはかなり違った法・法律の運用がされている。/まず、判例法諸国では、法律は議会のみが作るけど、法は裁判所も作ってよいことになっている。だから、法律に規定がない事態が生じたとき、裁判所は、過去の事例を参照しながら、また、法律以外のさまざまな意見や学説を参考にしながら、目の前の問題を解決することになる。英米法諸国のほうが、たとえばインターネットの登場にともなう新しい社会問題に対応しやすいのは、この判例法システムをとっているところにある。これが大陸法諸国だと、法律に規定がないことについては、裁判所は判断してはならないのが原則になる。それゆえ、どうしても立法部の行動を待つという消極的姿勢にならざる得ない。加えて、法律の設計が決定的に重要であるため、立法部も慎重に慎重に法を作ることになる。だから、どうしても動きは遅くなる。……》

 私の、「英米法はやってはいけないことを、大陸法はやっていいことを決める」という言い方とは大分ちがうが、でも本質的にはそうちがわない。「やっていいこと」とは、要するに、「正しさとは、論理的に法律と合致している事」と同義だ。

 そのようなわけで、赤城大臣が、自分の行為は法律に反していないのだから、「正しい」と言い張って、領収書等の開示を拒んでいるのも、日本の法体系が近代以降、大陸法を採用している結果なのだ。つまり、『大陸法では、「正しさ」とは論理的に法律に合致していることに(ほとんど)等しい』ということになっているので、役人が、「大臣、ここはなんとしても頑張っていただけないと、とんでもないことになりまする~」とか、必死に説得したのだろう。

 この大陸法は、遡れば、カント哲学に行き着く。カント哲学とは、要するに、「知」は経験によって基礎付けられるのではなく、経験を基礎付けるものが「知」であるとされる。それが、有名な「先験的知」だ。これに対し、イギリス流経験主義では、「知」は「経験」から得られるとする。つまり、「知」のない奴がいくら経験を重ねても意味ないだろ、がドイツ流、「経験」から「知」は得られるのさ、がイギリス流で、この「知」を、「法」に置き換えれば、英米法と大陸法のちがいということになる。

 私は、「イギリス流」が好みというか、はっきり言って、「正しい」と思っているのだけれど、日本は、明治初年の欧米視察旅行でドイツ流の法思想を採用した結果、以後、連綿とドイツ流が続いている。赤城大臣、あるいは安部首相の、「法律に従ってやっているのだから、罷免する理由はない」という発言も、こうした日本近代の法思想が背後にあるのだが、このことにマスコミが全然言及しない、というか全然知らないから、話がえらく姑息なことになってしまっているのだ。

 ちなみに、本国の欧米諸国では、英米は大陸に近づき、大陸は英米に近づきつつあるのが現実であるという。実際の所、両者とも、デカルトを源にしているので、融合することも不思議ではない。

 そんなわけで、純粋な大陸法思想は日本のみに残存している、などと言われることもあるらしい。トホホ。

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