パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

雑文

2006-10-14 15:03:02 | Weblog
 秋葉原ヨドバシカメラ、7fの有隣堂で三浦しをん先生の直木賞受賞作を立ち読み。といっても、最初の2~3頁だが。

 主人公の男性が老人ホームだかに預けられている高齢の母親のもとを訪ねる。
 母親「あんた、あんな嫁とは早く別れなさいよ」
 男「(とっくに別れてるんだけどな)」内心の声。

 その他、男は母親からいろいろと予言めいたことを拝聴する。その後、帰り際に看護師(「看護婦」でいいだろうに、小説なんだから)が、母親をベッドに押し込みながら、「おばあちゃん、いいわねえ。親孝行の息子さんがいて」などと言うのを聞いて、男、「親孝行なわけないだろ」と思う。ん?
 実は、この男、「便利屋」で、雇われて面会にきたので「息子」などではない。ということはそれに気づかぬ、おばあちゃんは、完全な痴呆なのだ。(台詞を読む限り、「痴呆」には思えなかったが……)

 といったところで、プロローグ・完で、後は、多分、このおばあちゃんの「予言」を軸に話がすすむのだろう。もちろん、そうなるかどうかはわからないが、でも、一応、予後に期待を持たせるという意味では、この出だしはまあまあかもしれない。
 よく先の展開が読めてしまうのは面白くない、という奴がいるが、そんなことはないだろう。先の展開がなんとなくわかり、その範囲内で話がすすむが、でも、読者の思い通りというわけではなく、少しずつずれている、というのが「面白いお話」ではないのか。少なくとも、先が「全然読めない」よりもいい。(しかし、「便利屋」って、小説にも使えちゃうなんて、本当に「便利」だなあ。もっとも、この職業が今もあるかどうかは知らないけれど)

 その後、映画監督、黒沢清の雑文集を立ち読み。ハリウッド映画についていろいろ批判する人もいるが、なんといっても、面白いことは面白い。私は、そもそも「面白い」ということをハリウッドから学んだような気がする、と書いてあった。同感。ただし、アメリカ人以外には、この「面白さ」を実現することは、百パーセントできない、と。これも同感。ところが、そのハリウッドで活躍している映画作家の多くは移民だったりする。それも、子供の頃にアメリカにやってきたとか、そういうのではなく、ある程度の映画的キャリアをつんだ上で、アメリカに移って才能を開花させたりしているところが不思議。ビリー・ワイルダーとか。

 今朝、マクドナルドでうん○をしていたら、いきなり、コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンココーンッ!(し、しつこい)と、まるで木の幹を突くキツツキのような猛烈なスピードでノックされた。こりゃあ、よほど焦っているのだろうと思い、ちょうど出すものを出した後だったので、水をジャーッとでかい音で流して「すぐ出ますよ」と合図をしながら、あわてて身じまいをして外に出たら、誰もいない。なんだ、あの超スピードのノックは、ただの癖で、別に焦っていたわけではないのか。それとも本当にキツツキがマクドナルドのトイレに飛来したのだったりして。

