パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『椿三十郎』は、なぜ面白いか(黒沢清)

2007-06-29 21:49:17 | Weblog
 NHKのテレビニュースの音声がラジカセから流れているが……日本米の中国初輸出の式典に安部首相までも出席して祝辞を述べている。いわく、「歴史的第1歩」だそうだ。なんで? 自殺した松岡前農相も日本米の対中輸出には相当執念を燃やしていたらしいが、その「熱意」の由来が全然わからない。
 ついでに言うと、日本の男には、中国に行って買春するやつがいまだに多いらしいが、そんなことをする連中の気持ちが全然わからない。「中国女ほど始末の悪いものはない」と、中国人(男)自身が言っているのに。「売春婦には売春婦として扱うだけさ」と言うかもしれないが、でも、その心の奥底には、「高尾太夫」を期待する心がきっとあるにちがいない。まして、中国人は、表面的にはひどく愛想がいいから、それにおだてられて武装解除してしまうのだろうが、いったい、何本、ケツの毛を引っこ抜かれたら彼らの本質(エゴイスティックな「打算」と、それに由来する「猜疑心」)に気づくのだろう。いや、いい加減、少しは気づいていると思うのだが、まさか、彼らの打算に、「誠」で応じようとしていやいまいか。だとしたら、打算と猜疑には、同じく「打算と猜疑」で応じる他ないのだと言いたい。

 ところで、「中国女」と言えば、映画『中国女』のゴダールで、ゴダールと言えば黒沢清なんだが(強引……)、その黒沢清の著書、『映像のカリスマ』から。

 『映像のカリスマ』は、本屋で何度か立ち読みした挙げ句、半年ほど前に意を決して買ったのだが、奥付を見たら1992年初版だった。15年間、初版のまま本屋に置いてあったか、取次ぎ、版元の間をループ状に往復していたのだ。名著だと思うのだが、黒沢清も大変だなあ……。

 それはさておき、この中で、黒沢は、黒澤明の『椿三十郎』の面白さについて書いていて、なるほどと思ったので、それについて少し書いてみたい。

 そもそも、『椿三十郎』は、同じ黒澤の『用心棒』の続編で、主人公の浪人、椿三十郎は、『用心棒』の桑畑三十郎と同一人物であるということはお日さまが東から上がるくらいにはっきりしているのだが、黒沢清曰く、椿三十郎の映画的アイデンティティ(こんな野暮ったい言葉を使っているわけではないが)は、『用心棒』の桑畑三十郎に預けっきりで、『椿三十郎』の三十郎は、いわば桑畑三十郎の抜け殻でしかない。
 その抜け殻三十郎が、上州の宿場町から、どこぞの侍屋敷が軒を列ねる町にやってきて、お家騒動に首を突っ込む。しかし、三十郎は「抜け殻」なのだから、主体的意志はない。そんなんで「ドラマ」は成立するのだろうか?

 案の定、一般に言う「ドラマ」と言えるようなものは何もない。ないないづくした。

 《主人公三船のムンとした態度の裏には背負った暗い過去へのニヒリズムがあるわけでもなく、若者達に有無を言わせぬ神秘名力を持っているのでもなく、周囲に「あれはあの人の癖なんだ」とだけ言わせて、それでおしまい。……加山雄三は三船に一目置いているのだが、この若者が三船に共感するドラマも皆無だ。……悪役仲代に同志を無惨に殺され遂に人々は決起するといった誰でも採用したくなるエピソードもなし。おまけにだ。バストショットはあってもクローズアップはなく、フルショットはあってもロングショットはない。皆さんはいったい、黒澤明の映画にとうとう一度も地平線が出て来なかったと言って、信じられます?》(『映像のカリスマ』)

 「地平線」に関しては、ラスト近く、仲代と三船の決闘シーンの直前にあったような気がするが、それはそれとして、『椿三十郎』が「ないないづくし」の映画であるという黒沢清の見立ては、なるほどそうにちがいない、と思う。

 しかも――ここが肝心なのだが――それにも関わらず、『椿三十郎』は面白い。

 何故面白いのか――これが、『椿三十郎』について考えるべきことの肝心の、そのまた肝心のことということになるわけだが、黒沢清は、それを、椿三十郎が、「ただただ、やたらめっぽうに《強い》」ところにあると言う。まるでターミネーターのように、いや、ターミネーター以上にターミネーターだ。しかも、この《強さ》を「正当化する感情的な、或いは説話的な理由は、何度も言うが、どこにもないのだ」と。(だから、ターミネーターなのだが)

 なるほどねー、私も、何故、『椿三十郎』が「面白い」のか、見ていて文句なしに「面白い」(時々、あえて『用心棒』より面白いとか、ひねくれて言ってみたくなったり)のに、その面白さの理由がわからないで困って(?)いたのだが、そういうことだったのか、と納得しつつ、でも本当の事を言えば、椿三十郎が強いのは、彼がイコール桑畑三十郎だからでしょ、それはわかっているはずでしょ、とまぜっかえしたくなる。

 つまり、要するに、『椿三十郎』は、画面の外に「物語」の根拠を持つ、一種の「楽屋落ち映画」なのだが、これは、物語映画の物語性を危うくするものではなく、それどころか、物語を支える本質=土台と考えるべきなのだ……でしょ? 黒沢先生。

 ところで、『映像のカリスマ』に収められている最初期の論文二つの初出誌が「緑光水」(1979、80年)となっていたが、「緑光水」って、買ったことがある。自主製作映画サークルが出した、せいぜい十数ページのガリ版刷りか、ボールペン原稿のコピー本で、ラムネ瓶のコピー映像をイラスト化して表紙にしてあったと記憶している。
 半ば、「緑光水」というノスタルジックなタイトルに引かれて買ったのだが、中を読んではいない。しかし捨てた記憶もない……いや怪しいなあ……まあ、もし見つかったら表紙だけでもアップします。