パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

小林薫の「内面」

2006-10-08 13:28:28 | Weblog
 奈良の女児殺人で死刑判決が下った小林薫が、判決文があまりにも下らない、もっとまともに書けと言って控訴しているという。「フライデー」に、そう訴える小林の手紙が載っていた。記事は、本音は死刑が怖くて控訴したのだと書いてあったが、「異常性欲を満足させようとして犯行に及んだ」という判決要旨があまりにも「おざなり」であるという点に関しては小林に同意するしかない。こんなことしか書けないなら、動機に対する言及なんかはいっそ全部削ってしまって、「異様残虐な行為には情状酌量の余地はない」だけでいいだろう。
 とはいえ、小林の犯行動機は何だったのかということについて、シカトを決め込むわけにはいかない。何故なら、彼は、自分の名前が世間に知られればそれでいいと言っているそうなのだ。それで、あれこれ考えたのだが、「甘え」の研究で有名な故土居健郎の「非行の心理」という名論文(だと思うが)の指摘があたっているように思う。以下、引用。

 『非行を内面性への衝動の結果として捕らえることは治療上特に有益であると思われる。非行が発覚した少年は、両親や教師にとがめられたり、あるいは警官や家庭裁判所の調査官などに取り調べを受ける際、なかなか非行を行うまでに至る事情を打ち明けることができない。これはふつう、悪いと思いつつやったのだから言いにくいのだろうという風に想像される。これは全く間違った想像だともいえないが、ともかくその結果、大体次のような期待が少年を調べるものの側に起きるように思われる。一つは悪いと知りつつやった(小林の場合で言えば、幼女強姦)のだから、それ相当の事情(殺してでも幼女強姦をしなければ納まらない程の性欲の強さ)があったにちがいない、ついてはそれを少年から聞き出したい、ということである。今一つは、非行が発覚した現在、少年は当然改悛の情を見せるべきであるが、いったい何時少年がそれを言い出すだろうか、ということである。ところが不幸なことに、少年は普通この二つの期待のいずれにもなかなか応えてくれない。そこで遂には少年を調べる側がかえって焦れてくるという結果が起きる。そしてとどの詰まりは、色々な心理テストを施してみて、もともと少年の性格が歪んでいるとか、あるいは改悛の情が不充分であるというような結論(今回の死刑判決理由)でしめくくられてしまうことが多いのである。
 これを要するに、非行に及んだ事情を少年が素直に語れないのは、悪事が露見して少年の心が恐縮しているためだ、という風に単純に決めてかかるのが間違いであると思う。それもいくぶんかあるかも知れないが、しかしそれだけではない。そこにはもっと深い心の痛みが疼いていると考えなければならない。即ち、少年はまずもって内面性への試みが敗北に終わった苦痛をこそ味わっているのではなかろうか。……またもっぱら敗北感に苦しんでいるのだから、改悛の情が起きてこないのも当然である。(中略)
 人間が内面性を持つために、非行の回り道を通らなければならないということは人間の悲劇である。人間は常に他人の目を意識している限り、真の内面性を持つことはできない。他人の目が届かないということで、はじめて内面性が存在する可能性が生まれてくるからである。しかし、この可能性を現実のものとすることは決して容易なことではない。それはしばしば甚だしい葛藤状況をひき起こす。実際に犯罪を犯していないのに、犯罪的心理を持たされることさえ稀ではない。それであるから、内面性確立の途上で、昔も今も、かなり多くの人々が、他人の目を愉しむ非行に走るのは、ほとんど無理からぬことであると言わなければならないのである。』(「甘え雑稿」より)

 もちろん、小林は少年ではないし、やったことも万引きとか西瓜泥棒のようなものではなく、到底「無理からぬこと」などと言える余地などないとも言えるかもしれないが、「世間に小林薫という名前を知らしめるためにやった」と小林自身が言っているかぎり、彼は本質的に「非行少年」なのだと思う。(万引きでも、西瓜泥棒ではなく、幼女誘拐殺人を選んだということには彼の性的嗜好が絡んでいるのかも知れないが、幼女なら簡単に盗むことができるということで選択しただけとも言えるので、そうだとすると、西瓜の代わりに幼女を選んだとも言える。)
 とはいえ、彼の選んだことは、「絶対悪」である。つまり、本質から言えば、世間から遮断された「秘密」を自分の内側に抱えることが内面性獲得につながる(これが土居健郎の「非行の心理」の要旨なのだが)はずだが、彼はなんらかの理由でそれをまっとうに考えること、あるいはまっとうに実現することを諦め、それ(秘密)を、もっぱら、世間に対する優越感に転化させて弄ぶようになったのだ。

 とつらつら考えるに、件の裁判官のように、「おまえの考えていることなんか、わしゃ知らないもんね」と阿呆のふりして彼をイライラさせるのも一つの方法のように思えるが、それじゃあ、「世間」の「まっとうさ」がぐだぐだになってしまう。犯罪といっても色々あるけれど、真摯に考えるべき時は考えるべきだと思う。