短くすませる積もりが……

2006-10-11 20:48:50 | Weblog
 女優の(という枕詞も変な感じだが)水野美紀が恋人と添い寝か何かしている画像の入った携帯を落とし、それがマスコミの手に渡ってどうのこうのという話。あれ? 水野美紀って、政治家と結婚したんじゃなかったけか、すわ不倫か、と思ったが、水野ちがいだった。
 実際のところ、二人の共通点は「水野」姓だけで、キャラクターは全然ちがうのだけれど、この際、はっきり違いをわきまえておこうと、水野美紀のブログを見た。
 ブログのタイトルが、「いいことばかりじゃないけれど……」。ありゃりゃと思ったが、今回の携帯事件のタイトルじゃない、ブログのタイトルなのだ。あんなに美人なのに、控えめな人だなあ。文章も自分で一生懸命書いているような感じだ。真面目な人なのだろう。
 その後、出演作を調べた。たしか、「ガメラ2」に出ていたはずだが……と思ったが、確かにそうだった。当時、22歳。そんなに若かったのか、とちょっとびっくり。とても落ち着いている感じがしたのだけれど、ブログに載っている最近の写真を見て、得心がいった。やっぱり、女性は22歳ぐらいが一番美しいのだろう。
 「ガメラ2」をめぐっては、唐沢さんが、「ガメラ1」は怪獣マニアのツボを心得たマニア待望の作品だったが、「2」はそれを全面的に裏切っている故に、×という意見で、対する、怪獣マニアではない私は、「いや、2は面白い」と言い張って対決(?)したのだったが、実は、その時にはいわなかったのだが、水野美紀が美しかったのが非常に記憶に残っていて、これもプラス点だったのだ。では、なんでそれを言わなかったかというと、その時の彼女の美しさが古きよき東宝映画のそれであり、そして、私は東宝のサラリーマン映画のファンなもので、それが尾を引きずって、美紀嬢の映像にソフトフォーカスがかかって見えたのだ。したがって、水野美紀讃辞は、東宝映画讃辞になり、でも、東宝はゴジラで、ガメラは大映だし、大映なら若尾文子を忘れちゃいけない……と、話がこんがらかりそうで、遠慮したのだ。いや、そんなにはっきりと自覚していたわけではないけれど、ともかく、彼女はどこかの町の薬屋の娘だったのだな。こんなに覚えているとは我ながらびっくり……、いや、美紀ちゃん、すてきでした。今、32といったって、まだまだ若いです、本当の話。

 小林薫、告訴取り下げ、死刑確定。
 大谷昭宏が、宅間といい、小林といい、自ら死刑を望んでそれが認められるとしたら、死刑制度が根本からおかしくなるから、問題だ、と言っていた。ん? どんな意味だろうと思ったら、「自殺する代わりに殺人を犯す者が多数現れるかもしれないから」だという。言うに事欠いて、なんとまあ、阿呆なことを、と思ったが、マンションから子供を投げ落とした男といい、タクシーの運転手を殺した郵便局員といい、実際に、それに近い動機の殺人が増えていることは確かだ。しかし、だからといって、死刑にしたら、彼らの望み通りになるから、死刑にしてはいけないというわけにもいかないだろう。

 セ・リーグの優勝を決めた中日×巨人戦に続き、パ・リーグのプレーオフもテレビ中継なしに、びっくり。別に、野球人気が急激に落ちたわけではないだろう。春のWBCには、みんな熱狂したし、高校野球も大人気だった。つまり、前から書いているが、すべて、巨人とのおんぶだっこでやってきたことのツケが回ってきたのだが、マスコミはそれに気づいていないらしいのが笑止千万。
 新聞休刊日もそうだ。いずれ、大事件が休刊日を直撃するだろうが、その時はどうするのだと思っていたが、今回、それがやってきた。もちろん、北朝鮮の核実験だ。もし、休刊日の前日に核ミサイルが日本に飛んできたらどうするつもりだろう。やっぱり、休むのか? 
 別に休刊日がけしからんというのではない。「なんで、一斉に休むのか?」ということだ。もし、自分の休刊日に大事件が起きたら売り上げで差がついてしまうからまずい、とでも言うのだろうか。だったら、休刊日返上で出せばいいだろう。そのラインをどこに引くかが問題だって? そんなの、マスコミなら自分で決められるはずだ。それとも決められないのか?(そうかもしれない)
 雨の日も風の日もがんばる「新聞少年」に休みを与えるために休刊日を作りました、新聞少年の明日のためにご了承下さいと、以前、言っていたが、小林薫は新聞少年、いや、中年だったんだよな。いや、関係ない話だが、なんか、八つ当たりしてしまう。(短くすませる積もりが長くなってしまった)

