パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

『国民の創世』を見る

2007-06-13 23:24:59 | Weblog
 グリフィスの『国民の創世』を見る。(ビデオ)

 映画好きの人なら知っていると思うが、無声映画時代最初期に作られ、大ヒット、ハリウッドの基礎を築いたといわれるアメリカの南北戦争を背景にした記念碑的大作だ。映画技法的にも様々な新機軸がこの映画をきっかけに工夫されたそうだが、今から見ると、「まだ考案されていない」技法ばかりが目立ってしまう。例えば、カメラが主人公を追うことも、『国民の創世』では、まだ試みられていない。カメラは基本的に定まった位置にいる。例えば、ストーリーは南部の家族の運命を描いているのだが、その家族が住む家は、いつも同じ角度で映され、役者がそこに入って来たり、出ていったりする。つまり、「画面」は、いまだ「劇場の舞台」として扱われている。(もちろん、詳しく見れば、カメラが出演者の「心」を映そうとしていることはわかるのだけれど)

 というわけで、南北戦争の勃発からお話は始まるが、当初、正直いって、どうもかったるかった。

 件の「南部の家」は、二人の息子を戦場に送りだす。そして、一人は戦友が倒れたところに駆け寄ったところを撃たれて死に、もう一人は、部隊長として奮戦、勇敢に突撃して倒れるものの、紳士的態度を北軍に賞賛され、北軍の手で奇跡的に助かる。
 療養中の彼のもとに、一人の志願看護婦がやってくる。その女性は、なんと、彼の知り合いの娘だが、いまだ「写真」でしか見たことのない、憧れの女性、その人だった。
 しかし、北軍は、彼の行動に「ゲリラ的」側面があったとして、死刑を言い渡す。
 なげく、看護婦、そして、彼の母親。母親(なかなか名演技)は、大統領リンカーンのもとを訪れ、必死に頼み込んで、息子を救う。
 リンカーンは、敗者である「南部」をアメリカの一員だったし、これからもそのように扱うと宣言し、「敗者として扱え」と主張する共和党の議員と対立するが、それを退け、寛大な政策を撮ることを約束する。
 しかし、リンカーンは、その直後、暗殺されてしまう。リンカーンに助けてもらった一家は、自分達の運命に暗雲が漂ってきたと思う。

 ここまでが、前半だが、本格的ドラマはここから。そして、かったるかった印象も段々薄れて行く。

 リンカーンの死後、リンカーンに対立していた議員(その娘が、「彼」の憧れの女性……だったと思う)は、奴隷としてしいたげられてきた黒人は、これからは白人を支配する権利があると主張する。もちろん、これは、自分の勢力を伸ばすためであり、そのためにある黒人政治家(白人との混血だが)をおだてあげる。
 実際、戦後の南部は黒人の天下で、道行く白人は黒人とあったら道を丁寧に挨拶をし、道を譲らねばならない。そして、戦後初の選挙では黒人議員が議会を独占し、例の黒人政治家も副知事に当選する。(南北戦争後の「南部」が、一時期、黒人の天下であったということは知らなかったが、戦後間もない日本のことなどと考えあわせると、少し誇張されていたとしても事実なのだろう)
 
 と、ここらへんから、結構面白くなってきた。

 我が物顔に振る舞う黒人達を悔しい思いで見ていた主人公の青年は、ある日、黒人の子供達が白い布をかぶって「お化けごっこ」をしているのを見かけて、インスピレーションを得る。
 こうして、白い布を全身に纏った、KKK団が誕生する。
 KKK団はたちまち多くの団員を抱えるようになる。

 一方、副知事になった黒人政治家は、彼が片思いしている娘に、「私は南部の王様になる。貴女は女王様になるのだ」と言って、結婚を申し込む。しかし、彼女はそれを拒み、逃げまどう。そこに、父親がやってくる。黒人政治家は、娘の父親に自分の構想を自慢げに打ち明け、娘を説得してくれるように頼むが、父親は、「ということは、お前が私の息子になるのか?」と言って、考え込んでしまう。
 もちろん、南部の敗北により、黒人と白人は結婚できるようになり、そのための法律改正に「父親」は賛成したのだが、自分の娘が黒人と結婚するとは考えもしなかったのだ。

 決断を迫る黒人政治家は、失神した彼女を抱え上げて我がものにしようとする。その外では、黒人が大勢集まって気勢をあげている。あわれ、汚れなき乙女の運命やいかに。

 ……というところに、彼女の恋人、すなわちKKK団の指導者である彼が率いるKKK団が駆けつけ、彼女を救い、二人は結ばれる。

 というわけだが、かなり長く、しかも「無声」なのに全部見てしまった。ハリウッド映画には、このような「政治」をテーマにした映画が結構あるが、アメリカ社会は「政治」そのものなので、不思議ではないし、面白い。『国民の創世』で語られているお話も、単なる黒人蔑視、差別というより、「南部」を支配しようとする白人政治家が背後に隠れて黒人を煽り、操っている構図を描こうとしている。しかも、これは、今もある程度は通用する図式なのではないだろうか。たとえば、成功した黒人は、みな白人を妻にしようとする。ちっとも変わらない。

 実際のところ、黒人に限らず、一般的に、有色人種の男性は、白人女性を娶ることをステータスシンボルとする傾向があるように思う。しかも、そのことを、「女性」の方も認めているようなのは、いったい何故なのだろう。はっきり言って、「哀れ」に思えてしまうのだが、日本人には、男にも女にも、幸いにも、そんな傾向はまったくない。テレビCMなんかを見ると、いかにも全国民あげて男女の別なく、白人に憧れていそうだが、たとえば、梅宮達夫を、白人の妻がいることで、日本人が高く評価してるかというと、どう考えても、――心の底まで探ったとしても、そのような要素は全然ないと断言できることは、ちょっと不思議に思う。

 最後に、(白人中心の)秩序を取り戻した街の俯瞰映像に、両手を広げたキリスト像がオーバーラップで映し込まれるが、これはかなりの迫力で、グリフィスが次に手掛ける超大作、『イントレランス』を彷彿とさせるものがあった。(とかなんとか言って、『イントレランス』はまだ見たことないのだが……)