「志村ー、うしろ!」

2006-10-11 00:36:48 | Weblog
 というギャグがあるが、これは、我々は、我々の背後の世界を見ることができないということを使ったギャグで、振り返れば、それまで見えなかった世界を見ることができるが、今度は、それまで見えていた世界が、背後に回ってしまうので見えなくなる……の繰り返しがギャグとなる。
 ギャグのことはともかく、回り舞台のような、この「私と世界の関係」は常に成り立っていると考えられる。何故なら、「世界」は、我々がそれを「見ようが見まいが」存在しているからである。
 ……と、これは、我々の常識的世界観とも言えるのだが、しかし、さらに深く考えると、次のように、話は逆になる。
 というのは、私は、私の背後の世界を見ることはできないが、それが存在していることを確信している。そのように、今書いたわけだが、それは、「私の背後の世界」が、私が今、目の前に見ている世界と一つながりにつながっていることを確信しているということに他ならない。だとしたら、世界は、「見えていようが、見えていまいが存在している」とは言えなくなる。つまり、「見えない世界は存在しない」と、最初とは逆の結論が導きだされる。

 と、まあ、こんな七面倒臭いことを今回、「月光」で書いたわけですが、心して読んでくだされ。

 その後、2chをのぞいたら、北朝鮮が核実験を実施したとのこと。これは、「北が核実験をしたらいいな」(←2ch体質)というガセスレかと一瞬思ったが、本当だった。北は何を考えているのだろう。しかし、ノ大統領、口では怒ってみせながら、顔は嬉しそう。正直な人だ。

私の、明日はどっちだ!

2006-10-09 16:43:02 | Weblog
 昨日、今日と外はピーカンの青空なのに、事務所に引きこもって鬱々としている。
 というのは、「月光」について、これまで、何度もできたできた、と言いつつ、読み直すたびに、記述の不備に気がついて、それを直したりしていたのだが、それも今度こそなんとか完成した。複数年をまたいで苦労したそのテーマは、「視覚の謎」。触覚、聴覚、味覚、嗅覚等はみな対象との接触が断たれたら成立しないが(聴覚も空気の振動に触れることで得られる)、視覚のみ対象が離れていても成立するのは何故かというもので、答は、視覚も、他の知覚と同じく、「直接知覚」だからだということなのだが……まあ、それは読んでいただくことにして、なんで、書き上がったのに鬱々としているかというと、最後の、いわゆる「パッケージ」で悩んでいるのだ。

 この問題は、実は千駄木のMさんから指摘されたのだが、本当のところ、指摘されるまでもなく、その重要さはとっくにわかってるわい!と言いたいのだが、それがなかなかうまくいかないという点では、「わかっていなかった」とも言えるわけで、こんちくしょーと思いつつ、鬱々としちゃっているわけだ。
 今回は、映画の研究ということで書きはじめたので、その中で、「パッケージ問題」も知った。それは、ハリウッド草創期というか、それ以前の話なのだが、当時、映画館ではフィルム製作会社で作られたフィルムを勝手に上映していた。館主の好みでタイトルをつけ、観客の好みに応じて、クライマックス場面だけを上映したり、フィルムの上映の順番を入れ替えたり、それでもお客さんが退屈した場合にはフィルムを逆回転させたりしていた。
 しかし、これでは安定した顧客を獲得することができないことに気づいたフィルム製作会社は、いろいろ考えた末、フィルムを入れる缶にラベルを貼り、それに作品タイトルと簡単なストーリーを書き込み、それをさらに、「喜劇」「活劇」「悲劇」などに分類した。簡単なことだけれど、これが、ハリウッド映画に特徴的な「ジャンル」の誕生なのだ。(ただし、今回の原稿ではそこまで話が進まなかったが)つまり、「ジャンル」とはそもそも、フィルム製作者と観客の間で両者を取りもっている映画館主に対して、その仕事をやりやすくさせるためのものだったのだが、出版においても同じことで、版元は、読者に本を届ける前に、書店の店員に自分達が作っている本のプレゼンテーションをできるだけ明確に行わなければならない。
  ただし、「月光」の場合は、大半が通販で買ってもらっているということで、「ジャンル」つまり、雑誌の基本性格の曖昧さはなんとなくカバーされていたのだけれど、今回は、取次は通さないけれど、これまでよりは多く書店に置きたいと思っているので、「パッケージング(ジャンル)」の問題を真剣に考えなければならなくなった。「ならなくなった」って……最初からわかっているのだが……でも、それがなかなかうまくいかない……ということで、外は青空、中は鬱々という状態に陥っているのだ。うーん……。

 と、あれこれ悩んでいるうち、ふと、著作権エージェントみたいな仕事をサブででもいいから、やってみたらどうかと思い、ネットでググって調べたら、三浦し○ん(伏せ字になってない……)とかいう女性作家のブログに突き当たった。どうやら、エージェントを介した出版物が今期直木賞をとったらしく、エッセーでも大人気で、「エッセーの達人」とまで言われているらしい。私が見たブログも、過去のものは有料でダウンロードするようになっているのだが、読んで、困惑した。ちーとも、面白くないのだ。もちろん、「私にとっては」ということだが……ある晩、アパートに帰ったら、そのアパートの住人である若い男性とすれちがった。私は、軽く挨拶をしたが、男は黙って私の脇を擦り抜けていった。私は「コンチクショー」と思い、自分の部屋で四股を踏んで、嫌がらせをした。といっても、男は出ていったばかりなので、下の部屋には誰もいないのだが……と、電話が鳴った。○○ちゃんからだ。「何してんの?」「四股踏んでるの」「四股?」「それがね、さっき……」と延々、愚痴を披露する……という話だ。
 要約するとちょっと面白そうにみえるかもしれないが(笑)、実際に読むと、退屈の二文字。何故なら、四股を踏むまでは、本当のことだろうが、電話云々は多分、作り話だ。若い娘が自分の部屋で一人四股を踏んでいるなんて、他人が見たら変だろうなー、そうだ、電話がかかってきたことにすればいいや、と。つまり、「他人が見たら変だろうなー」という客観認識を○○ちゃんとの電話の会話で逃げてしまったため、「深み」が出てこないのだ。
 いや、理屈っぽくなってすみません。要するに、もし私がエージェンシーだったとして、このし○ん先生の文章を出版社に持ち込む気持ちにはなれないなーという話。てことは、つまり、私はエージェンシーには向いてないってことか。
 あ~、私の明日はどっちだ!

小林薫の「内面」

2006-10-08 13:28:28 | Weblog
 奈良の女児殺人で死刑判決が下った小林薫が、判決文があまりにも下らない、もっとまともに書けと言って控訴しているという。「フライデー」に、そう訴える小林の手紙が載っていた。記事は、本音は死刑が怖くて控訴したのだと書いてあったが、「異常性欲を満足させようとして犯行に及んだ」という判決要旨があまりにも「おざなり」であるという点に関しては小林に同意するしかない。こんなことしか書けないなら、動機に対する言及なんかはいっそ全部削ってしまって、「異様残虐な行為には情状酌量の余地はない」だけでいいだろう。
 とはいえ、小林の犯行動機は何だったのかということについて、シカトを決め込むわけにはいかない。何故なら、彼は、自分の名前が世間に知られればそれでいいと言っているそうなのだ。それで、あれこれ考えたのだが、「甘え」の研究で有名な故土居健郎の「非行の心理」という名論文(だと思うが)の指摘があたっているように思う。以下、引用。

 『非行を内面性への衝動の結果として捕らえることは治療上特に有益であると思われる。非行が発覚した少年は、両親や教師にとがめられたり、あるいは警官や家庭裁判所の調査官などに取り調べを受ける際、なかなか非行を行うまでに至る事情を打ち明けることができない。これはふつう、悪いと思いつつやったのだから言いにくいのだろうという風に想像される。これは全く間違った想像だともいえないが、ともかくその結果、大体次のような期待が少年を調べるものの側に起きるように思われる。一つは悪いと知りつつやった(小林の場合で言えば、幼女強姦)のだから、それ相当の事情(殺してでも幼女強姦をしなければ納まらない程の性欲の強さ)があったにちがいない、ついてはそれを少年から聞き出したい、ということである。今一つは、非行が発覚した現在、少年は当然改悛の情を見せるべきであるが、いったい何時少年がそれを言い出すだろうか、ということである。ところが不幸なことに、少年は普通この二つの期待のいずれにもなかなか応えてくれない。そこで遂には少年を調べる側がかえって焦れてくるという結果が起きる。そしてとどの詰まりは、色々な心理テストを施してみて、もともと少年の性格が歪んでいるとか、あるいは改悛の情が不充分であるというような結論(今回の死刑判決理由)でしめくくられてしまうことが多いのである。
 これを要するに、非行に及んだ事情を少年が素直に語れないのは、悪事が露見して少年の心が恐縮しているためだ、という風に単純に決めてかかるのが間違いであると思う。それもいくぶんかあるかも知れないが、しかしそれだけではない。そこにはもっと深い心の痛みが疼いていると考えなければならない。即ち、少年はまずもって内面性への試みが敗北に終わった苦痛をこそ味わっているのではなかろうか。……またもっぱら敗北感に苦しんでいるのだから、改悛の情が起きてこないのも当然である。(中略)
 人間が内面性を持つために、非行の回り道を通らなければならないということは人間の悲劇である。人間は常に他人の目を意識している限り、真の内面性を持つことはできない。他人の目が届かないということで、はじめて内面性が存在する可能性が生まれてくるからである。しかし、この可能性を現実のものとすることは決して容易なことではない。それはしばしば甚だしい葛藤状況をひき起こす。実際に犯罪を犯していないのに、犯罪的心理を持たされることさえ稀ではない。それであるから、内面性確立の途上で、昔も今も、かなり多くの人々が、他人の目を愉しむ非行に走るのは、ほとんど無理からぬことであると言わなければならないのである。』(「甘え雑稿」より)

 もちろん、小林は少年ではないし、やったことも万引きとか西瓜泥棒のようなものではなく、到底「無理からぬこと」などと言える余地などないとも言えるかもしれないが、「世間に小林薫という名前を知らしめるためにやった」と小林自身が言っているかぎり、彼は本質的に「非行少年」なのだと思う。(万引きでも、西瓜泥棒ではなく、幼女誘拐殺人を選んだということには彼の性的嗜好が絡んでいるのかも知れないが、幼女なら簡単に盗むことができるということで選択しただけとも言えるので、そうだとすると、西瓜の代わりに幼女を選んだとも言える。)
 とはいえ、彼の選んだことは、「絶対悪」である。つまり、本質から言えば、世間から遮断された「秘密」を自分の内側に抱えることが内面性獲得につながる(これが土居健郎の「非行の心理」の要旨なのだが)はずだが、彼はなんらかの理由でそれをまっとうに考えること、あるいはまっとうに実現することを諦め、それ(秘密)を、もっぱら、世間に対する優越感に転化させて弄ぶようになったのだ。

 とつらつら考えるに、件の裁判官のように、「おまえの考えていることなんか、わしゃ知らないもんね」と阿呆のふりして彼をイライラさせるのも一つの方法のように思えるが、それじゃあ、「世間」の「まっとうさ」がぐだぐだになってしまう。犯罪といっても色々あるけれど、真摯に考えるべき時は考えるべきだと思う。

今朝の朝日新聞社説

2006-10-06 15:37:51 | Weblog
で、こんなことが……。
 もちろん、安部総理に対する批判なのだが、安部ちゃんの「歴史を、その時代に生きた人々の視点で見つめ直そうという姿勢」に対し、以下のようにこれを批判している。

 『(安部総理の)言いたいことは、侵略や植民地支配について、今の基準で批判するのではなく、当時の目線で見よということなのだろう。
 この考えは、歴史について半分しか語っていない。過去の文書を読み、歴史上の人物の行動を理解するとき、時代の文脈を踏まえることは言うまでもない。だが、それは出発点にすぎない。
 さらに一歩進んで、歴史を評価するとき、その時代の視線を尺度にしたらどうなるだろうか。歴史には様々な暗黒面がある。人間が人間を動物のように扱う奴隷制や人種差別、ホロコーストなどの大量虐殺。それぞれはその体制の下では問題にされなかった。
 私たちは時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえるからこそ、歴史上の恐怖や抑圧の悲劇から教訓を学べるのである。ナチズムやスターリニズムの非人間性を語るのと同じ視線で、日本の植民地支配や侵略のおぞましい側面を見つめることもできるのだ。 』

 いくらなんでも、ホロコーストは、当時でも認められないだろう。ナチスのやったことは、「当時」でも犯罪行為だった。それが欧米を中心とする戦後体制の絶対的黙契とも言うべき「歴史認識」 だ。本当にドイツ国民が、あるいは連合国の戦争指導者たちが、ナチスのやっていたことを全然知らなかったかどうかはわからないが、ともかく、そういうことにした。しないわけにはいかなかった。
 これに対し、「時代の制約から離れて、民主主義や人権という今の価値を踏まえ」ることではじめてホロコーストの「犯罪性」が認識できるというのが、朝日の主張だ。いかにもごもっとも風な意見だが、それは常に「当時は当たり前だった」という反論を招きかねない。だからこそホロコーストを「絶対悪」として、「時代の制約」から切り離したのだということを承知でものを言っているのか?朝日新聞! まあ、朝日自身が「ホロコーストは当たり前だった」って言っちゃっているわけだが……。(しかも、そのナチスと戦前の日本軍国主義を同一視しているわけだが……もし、面と向かって問いつめれば、「まったく同じとは思わないが、でも、反省しなくてもいいというわけにはいかない」とか言うのだろう。まあ、これについては割愛)

西田の……

2006-10-05 00:18:33 | Weblog
 下の名前は、敏行でした(笑)。「釣りバカ」見たことないもんで……そんな問題じゃないか。

 ここのところ、私よりだいぶ年下で、全然知らないわけではない人の訃報が続いたり、安部首相が誕生したり、酒酔い運転、わき見運転バッシングが凄まじかったり(叱責されるのは当たり前だけど、古館が「人間はなんて愚かなんでしょう」とか言うと、「お前はどうなんだ」って返したくなる人は少なくないだろう)、時効が成立してから「私は人を殺しました」と名乗り出て、なおかつ、殺した相手の近親者に対して、あっかんべー的態度をとって、でも、誰もどうすることもできなかったり、巨人戦の視聴率が10%を割ったり、ハンカチ王子が大人気だったり、北朝鮮が核実験やるぞ宣言をしたり、ディープインパクトが負けたり……本当にいろいろあって、目移り(?)してしまうが、とりあえず、巨人戦の視聴率低下について一言。

 マスコミは、巨人の魅力が低下したことの必然的な結果であって、だったら中継を止めるだけと脳天気を決め込んでいるみたいだが、実際は、巨人とのおんぶだっこでずっとやってきたことの「ツケ」が回ってきた、つまり、本当に危機なのはマスコミ、とりわけテレビなんだということに本人たちが気づいていないところが、まことに脳天気だと感じる毎日である。今のところは、広告媒体としてのテレビの価値はまだまだ圧倒的と思われるので、そうしていられるのだろうが、この先はわからないぞ、と言っておきたい。

米沢嘉博氏……

2006-10-03 21:52:14 | Weblog
 死去。享年53歳。若いなあ。普通ならバリバリの現役なのに。愛想の良い北村昌士って感じだったが、二人ともお墓の中か。(米沢君はこれからだけど)御冥福をお祈りしますとしか言い様がない。

 御冥福といえば、ラーメン屋でテレビを背にレバニラいためを食べていたら、西田……下の名前はなんだっけ……が、丹波哲郎のお葬式の弔辞で、丹波の物真似で喋り出した。丹波そのものとしか思えないその声に、慌てて座り直してテレビを見たら、たしかに西田が喋っている。仰天した。場面が場面だけに、ぞっとした人がいたりして。